【義烈館 休館について】
この度、諸般の事情により、令和4年6月1日からしばらくの間「義烈館」を休館させていただきます。
なお、10名以上のグループ・団体での拝観希望があれば、事前の申込みにより開館したしますので、お問い合わせください。
ご不便をおかけして申し訳ございませんが、何卒ご理解のほどお願い申し上げます。
お問い合わせ先:029-221-0748(担当:義烈館課 石原)
水戸のすごいものあります
光圀公・斉昭公の遺品遺墨をはじめ、
水戸史学・水戸学関係の資料と両公の御功績を助けた
家臣の書画・関係品を展示しています。
義公(徳川光圀公)木像
大日本史
すごいポイント:全国に資料を求め250年という永い年月をかけて完成!
『大日本史』の編纂にあたり、光圀公は、中国の史書にならって「紀伝体」という編集形式をとりました。天皇の本紀にはじまり、皇后・諸臣の列伝、外国伝、神祇志、仏事志などの十志、など全397巻、目録5巻という膨大なものとなりました。明暦3年(1657)にはじまり明治39年(1906)まで、250年という永い年月をかけて完成しました。光圀公の立てられた、編集事業の根本方針は代々の水戸徳川家の藩主が受け継いで監督し、実際の研究と執筆は代々彰考舘員が苦心努力したのであります。そして明治維新以後、藩が廃止されてからは、徳川家の事業として完成されました。この事業に携わった史臣の採用は、浪人・庶民でも有能なものを全国的に選抜採用し、各自の能力を十分に発揮できるようにしました。史料の最も多い京都の人を多く採用したのは朝廷・公家・社寺との交渉に力を入れたからであります。また、光圀公は編纂上の必要と、史臣の才能を活用して史学以外に新しい学問を興されました。和文・和歌などの国文学、天文・暦学・算数・地理・神道・古文書・考古学・兵学・書誌など、それぞれ貴重な著書編纂物を残されました。史論の上でも三大特筆は、光圀公の深い思慮決断の結果でありますが、中でも南朝正統論は湊川に楠公の墓碑を建てられたことと相俟って、後世の志士を感奮させ、王政復古の運動を導く大きな役割を果たしました。そればかりでなく、光圀公の理想は後世の史臣に深い思索と発明を促し、没後100年、藤田幽谷の出現によって尊王攘夷の運動を興させ、斉昭公の大改革を運で、西洋列強のアジア侵略の怒涛の中で、日本ひとり独立を全うし、明治維新を生み出したことは最も大きな貢献と言うべきでありましょう。編纂事業が完了し、「本紀」「列伝」「志」「表」の全てが揃い合計397巻と目録5巻が完成したのは明治39年(1906)のことでありました。
陣太鼓
すごいポイント:日本最大級の陣太鼓!
大砲 銘『太極』
すごいポイント:江戸湾防備のため水戸藩で鋳造して幕府へ74門を献上!
大砲『太極』は銅製火縄式の大砲で、口径35.7cm、砲身127cm、口辺の厚さは9cmです。 斉昭公の手蹟で、筆太に「太極」の銘が浮彫に鋳られています。型式は臼砲に属し「天砲」と言いました。 これにケヤキ材の、径58センチ、厚さ32センチの四輪の車架がつけてあります。 なお、鉄製の弾丸2発がそえてありますが、これは戦艦や砲塁などを破壊する破裂弾です。
・水戸市指定文化財「工芸品」
・指定年月日:昭和37年2月24日
斉昭公は欧米の侵略が、やがて我が国にも迫ってくるのを察して、尊王攘夷を唱え、思想統一と武備の充実に邁進されました。その一環として、斉昭公は城東の細谷に神勢館を創設し、五町矢場を築いて大砲射撃の演習をさせ、さらに館に付属した鋳砲場を設けて青銅砲を鋳造させ、那珂湊には反射炉を築いて、鉄製の大砲を鋳造させて武備の充実を図りました。この大砲は天保13(1842)年から翌年にかけて斉昭公が設計し、領内の寺院の鐘や仏像などを原料として鋳造された75門のうちの1門で、ほかの74門は嘉永6(1853)年ペリー来航の年、江戸湾防備のため、弾薬とともに水戸街道を人馬で牽引して江戸へ運び幕府へ献上されました。当時すでに水戸藩には、この他に多くの大砲が備えられていました。
開館時間 | 平日 9:30~15:30(梅まつり期間は平日でも下記時間) 土・日・祝祭日 9:00~16:00 |
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休館日 | 閑散期木曜日休館あり(お問い合わせ下さい) |
入館料 | 大人300円/小中生100円 20名以上団体割引あり |