黄門さん(光圀公)

とくがわみつくにこう
徳川光圀公
ようこそ <庶民に愛された 西山荘のご隠居さま のコーナー・・!!>へ
ご隠居さまは
- 水戸黄門として今も親しまれている
徳川光圀公(とくがわみつくにこう)(1628~1700)は、
諡(おくりな)を義公(ぎこう)といい、お亡くなりになったとき、
江戸の町には次のような狂歌が広まりました。
- 天が下 二つの宝つきはてぬ 佐渡の金山 水戸の黄門
このように人々は、なげき悲しんだと言われています。
- 水戸徳川家二代目の藩主です。明暦3年(1657)30歳のとき、
江戸駒込の屋敷で学者を集めて『大日本史』の編集をはじめられ、(この時はまだ書名は決まっていなかった)のちに、
これを小石川の屋敷に移し(今の東京ドームのあたり)
「彰考舘(しょうこうかん)」と名づけました。
- わが国では最初の大文化事業で、多くの人手と年月をかけて、
250年後の明治39年(1906)に完成しました。
- 光圀公自身は、全国漫遊をしておられませんが、
彰考舘の学者を派遣して資料を全国に広く求められました。
- 茨城県水戸市の常磐神社(ときわじんじゃ)にまつられています。
- もっと詳しい事を、お知りになりたい方は、下の項目(・・・へ)をクリックして下さいねっ!!
- 水戸黄門について ========>蔵~資料館~へ
========>義公年譜へ(黄門様の一生がわかる)
- 常磐神社 由緒について====>蔵~資料館~へ
- 『義公修史の開いた道』====>水戸学講座(講録バックナンバー)へ
- 『大日本史』の編纂と完成====>蔵~資料館~へ
- 『義公・烈公・みかけあふき』====>水戸学講座(講録バックナンバー)へ
- 水戸黄門として今も親しまれている
徳川光圀公(とくがわみつくにこう)(1628~1700)は、
諡(おくりな)を義公(ぎこう)といい、お亡くなりになったとき、
江戸の町には次のような狂歌が広まりました。
- 天が下 二つの宝つきはてぬ 佐渡の金山 水戸の黄門
このように人々は、なげき悲しんだと言われています。
- 水戸徳川家二代目の藩主です。明暦3年(1657)30歳のとき、
江戸駒込の屋敷で学者を集めて『大日本史』の編集をはじめられ、(この時はまだ書名は決まっていなかった)のちに、
これを小石川の屋敷に移し(今の東京ドームのあたり)
「彰考舘(しょうこうかん)」と名づけました。
- わが国では最初の大文化事業で、多くの人手と年月をかけて、
250年後の明治39年(1906)に完成しました。
- 光圀公自身は、全国漫遊をしておられませんが、
彰考舘の学者を派遣して資料を全国に広く求められました。
- 茨城県水戸市の常磐神社(ときわじんじゃ)にまつられています。
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