徳川光圀公(水戸の黄門さま)
神号は高譲味道根命(たかゆずるうましみちねのみこと)と申し上げます。
水戸黄門として今も親しまれている徳川光圀公(とくがわみつくにこう)[寛永5年(1628)~元禄13年(1700)]は、諡(おくりな)を義公(ぎこう)といい、お亡くなりになったとき、江戸の町には次のような狂歌が広まりました。
「天が下 二つの宝つきはてぬ 佐渡の金山 水戸の黄門」
このように人々は、なげき悲しんだと言われています。
また、光圀公の生前すでに、藩主時代に京都徳大寺の僧覚印は次のように佐々宗淳に語りました。
「我れ日本国中を見るに、最大なるもの二有り。富士山と水戸相公(しょうこう)也。」
霊元天皇からは「武を備え文を兼ねて絶代の名士なり」との御言葉を賜っています。
水戸徳川家第二代の藩主です。
明暦3年(1657)30歳のとき、江戸駒込の屋敷で学者を集めて『大日本史』の編集をはじめられ、(この時はまだ書名は決まっていなかった)のちに、これを小石川の屋敷(今の東京ドームのあたり)に移し「彰考舘(しょうこうかん)」と名づけました。
わが国では最初の文化的大事業で、多くの人手と年月をかけて、250年後の明治39年(1906)に完成しました。
光圀公ご自身は、全国漫遊をしておられませんが、彰考舘の学者を派遣して資料を全国に広く求められました。
義公(黄門さま)生誕の地
水戸市指定文化財(名称:義公生誕の地 指定年月日:昭和28年9月10日)
徳川光圀公(義公)は、水戸藩初代藩主頼房公の第3子として、寛永5(1628)年この地にあった重臣三木仁兵衛之次の屋敷で生まれました。
母は谷久子(靖定夫人)ですが、故あってひそかにこの屋敷に寄寓し、光圀を生んでも身分を秘し、三木夫妻が養育しました。
光圀公は幼名長丸(のち千代松)と称し、5歳の時公子として水戸城に居住し、寛永10(1633)年 6歳の時正式に世嗣として江戸の藩邸に移り、父の教育を受けました。
現在この地に水戸黄門神社(義公祠堂)が祀られています。
所在地:水戸市三の丸2-2-29
徳川斉昭公
神号は押健男國之御楯命(おしたけおくにのみたてのみこと)と申し上げます。
光圀公と共に常磐神社(ときわじんしゃ)にまつられ、諡(おくりな)を烈公(れっこう)(1800~1860)と申します。
光圀公以来の水戸の心を受け継いで、国史を貫く日本の道を明らかにし、「弘道館」(こうどうかん)[=藩の学校]を創設し、また幕末の黒船来航に際しては幕府の海防参与という役職について難局の処理にあたられました。
弘道館の教授頭取(きょうじゅとうどり)であった会沢正志斎(あいざわせいしさい)の著した『新論』(しんろん)は吉田松陰(よしだしょういん)など、明治維新の志士たちに大きな影響を与え、維新の原動力となったことなどから「天下の魁(てんかのさきがけ)、維新の魁」といわれ、『弘道館記』の草稿を起草し、『回天詩史』『常陸帯』『弘道館述義』や『文天祥正氣ノ歌ニ和ス』(正気の歌)の作者でもある、藤田東湖(ふじたとうこ)も斉昭公の側近でした。
斉昭公の七男に最後の将軍、徳川慶喜公がおります。
「黄門」とは…
中納言の唐名。元来は中国古代の宮廷の門の扉が黄色に塗ってあったことから、王宮の門の異称でしたが、秦・漢代には、この門の中にあって執務した侍従職の官職名として「黄門侍郎」の名がありました。
日本で中納言の異称とするのは、その職務内容が類似するためです。
「水戸黄門」は7人いた!!
徳川光圀公を「黄門様」の愛称でよぶのは、光圀公が権中納言で「水戸黄門」と称されたことによります。
水戸藩には権中納言に叙された歴代藩主が7名居り、従って「水戸黄門」と呼べるのは、光圀公を含めて7人ということになります。