義烈館前庭に「浪華の梅の歌碑」とともにあり。
義公は『梅花記』を、烈公は『種梅記』を書かれ、
水戸と梅との今に至る関係を明らかにしておられる。
これはまた、三人の黄門さまの合作であるということができる。
浪華梅
栗田寛先生(大日本史の最後を書き上げられた)の『常磐ものがたり』に浪華の梅について次のように書かれています。
(意 訳)
「光圀公・斉昭公が、ことさら梅をめでられたのは、どのような御志であったのかは、はかり知ることは出来ないけれども、義公は わかい御時から梅をこのまれて『梅花記』というものを書かれたのみならず、その花に縁りある「梅里」を号とされ、烈公は弘道館と偕楽園に梅を植えて『種梅記』を書かれているのは、持って生まれられた御性質にも、かなっていたのでありましょう。しかし二公が梅を好まれたことを知らぬ人も多いので、云々」として義公の『梅花記』をかかげ、さらに烈公の『種梅記』を挙げておられます。この中で烈公については、「若いころから梅を愛し、江戸藩邸の庭に数十株を植えていたが、藩主になって水戸に来てみると梅樹が少ないので、江戸藩邸の梅の実を手ずから採取して水戸に送り、偕楽園や近郊の隙地に植える種とした云々」と記されていることを挙げて、烈公が藩主になって始めて江戸屋敷から御入国の時、祖廟を拝して後、直ちに彰考館に行かれた時、筆をとって館の柱に
家の風 今もかをりのつきぬにそ
文このむ木の さかりしらるヽ
[写真] = 浪華の梅の歌碑拓本(徳川慶喜公筆)
という歌を書き付けられました。これは義公の浪華梅を植えられた精神を明らかにされ、それを受け継いでいく自分の志を述べられたものであります。
その後、廃藩置県の時に、有志の人々が、義公が手ずから植えられたという梅樹が絶え失せてしまう事の無いように、常磐神社に移し植え、さらに明治36年頃、慶喜公が「家の風…」の和歌を揮毫され碑面に刻み、また、栗田寛先生の起草になる、『浪華梅の記』を後の世のために碑陰に刻んだのであります。
浪華梅の記
むかし、難波高津の宮に、天下治しめしヽ天皇の御弟宇治の稚郎子、学びのわざを百済の王仁にうけ給ひて、兄弟徳譲の美あり、王仁なにはづの歌もて、御位に即し事を、ほぎ奉りしより、この梅のかをり世にひろく、文学のわざもみさかりにはなりけらし、其後菅原の神を始め、忠誠の心もて、朝廷につかへまつれる人々の、梅をめで給へるは、深き故こそあるらめ、抑西山の贈大納言の君は、わかき御時より、文武の業をたしなみ、彰考館を設けて、日本史を修むる為に、学士を招き、殊にこの花をめでたまふあまり、難波の宮にゆかりあるうめの木を、その館に移し植えて、文武の盛を此花にくらべむと、の給へりとぞうけたまはる、然りしよりこなた、世々の君たち、西山公の御心をうけ継て、日本史の紀伝みな梓にのせて、世に広まりしかば、景山贈大納言の君は、殊に志表をものすべく史臣に仰せて、なほも文学を、みさかりに励し給ふ折りしも、此樹ますますさかえて、花のかをり、こよなく国内にみちみちたりければ、文好む木のさかりしらるヽとは、よませたまへるなるべし、すべて世に盛衰栄枯あれども、明君賢佐の国の為世の為に、御心を尽さるヽ事は、古今のかはりあるまじくなん、かかれば、高津の宮にこの文も花も開けそめしより、菅原の朝臣は、文章博士に起りて、藤原氏の権を抑へ、かしこくも、御門の政をたすけ、殊に此花をめでて、文学の宗とは仰がれ給ひし、然るに我常磐の社にます二柱の神の、文学を世にひろめ、名分を明にして、朝家に仕奉り給へるは、さるものにて、一柱は梅里のむかしをしたひて、国譲の美徳おはしまし、一柱は其芳をつぎ給へて、御門の守り我をおきて、また人はあらじと、雄たけび給へる、忠誠の情は、いづれも北野の神におとらざるべし、さて官幣の社といつがれ給へる其功悳は、わするべくもあらぬに、志ある人々はかの難波の梅のかほりをも、長き世に伝へむと、もとの彰考館より、この御社にうつしうえ、石を立て景山公の御歌をえりたるは、君と臣とのけじめの正しき学びのわざを、いやますますにひろめて、かのあだし国の君父をなみするきたなき教を、はびこらしめじと二柱の神にここひのみ奉る心しらひにこそはありけれ、かれうたひけらく、此花のにほふが如くうるはしき、神の御稜威をあふがさらめや、かく言挙する者は、おほけなくも、いま日本史編輯の事に仕奉る、旧水戸藩の士籍につらなる栗田の寛になむ