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烈公以降・明治の名文

    ---「議建設義烈二公神社状」
      「義烈二公の神号に関する議案」等---

                  但 野 正 弘


   (1) はじめに
 みなさんおはようございます。十二月に入りまして、今年も暦をめくる枚数が無くなりました。最後の月になった訳でございまして、急に冷え込みもきつくなって参りました。第十二回を迎えました本年度の水戸学講座も、第五回目、最終回ということになりました。
 今年の講座の総題は、「水戸先哲の不朽の名文」でございました。
 第一回の八月六日には宮田正彦先生が「義公の名文」。
 第二回の九月三日には、梶山孝夫先生が「義公時代史臣の名文」。
 第三回の十月一日には杉崎仁先生が「中後期史臣の名文」。
 そして第四回の先月十一月五日には安見隆雄先生が「烈公の名文」という題で、それぞれ解説をされました。
 本日の第五回目は私の当番で「烈公以後、明治の名文」と題しまして、常磐神社の創建に関する建白書であります栗田寛先生が起草されました二つの文章、一つは「議建設義烈二公神社状」、もう一つが「義烈二公の神号に関する議案」この二つにつきまして皆様とご一緒に拝読して、明治の初年におきまして水戸の先輩たちが、どのような気持から常磐神社の創建に尽力されたのか、また御祭神であります義公と烈公のいかなる点を御神徳として仰ぎ、お祀りしようとされたのか、というような点に焦点を当てて考えてみたいと思います。

   (2)常磐神社創建に至る事情
 この二つの文章を拝読する前に、まずどのような歴史的経過を経て常磐神社が創建されるに至ったのか、ということについて、ごく簡単に年譜によっで繙いてみたいと思います。なお詳しいことは、常磐神社発行の『常磐神社史』という立派な書物が刊行されておりますので、是非みなさんにもお読みいただきたいと思います。また既にお読みいただいている方も数多くおられると思いますが、これは水戸史学会埋事の照沼好文先生が詳しい解説を書かれております。
 さて年譜によって簡単に説明して行きますと、お手元に、「常磐神社創建関係略年譜」というものを書き出しておきました。義公・烈公が朝廷から追贈されたということにつきましては、まず天保三年(一八三二)五月に、仁孝天皇から義公に対し、従二位権大納言の追贈がなされております。それから烈公に対しては、文久二年(一八六二)九月に孝明天皇から同じく従二位権大納言が贈られております。
 そしてさらに明治に入りまして、明治二年(一八六九)十二月に明治天皇から義公・烈公に対し、従一位が追贈されました。翌明治三年には、当時義公の神像というものが水戸城内の二の丸にあったそうでありますが、それを彰考舘に移してお祀りすることになりました。
 丁度同じころ初代藩主の成公(頼房公)と義公をお祀りする祠堂建設の請願というものが、当時の知藩事、これは明治二年に版籍奉還というのがございますね。このときに旧藩主が知藩事という地位に改められたのであります。その知藩事は水戸第十一代藩主、徳用昭武公であります。この昭武公に対して請願が出されていたのであります。その中心になられたのが栗田寛博士でありました。
 栗田博士については皆様もよくご存じの方ですから、詳しくは申し上げませんけれども、お生まれは天保六年(一八三五)、水戸下市の本六丁目の商人の家に生まれられ、安政五年(一八五八)二十四才の時に彰考舘に入られました。
 以後幕末から明治維新という激動期にあって、義会公以来の大事業である大日本史の完成に向けまして、文字通り命懸けで力を尽くされた方であります。
 その栗田博士は、輝かしい明治維新を迎えながら、なお幕未以来の混乱、悲劇が尾を引いている水戸においては、なによりも義公の精神を復活し、それを継承して行く心を、水戸人に自覚させることが不可欠であると考えられまして、まず義公をお祀りする祠堂を建設しようという請願が、明治三年当時知藩事の徳川昭武公になされていたのであります。
 一方すでに義公の神像は彰考舘にお祀りされていたのでありますが、その彰考舘も転々と移る訳です。これは昨年、あるいは一昨年、この講座でも先生方がお話しになっておられますが、明治四年から五年にかけて、水戸城内から三の丸の弘道館へ移ります。ここからさらに柵町の別邸(ここは義公が生まれられました昔の三木仁兵衛之次の屋敷跡で、中御殿という御殿がありました。)に移され、さらに偕楽園の東南隅に移されました。
 その場所ですが、駐車場から東鳥居を入った辺りにあったようです。後になって偕楽園の南崖に彰考舘が移されています。
 水戸城内から弘道館、柵町の中御殿、そして常磐神社の東南隅と彰考舘が移されまして、その度にご神像も移されて来たようです。
 明治五年になりまして、月はわかりませんけれども、彰考舘に仮に奉斎されておりました義公のご神像は、偕楽園内の烈公の祠堂に移され、併せて祀られることになりました。場所は、東門から入りまして、好文亭に向かって、まっ直ぐな道路を参りますと、右手に藤棚があり、その北側の土墨に囲まれた所がありますが、そこが烈公の祠堂のあったところです。そこへ義公のご神像も一緒にお祀りされたのでありました。
 丁度そのころ、明治五年十月頃と思いますが、義公と烈公の神社を奉斎しよう、お祀りしようという、神社創建の議論が高まってきました。
 何がきっかけとなって創建の事が出て来たのかと言いますと、太政官布告でしょうか、公園法というものが出来ました。そこで当時の茨城県の県庁内部でも、偕楽園と好文亭一帯を一般開放の公園にしてしまおうという計画が進んでいたそうであります。それを知った水戸の有志たちの間に、単なる公園として開放することは承服出来ない。烈公が開かれた大事な庭園であるから、ただ一般的に公開してしまうということには、簡単には賛成出来ないという雰囲気がありました。
 そこで栗田博土たちは偕楽園内の祠堂に義・烈両公をお祀りしているので、この際、偕楽園の一隅に両公を奉斎する正式な神社を創建し、偕楽園一帯を神社の御神域として、そのうえで一般の人達が公園の中に入るというように、あくまでも神社の御神域の一部という形で、偕楽園を考える必要があるという提案がなされるようになりました。
 こうした事情から栗田博士はお手元に差し上げたような建白書を起草されます。それが「義烈二公の神社を建設せんことを議するの状」という文章になるわけです。
 前に申し上げましたように、栗田博士は幕末の水戸藩において、彰考館に勤務しまして、総裁である豊田天功先生の下で大日本史の編纂に携わり、義公の精神を学ばれた方でありますし、また彰考館に入った安政五年というのは、まだ烈公が在世中であります。ですから栗田博士の立場では、烈公に直接お会いする機会はなかったでしょうけれども、烈公の風格というものは、回りのひ人の話から、青年時代の栗田博士も肌身に強く感じ取っておられたと思います。
 従って義公・烈公の精神や事蹟につては、今日私共が考える以上に、栗田博士たちにとっては、切実な体験であり、考えがあったと思います。
 その栗田博士が起草された建白書であります。この常磐神社の創建という問題にあたって、我が国の歴史上における義公・烈公という方が、どんなすばらしい業績を残されたのか、またその意義についてはどのように書かれているのかということについて、これから皆様と一緒に考えてみたいと思います。
 本来、こうした文章を拝読する場合には、まず通読してから簡単に解説するのが形でありますけれども、時間の関係もありますので、本文を拝読しながら、少しづつ解説して参りたいと思います。なお本日は二つの文章を予定していますが、時間もありませんので特に細かい解説をするのは、初めのほうの文章と致します。

   (3)「義烈二公の神社を建設せんことを議するの状」
◎凡事固ニ成ルノ日ニ成ルニ非ズシテ、形ナキノ日ニ成ル。
 凡そ物事というものは、固にというのは、もともと、勿論という意味です。物事と言うものは、必ずしも成功したい時に成功するとは限りません。成るような形勢でない時に成功することがあります。
◎事固ニ昔日ニ行ハレ難クシテ、今日ニ行ハレ易キモノアリ。
 過去においていろいろと困難な事情があって出来なかったものが、むしろ今日において実現しやすい事があります。
◎昔皇室ノ衰フルヤ、保元平治ヨリ後、
 昔、これは平安時代の終わりころ、皇室が次第に衰微されて来て、保元元年(一一五六)崇徳上皇と後白河天皇の兄弟争いから、これに摂関家の兄弟争いが加わり、さらに源氏の中の親子兄弟が敵味方に分かれ、平氏も平忠正と平清盛という叔父甥が敵味方に分かれて戦った保元の乱。その三年後の平治元年(一一五九)には、保元の乱で味方同士であった源義朝と平清盛が対立し戦った平治の乱が起こりました。
 この二つの乱は、原因が非常に深刻な身内の争いにあつた訳ですが、戦の大義名分というものが、まことに不明確な戦いでありました。しかしその勝敗を決したのが武士の力であったということで、やがては武家政権が開かれて行くという点から考えて、後世に非常に重大な影響を残した戦いでありました。
◎禍亂相踵テ君臣ノ義殆ト絶減シ、内外ノ分大ニ紊乱シ、
 はたしてその乱の後に、戦乱が相次いで起こり、道徳の根本である君臣の義はほとんど絶滅してしまいました。道義・道徳が大変乱れる時代になりました。
◎皇天為メニ英偉非常ノ人ヲ生テ、民彝綱常ヲ維持セシム。
 しかしこのような時にこそ天の神は優れた非常の人をこの世に生み出し、人が守り踏み行うべき道、道義道徳を正しく維持させる努力をされたのであります。その歴史事実をあげまして、
◎故ニ元弘建武ニ楠、新田等ノ諸氏、皇室ノ為ニ鞠窮盡力シ、
 後醍醐天皇が北条氏の鎌倉幕府を討滅された元弘三年(一三三三)の討幕事業において、また建武二年(一三三五)に後醍醐天皇に反旗を翻した足利高氏(尊氏)との戦いにおいて、楠木正成・新田義貞をはじめとする一族は、皇室のために身を挺して力を尽くしました。
 この辺の歴史事実は皆さんよくご存じと思います。
◎永禄天正ノ間ニ織田豊臣ノ二氏、必ズ王命ヲ奉シテ残暴ヲ誅鋤シ、
 次に、永禄天正は戦国時代の終わり頃になりますが、織田信長・豊臣秀吉が皇室に忠誠を誓い、天皇の命を奉じて残忍暴虐な乱世を、(誅鋤というのは鋤で草木を根っこから掘って取り除くことです)根こそぎ取り除いて天下平定の事業を進めました。
◎徳川氏相継テ天下ノ乱ヲ撥シ、天子ヲ翼載セリ。
 続いて徳川家康は戦国以来の天下の乱世をおさめ正にかえし(撥乱反正)、天子を大きな翼の上に載せるがごとくお輔けしたのであります。
 勿論徳川氏の皇室に対する態度には江戸時代を通じて多くの問題がありました。しかし水戸家につかえました栗田博士の立場では、一応ご本家ですから、本家の先祖である家康の功績を讃えている訳です。そしていよいよ建白の中心は水戸に移ります。
◎其孫源義公世ニ出ルニ及テ、戦国ノ餘習未ダ除カズ、尊王正名ノ義、闕クル事アルヲ以テ、道義ヲ明ニシ風教ヲ植ルニ志アリ。
 家康の孫に当たる義公、徳川光圀公がこの世に出られました。戦国時代の殺伐とした風習が未だ十分に払拭されず、皇室を尊び名分を正すという道義の根本に欠けるものがありましたので、道義を明らかにし、風俗を教化しようという志をもたれました。
◎即皇朝正史ノ闕逸ヲ患ヒ、天下ノ為メニ堕典ヲ修ソト欲シ、学士ヲ四方二徴シ、逸書ヲ遐壌ニ求、遂ニ大日本史、禮儀類典等ヲ纂述シ、
 そこで我が国の歴史書に欠けて散逸しているものがあることを大変憂慮され、天下のために廃れた歴史書の編修、特に平安時代以降、正式な我が国の歴史書が編纂されなくなり、戦国の時代でありますがら史料が散逸して失われます。そこで六国史以後の日本の正しい歴史を編纂しようという志を立てられたのでありました。
 そのために学識ある学者・史臣を全国から招いて彰考館に集めました。散逸している史料や書物を、遠く離れた土地にまで探索の手を伸ばして求めました。即ち佐々介三郎宗淳とか鵜飼錬斎などを中心とする史料の採訪蒐集です。特に佐々介三郎宗淳は丸州鹿児烏の坊津あたりまで行っております。そういう非常な努力をされまして、ついに紀伝体の歴史書である『大日本史』、朝廷の儀式に関する有職故実(皇室の儀式や制度に関するものを有職故実といいます)、そういうものを纏めた『禮儀類典』という膨大な書物などを編纂されました。後の天皇のご即位式・大嘗祭などにはこの書物が大変に役に立ちました。先年の今上陛下のご即位式にもこれが役に立っているのではないかと思います。
◎皇統ノ正閏ヲ辨ヘ、君臣ノ大義ヲ明カニシ、尊卑内外ノ分、人臣正邪ノ別ヲ正シ、
 そして歴史等の編修を通じて皇統の正統と閏統、この正とか閏というのは善悪とか、良い悪いという意味ではなく、例えば閏年というように、付け加えた形で正に対して閏と言う意味ですから、正しい皇室の皇位継承の筋道に則って即位された系統と、同じ皇室の血縁の方ですけれども、正式なご即位とは認められないというふうに考えていただければよいのです。
 この正統と閏統とを弁別して、具体的に申しますと、武家政権である足利氏が立てた京都の北朝は閏統である。吉野の後醍醐天皇の朝廷こそが道義の上から言って正統である。即ちこれが南朝正統論になるわけです。その皇統の正閏を弁え、はっきりとさせまして、君と臣との関係における根本の道義、即ち大義と言うものを明らかにされました。
 また我が国と外国との違いは何であるか、多くの人が義公当時でも、シナのことを中華と称しておりました。義公はこれは中華と呼ぶべきではない。『中華』とその国の人が呼ぶだけなら良いが、中華の東の我が国を東夷、西を西戎、南を南蛮、北を北狄という。南の方からやって来たのを南蛮渡りと申します。要するにシナは自分の国が華の国で、周りは東夷・西戎・南蛮・北狄という、ぜんぶ野蛮国であるという考え方であります。だから、あの国の人が言うのは構わないけれども、日本人が、あのシナを中華と呼び、自分の国を東夷と呼ぶのはどういうことだ。こういう考え方は間違っている、と言うふうに義公は言って厳しい批判をしておられる。
 歴史上の人物についても、世間的にあの人は立派な人物だとか、あの人のやったことは正しいのだというような、世間の一般的な評価でなくて、それぞれの歴史上の人物の出処進退、特に重大問題が起こったときに、この人はどういう歩み方をしたか、どのような態度を取ったか、それを厳しく批判し判別を下す。それによって人物の正邪というものを弁別する。これを正されたのであります。
 単に一般的に活躍したから立派な人であるというものではない。権力を握ったからと言ってそれが正しいというものではない。日本の道義・道徳に照らして、その歴史的な重要な問題の時に、その人がどの方向を歩んだか、何を考え何を実行したか。それによって人の正邪を判断すべきである。こういうことを明確にされたのであります。
◎上ハ神武帝山陵修復ノ議ヲ興シ、
 次にちょっと話題が愛わりまして、さらに日本の建国の昔に思いを馳せまして、神武天皇の御陵修復についての議論を起こされました。これは元禄七年(一六九四)秋に、義公が史臣の森儼塾と言う人に命じて、この方は彰考館の学者ですが、神武天皇の御陵を修復することを建議する上表文の草稿をを書かせたことがあります。ただし宛て先が書かれておりませんから、どこへ出そうとしたのか分かりません。何か困難な事情があったとみえて、実際には提出されませんでした。幕府へ提出しようとしたのか、皇室へ提出しようとしたのか、その辺が分かりません。しかしながら建国の祖である神武天皇に対する義公の景仰の気持というものは、かなり明確なものがあったというふうに推定できます。
◎下ハ忠臣楠氏ノ墓ヲ表章セシカバ、
 また下っては、後醍醐天皇の忠臣、楠木正成公即ち楠公のお墓を造って、「嗚呼忠臣楠子之墓」と墓表に書き記され、楠公の忠誠を天下に明らかにされたのであります。本来は楠氏の氏は子供の子でなければならないのであります。氏と書くと楠一族ということになります。子は先生という意味です。孔子・孟子というのは、孔先生、孟先生と言う意味です。栗田博士は氏の方を書かれてしまったのですね。
 この碑は元禄五年(一六九二)に史臣である佐々介三郎宗淳に命じまして神戸の湊川に建立されたものであります。
◎濛々ノ雲霧ヲ排テ赫々ノ太陽ヲ見ルガ如ク、天下暁然トシテ、天祚ハ萬古不窮ノ皇統ニシテ天皇ハ宇内無比ノ至尊ナルコトヲ喩レリ。是レ天ノ此人ヲ生ジテ、民彝綱常ヲ維持スル者一非乎。
 以上のような義公の建議・事業によって、薄暗く立ち込めた雲や霧を吹き払って、赤々と光り輝く大陽を仰ぐように、世の中の人々がはっきりと、天皇の御位は、永遠に極まりなき皇統によって継承されるべきものであって、天皇は世界に比べ物のない、最も尊いお方であるということを自覚するようになったのであります。
 このことを考えてみますと、これはまさに、天の神が、義公という方をこの世に出現させて、国民の道徳、道義を維持させようとされたのではないでしょうか。それ以外には考えられません。
◎然ラバ則、今日勤王ノ人アリト錐トモ、義公ノ此擧アラズンハ、誰カ又明カニ王室ノ尊ブベク、覇府ノ卑ムベキヲ知ルコトヲ得ン。
 ですから今日勤王の志をもつ人がいるとしても、水戸の義公による「道義を明らかにし風教を植る」という理想実現に対する努力。大日本史編纂をはじめとする各種の事業が実践されなかったならば、誰も皇室の尊厳なること、覇府、即ち武力によって獲得された政権は、本来的には決して貴ぶべきものではないのだ、ということを知ることは出来なかったでありましょう。
◎故ニ曰、固ニ成ルノ日ニ成ルニ非ズシテ、無形ノ日ニ成ルト云フモノ、之ガ為ナリ。
 そこで、はじめに申しましたように、成し遂げたいなあと思う時に必ずしも実現出来るものではなく、後の時代になって、成るような形勢・状況で無いときに成就出来る。というのはこのことを言ったのであります。
◎然レトモ天下兵馬ノ権、悉ク関東ニ帰シ三百諸侯大概其頤指ニ供スルヲ以テ、権臣或威福ヲ弄シ、動モスレバ朝廷ヲ軽侮脅制スルノ意ナキニ非ズ。
 しかしながら天下の軍事統率権は、京都の朝廷にあるのではなく、関東の徳川氏、江戸幕府に掌握されております。全国の三百諸侯、実際には二百六十から二百七十くらいでありますが、その殆どが顎で指図されて、幕府の言いなりになっている状態であります。幕府の権力の座にある大老や老中などは権威と恩恵とを弄んで、どうかすると朝廷を侮辱したり脅迫したりする意識が現れてくるのであります。
◎當時上野ニ高山正之アリ、天下ニ周遊シテ義士ノ気ヲ鼓舞シ、下野ニ蒲生秀実アリ、皇朝ノ典禮ヲ明ニシ、王室ヲ興復セントハカリシハ、蓋皆義公ノ風ヲ聞テ起レル者ナリ。
 江戸時代の中期から後期にかけて、上野国、いまの群馬県に高山彦九郎が出まして、全国を巡り歩いて優れた人物をどんどん発掘しています。そして正義の士の士気を鼓舞しました。東湖先生のお父さんの幽谷先生なども、彦九郎が水戸に来たときに会って、彦九郎から、これはすばらしい青年だ、大いに勉強して立派に成長しなさいと激励されています。この高山彦九郎によって見いだされた人物が数多く全国にいるようです。
 次に下野の国、栃木県に蒲生君平が出まして、『職官志』という書物を著し、皇室の儀式や制度を明らかにし、皇室の復興を実現しようと図ったのであります。高山彦九郎にしろ浦生君平にしろ、よくよく考えて見ますと、いずれも義公の崇高な精神を聞いて奮起した人々なのであります。
◎義公七代孫源烈公非常ノ英才ヲ以テ、大有為ノ念ヲ抱キ、義公ノ志ヲ継ギ、神ヲ敬シ邪ヲ排シ、忠孝無二文武不岐ノ論ヲ唱ヘ、専ラ藩屏ノ職ヲ竭シ、朝廷ノ秕輔タランコトヲ思ヒ、
 ここから烈公の話に変わります。義公から数えて七代目の子孫であります源烈公は、非常な英才でありまして、自ら大いなる理想を抱き、義公の志を継承して、神道を崇敬し邪説を排斥して、弘道館記の中に示されていますように、忠孝無二、文武不岐を目標に掲げまして、ただひたすらに天子様をお護りする守護としての職、御所をお護りする垣根のようになる、守護としての職をつくし、朝廷をお援けする比翼となることを心掛けられました。
◎神武帝二千五百年ノ期ニ、橿原ノ山陵ヲ修復センコトヲ図リ、
 神武天皇のご即位から数えて、すなはち辛酉の年正月九日と日本書紀に書かれているその年から数えて、紀元二干五百年目が天保十一年(一八四○)に当たる。この年に大和橿原の神武天皇の御陵を修復する計画を立てられました。
 これは前に述べました義公の御陵修復の建議を継承されるものです。藤田東湖に対しても是非実現したいので検討せよ、と言うことを命じておられまして、これを遡る六年前天保五年に早くも老中の大久保忠真宛に建議の書状を提出しています。これも結果的には幕府が全く積極的にならず、実現しませんでした。昔あるところで見せて載いたのですが、「紀元二千五百年」と入った墨が作られております。ですから水戸では紀元二千五百年という意識は非常に強かったと思います。
◎又蝦夷ヲ開拓シテ北門ノ鎖鑰トナル事ヲ期シ、屡大計長策ヲ献ジ、天下ノ諸侯ニ先テ既ニ勤王ノ功烈アリ。
 もうひとつ次に、烈公は蝦夷地、今日の北海道を開拓して、北方の錠と鍵、即ち北方の警備の役を担当したいと幕府に北地開拓を請願しました。北海道の護りに任じたい。北海道へ行かせてほしいということを幕府に建白しています。
 なお蝦夷地を「北海道」と改称するようになったのは、明治二年八月からですが、『水戸藩史料』によりますと、天保十年(一八三九)に烈公は幕府に対して、蝦夷地を「北海道」と名付くべきである、ということを提言している。実際に北海道に改まるのが明治二年(一八六九)ですから三十年前に烈公はこの提言をしております。
 一般には三重県、伊勢の出身で松浦武四郎と言う人がおります。この方が明治二年に開拓使判官というものに任命された時に、「北海道」の名称を選んだ、と言われています。正式にはその通りだと思いますが、松浦武四郎は水戸藩の人々と深い交流がありましたので、烈公の考えを当然聞いていて、それが元になって明治になってから、「北海道」と称することを彼が提案したのであると思われます。ですから松浦武四郎が独自に発案したのでなく、既に三十年前に烈公によって提案されていたものが、そのまま生かされた、と考えて良いと思います。従って「北海道」の本当の名付け親は烈公である。ということになります。
 烈公はこのように、しばしば国家の将来を見据えた遠大な計画を提言されたのであります。それはまさに全国の大名の魁として、魁と言う言葉は重大な言葉でありまして単純に使う言葉ではありません。水戸は天下の魁となるんだという大きな使命感に燃えていたのであります。全国大名の魁として勤王の功績が顕著なのであります。
◎故ニ先帝亦深ク依頼シテ、神州ヲ富嶽ノ安キニ措ンコトヲ計リ玉ヒキ。
 それで孝明天皇も烈公を深く信頼されて、烈公の勤王の功績によって、国家の安定が実現することを期待されたのでありました。
◎然ルニ、烈公時ノ不良ニ逢ヒ、幕府老吏ノ為ニ忌マレ、其忠憤慷慨ノ気欝抑シテ発セズ、徒ニ志ヲ齎ラシテ渡仙セリ。
 ところが烈公は時勢の不運に遭遇され、幕府の老獪な役人たちに忌み嫌われ誤解され、活動の自由を奪われてしまいました。即ち安政の大獄です。そのため忠義を尽くそうという忠憤慷慨の気持も、抑圧うっ積して、外に向かって発することが出来ず、ただその志をじっと胸に秘めたまま、万延元年(一八六○)八月烈公は亡くなられてしまわれたのであります。
◎彼高山、蒲生ハミナ匹夫ナリ。其事ノ當日ニ行ハレザル、亦宜ナリ。烈公ハ一国ノ主ナリ。而テ大ニ其志ヲ伸ルコト能ハザルハ、遺憾ナキニ非ズ。
 あの高山彦九郎や浦生君平は、いずれも身分・立場の低い人々でありますから、彼らの考えや計画が、その当時においてすぐに実現出来なかったとしても、それはやむを得ないことであつたかも知れません。しかしながら烈公は一国の主なのです。にもかかわらず、その志を最大限伸ばすことが出来なかったということは、誠に恨み、悔やむ気持が残ることであります。
◎然レトモ、天下忠義慷概ノ士ミナ、其風ヲ聞キ其志ヲ感ジ、雲合霧集シテ勤王ノ説ヲ主張シ、遂ニ復古ノ業ヲ成シ、萬民ヲシテ朝廷維新ノ徳澤ヲ被ラシム。
 しかしながら現状に憤激する忠義の志士たちは、みな烈公の精神を聞き、遠大な志に感動し、雲や霧が集まるように、動王の志士たちが結集し、人々に勤王を説きました。その結果、ついに王政復古の大事業が成就し、国民は朝廷による維新の恩恵を蒙ることになったのであります。
◎是一人独力ノ能為ス所ニアラズ、天下忠義ノ士協心戮力ノ致ス所ト雖モ、恐ラクハ烈公奮発鼓動ノ力ニ非ズト謂フベカラズ。
 もちろん王政復古・明治維新という大事業の達成は、一人の力でなし得たものではありません。天下の忠義の志士たちが、心をあわせ、力を尽くして努力した事は間違いありませんが、私が思いますに、烈公が人々の心を奮いい起こし、動かした力によるものでは無い、とは断言出来ないのであります。やはり烈公の力が大きかったと思うのであります。
◎故ニ曰、事ハ固ニ昔日ニ行ハレ難クシテ、今日ニ行ハレ易キモノアリトハ、之ヲ云フナリ。
 三度、ここで同じことを言われているのですが、過去においていろいろな事情があって出来なかったことが、むしろ今日において実現するということであります。
◎嗚呼義公ノ義タル所以、烈公ノ烈タル所以、既已ニ此ノ如シ。故ニ朝廷又追贈ノ賞典アリ。其恩澤實ニ深厚ト謂フベシ。
 ああ、義公の義という諡の字、烈公の烈という諡の一字、よってきたるところの、いわれというものは、既にこれまで述べて来た通りであります。ですから朝廷でも義公烈公に対し追贈がなされたのであります。その天皇からの御恩というものは、実に深く厚いものがあるというべきでありましょう。はじめに申しましたように、明治二年に「従一位」が贈られています。そのことを栗田博土は言われているのであります。
◎夫聖王ノ祭祀ヲ制スルヤ、法以テ民ニ施セバ之ヲ祀り、死以テ事ヲ勤ムレバ之ヲ祀り、労以テ国ヲ定ムレバ之ヲ祀り、能大(サイ)ヲ禦キ大患ヲ桿ク時ハ、則之ヲ祀ルト云ヘリ。
 一体、聖天子の祭祀と云うものを見ますと、立派な政治を行って国民生活に益をもたらした者は神として祀られております。命をかけ、死をもって国事に勤めた者も同じように祀られております。非常な苦労をして戦乱などを平定した者を祀ります。また外国からの侵略とか大災害といったものから、国家国民を救った者も、またそれぞれ神として祀られているのであります。
◎楠、新田ノ如キ、難ニ殉ヒ王ニ勤ム。其英風義烈宇宙磅薄セリ。祭ラズンバアルベカラズ。織田豊臣ノ雄才大略、皇家ヲ奉戴シテー世ヲ鞭笞シ、天下ヲ略定ス。祀ラズンバアルベカラズ。然レトモ、楠、豊臣ヲ除クノ外、追贈の典、神號ノ賜ニ洩ルゝモノアリ。豈朝廷ノ闕事二非スヤ。
 楠木正成や新田義貞及びその一族の人々は、国難に殉じ勤王に命をかけました。その優れた徳風、義烈の気象は広い宇宙を覆い尽くす大きさがあります。これは当然祀られなければなりません。また織田信長や豊臣秀吉は雄大な才略によって、室町・戦国時代を通じて衰徴の極におられた皇室を奉戴し、乱世に厳しい鞭を振り下ろして天下を平定しました。これらの人々も祀られるのは当然であります。しかしながら楠木とか豊臣は別として、そのほかに追贈の栄典、あるいは神様としてお祀りされる方で、神號の朝廷からの御下賜に漏れているものがあります。これは朝廷の手抜かりではありませんか。
◎彼高山、蒲生ノ類ヨリ、戊辰ノ功臣ト戦死ノ士トニ至マデ、王政復古ニ勲アル者、追贈神號ノ賜ニ與カレリ。而テ獨リ義烈二公ニ至テハ、未ダ秩祀ノ典禮ヲ蒙ラズ。是亦朝廷ノ闕典ニ非ズヤ。
 あの高山彦九郎や蒲生君平などの人々から明治戊辰の役に功績のあった者や、戦死したものに至るまで、王政復古に勲功のあった者はいづれも追贈・神號の下賜の恩典に浴しているではありませんか。これに対し、水戸の義公と烈公だけは、国から未だ正式に神としてお祀りされる取り扱いを受けておりません。このこともまた朝廷の手抜かりではありませんか。どうして義公・烈公がお祀りされていないのですか。
◎二公ノ如キハ、法以テ民ニ施シ労以テ国ヲ定ムルノ功アリ。而テ之ヲ祭ラズンハ、恐ラクハ天下忠義慷慨ノ士ノ志ヲ孤ニシテ、二公ノ神魂ヲ慰スルコト勿ラン。
 義烈二公のごときは、正しい政治の規範と云うものを領民に施し、大変な苦労・努力をして国を治めたという功績があります。にもかかわらずこれをお祀りしないというのであれば、天下の忠義を尽くし、世の中の現状を憂い嘆く人々の志、理想と云うものを、孤立無援にさせてしまうでしょう。同時に二公の御魂をお慰めすることは出来ないでありましょう。
◎今日朝廷ノ賢宰良弼果シテ能茲ニ注意シ、我茨城県神崎村偕楽園中ニ在所ノニ公神像ヲ以テ霊形トシ、神號ヲ下シ賜ハゝ、豈啻一國士民鼓舞歓抃スルノミナランヤ。大ニ天下忠義ノ素望ニカナハン云云。
一『水戸藩史料 下編』一
  
 今日、朝廷における賢明な宰相、あるいはこれを輔ける官吏たちが、この点に十分注意し、我が茨城県神崎村、この辺一帯がそうですね、その偕楽園の中の祠堂に安置されている義公と烈公のご神像を、ご神体として神號を下されたならば、どうして一国の国民が励まされ、手を打って喜ぶだけに止まるでしょうか。それは大いに天下忠義の士の、永い間の念願に叶うものでありましよう。

   (4) 常磐神社創建の実現に向けて
 以上が全文でありますが、長い文章でありますので時間をかけてしまいましたが、以下簡単に次のことをお話しさせて戴きます。
 栗田博士が起草された神社創建の建白書は、これにさらに神號宣下の願書が付けられまして、間もなく県当局へ提出されたようです。しかしこの請願には、思いもよらない難関が待ち受けていました。
 それは、この年、明治五年七月十八日に新しい茨城県令心得、今日で言いますと県知事ですが、旧肥前大村藩士で大蔵大丞という地位にありました渡辺清が、水戸に赴任しましたが、常磐神社創建に関する水戸人の純粋な感情、神社創建への篤い思い、そう言うものを政治的な取引に利用しようとしました。
 渡辺県令心得は神社創建の建白書と願書を見まして、「従来士民朋党の難を、二公に誓て改めんならば、其の趣を朝廷に奏聞し、神にあがめ奉らん」という考えを示しました。この考えの背景には幕末から明治の始めにかけて水戸の士民が、いわゆる天狗党と諸生党に分かれて凄惨な争いを続け、それが尾を引いている。これは大変な弊害である。これを義烈二公に誓って水戸人が改めるならば、其のことを朝廷に上奏して二公を神様としてお祀りすることにしよう。こういう考え方です。
 この渡辺県令心得は水戸柵町の中御殿に宿泊していたのですが、赴任した三日後の七月二十一日の未明に、何者かによって水戸城は放火され、三階櫓を残して平屋の御殿が全焼しました。それまでは、今の付属小学校を中心に水戸三高のあたりに二の丸御殿がありました。それが放火によって焼失しました。これが水戸城焼打ち事件であります。詳しくは「常磐神社史」に書かれております。そうしたことで、県令心得としては、これは難しい所だなあ、と言うふうに困難さを感じたのでしょう。それで水戸士民懐柔の政策として利用しようと考えたのであります。
 ところが栗田博士たちは、これは尋常な方法・手段では県当局の受理は無理だ、我々は政治的な取引によって、神社創建を利用されては困る。ならば直接東京に行って、政府の要人に交渉しようと、栗田博士が選んだのが西郷隆盛で、建白書と願書が届けられるのであります。これが何時なのかはっきりしないのですが、多分明治五年の暮れごろか、六年の初め頃と思われます。やがて西郷隆盛から、義烈二公を奉斎する神社を創建するにあたっては、神號をどのように称したらよいのか、という諮問が栗田博士に参りました。そこですぐ『義・烈二公の神號に関する議案』というものを書いて、西郷隆盛に報告します。それが資料に掲げました次の文章であります。

   (5)「義・烈二公の神號に関する議案」(抄)一栗田寛博士起草一
◎謹て考ふるに、西山の君はしも、東照宮の御孫におはして、(中略)公幼き時、伯兄頼重(高松の始祖英公と云)に超て、世子たりしが、年十八に及て、始て史記の伯夷伝を読み、深く感発して、後を頼重の子に譲らんと思ひ、又載籍の已むべからざる事を知りて、史を修むるに志しけるハ此時なり。
◎御父頼房卿薨ずるに及び、諸弟を神主の前に集めて、音吾れ弟の身を以て世継となりしを、年頃恥かしく思へども、父在世の中、世を遁れなば父子の中悪しきなど、云はれむとて打過ぎたり、願はくば、貴兄の子松千代(綱方)を我養子に賜へね。もし許し給ハずは、家督を命ぜらるヽとも世を遁れんと申されしを、頼重いなみけれども、諸弟勧め申して松千代を養子とし、又其弟網條をも引とりて、水戸に置かれき。其後網方蛋く卒せしにより、網條を立て世子とせらる。人皆其遠慮ある事を驚きヽ。是公 譲国の御事なり(中略)
◎頼房公薨後三年の間、いささかも父の道を改め給はず、又修史の為に儒生学士を召し、髪を蓄て武職に編れ、修史を兼しめ(中略)、また諸子の子弟を戒めて、事あらむ時、君の馬前に戦死するは、士の職分なれば珍しからず、血気の勇は盗賊も之をよくするなり。士の士たるは、其場を退て忠節になる事あり。又其場に戦死して、忠節になる事あり。生死の間一毫もちがひて、大きなる過ちとなる。是を決断せしむる者は、聖賢の教にあり。然れば、若き者は学問を勤め、五倫の道を知るべしと論されしは、明倫の事なり
◎威公の葬儀みな儒法によりて、水戸城内ニ廟を置き神主を安し、殉死を止め給ひしより、天下殉死の禁令あり。諸士族の墓地を定め、文公家礼によりて喪祭儀略を選みて之を行はしめ、旌櫻寺に源義家の祠堂を建て、楠公の忠誠を感じては、湊河の碑を建て、関東の風俗尚歯の事を知らざるをうれたみて、往々賀筵を開き、国中の孝俤節義者を称揚したるの類、みな風教を植るの事なり
◎当時の人、仏教に溺れて敬神の事を知らず。公此に於て延喜式神名帳に載する所の吉田神社、静神社を修造し、社僧を廃して神官を置き祭典を定め、楽器神宝を納め、又稲田神社(笠間の領内なり)衰頽を痛みて、種々の物を寄進し、領内の淫祠三千八十八を除き、正しき社をば修復を加へ新地の寺院九百九十七を除きて、破戒僧三百四十四人を論して平民としたるは、正道を掲げて邪説を排するなり
◎公少壮より老に至るまで、毎年正月元旦に直垂を着し、早朝に京都の方に向て遥拝し、我が主君は天子なり。今の将軍は我宗室なれば、思ひ違ふまじきなり、と近臣に論され、年々勅使下る時、邸中に来らるヽを、使者もて報礼あるを無礼なりとて、自ら勅使の邸に往き給ひき。又嘗て歴代帝王山陵の荒廃せる事を嘩き、朝廷に請て之を修むるの志ありしが、皇統を正閏し、人臣を是非し、事に拠りて直書して諱む事なきは、不朽の大典を作るの事なり
◎かの譲国の御事のいと尊きはいふまでもなく、其他の事業みな皇道の為に、力を尽され給へるにあらざるはなし。かかれば、高譲味道根命と申奉るべく、
◎景山公はしも、文武の全才におはして(中略)、公の挙用せられし文武の諸士、各々其材力を尽したりしかば、天下諸藩、水戸の学風を尊び、尊王捜夷の説、一世の輿論となるに至り、畏も、孝明天皇は其忠誠を感じて、深く公を信頼し給ひき。
 要するに、公の深意は神州の威武を奮て、国家の藩屏たるにあり。また時ありては御自ら、東建男と云ふ戯れに称号とし給へる事もおはしければ、押健男国御楯命と申奉るべくぞ思はるれど、朝廷にてなほ嘉号を御撰み賜はらむには、いともかたじけなきことなり。今は唯かくもあらば、古礼にかなはむ云々。

一『常磐物語』一
  

 最初に、兄の頼重公を差し置いて義公が世継ぎとなられたけれども、十八歳のとき史記の伯夷伝を読んで反省し、頼重公のお子さんに自分の後を譲ろうとした。それから大日本史の編纂を志したと記されています。
 次に頼房公が亡くなられたのち、神主(しんしゅ=仏教の位牌に当る)の前に弟たちを集めて、自分は水戸家の跡を継がずに家を出ようと思った。しかしそれを行えば父との仲が悪くなったと思われるから出来なかったけれども、いまこうして自分が家を相続するに当たっては、頼重公のお子さんを戴きたいと申し出て、綱方というお子さんを貰った。後でまた網條というお子さんを貰われますが、綱方の方は二十三歳で天然痘で亡くなってしまう。それで弟の綱條の方が継がれたということで、最後のところに、是譲国の御事なりということを言われているのであります。
 また藩士やその子弟たちに対して、主君の馬前で討ち死にすることも忠義であるけれども、退くことも忠節になる事もある。ただ死ぬだけが忠義ではない。どういうときに命をかけるか、どういうときに生きるか、それは極めて重大な問題で、髪の毛一本の差で以て大きな過ちとなるのであるから、そういうことは学問をして聖賢の教えを学び、若いものは学問に勤め、五倫の道を知らなければならないと論されています。これは、倫理道徳を明らかにされた事であります。
 威公の葬儀は儒式に拠って行われました。それから殉死を禁止しました。常磐墓地・酒門墓地という共有墓地を造りました。「喪祭儀略』という書物を作って、葬式を簡略にし、墓石なども一定しました。また源義家の祠堂を建て、「鳴呼忠臣楠子之墓」を建て人々に正しい人としての道、在り方と言うものを示されました。風教を植るの事であります。
 次は宗教。神社やお寺、正しい由緒ある社寺は復興するけれども、怪しげな神社・寺は次々と取り壊し、信仰の道というものを正された。正道を掲げて邪説を排されたのであります。
 最後に、毎年正月元日には直垂を着用されて、京都の方に向かって遥拝をされました。西山荘に移られてからも、毎年遥拝をされました。そして「我が主君は天子なり、今の将軍は我々の親戚頭に過ぎないのだ、思い違うな」と近臣に論され、以下いくつかの事例をあげられております。そして永久に朽ちない、『大日本史』もそうですし、「禮儀類典」もそうですし、そういう日本人としての生き方、在り方を指し示す根本の書物を作られたのであります。
 そして、纏めとして、「かの譲国の御事のいと尊きはいふまでもなく、其他の事業みな皇道の為に、力を尽され給へるにあらざるはなし。かヽれば、高譲味道根命と申し奉る」と言うのが、これが義公の神號、栗田博士が考えられた神號なのです。いままで述べて来られた業績・御徳というものを神號に凝縮しているのです。高い精神で国を譲られた、そして味わいのある、道義・道徳の根本を大事にされ、その根本を後の世に示された。これが義公の神號なのです。
 こうしてこの議案が西郷隆盛宛てに提出されます。
 このように二公それぞれの事蹟に基づいて、義公には「高譲味道根命」、烈公には「押健男国御楯命」という神號を奉ることを栗田博士は提案されたのであります。
 やがて、明治六年(一八七三)三月十五日に、元水戸県士民総代六十二名の署名を集めて神社創建の願書を正式に渡辺県令心得に提出しました。そこで県令心得は三月二十日と二十一日に常磐村鎮守、これは八幡宮ですが、この境内に常磐村とか渡里村とかの各村民を集めまして、告論書と言うのを読み聞かせ、村民一同から連判の御請書というものを提出させて、八幡宮の神に誓わせるということを渡辺県令心得がやりました。そして自ら願書を書いて政府に提出する訳です。その中にこんなことが書いてあります。
 「茨城県は尋常容易に治むべきにあらず、従来弊習の因を叩き或は責め或は撫し、懇に論す。ここにおいて人民始めて党派の弊を悔い、もって悔悟の誠心を固く」したと、述べております。水戸人の神社創建に対する純粋な気持ちを全く理解していない、すべて県令心得の説得努力によって水戸の人達が悔い改めたので神社創建の許可をお願いしたい、と書いてある。ですからすべて渡辺県今の功績にもって行こうとしている。この辺に水戸の人達と、他県から派遣されて来た人達との違いをまざまざと見る感じが致します。
 水戸人にとっては、腹に据えかねるわけです。われわれはそんな気持ちで神社を創建しようとするのではないのだ、というわけですが、栗田博士をはじめ人々はじっと耐えよう、県令を通じてしか歎願が出来ないんだからということで耐えまして、創建の許可を願った訳です。
 そして明治六年三月二十七日政府から神社創建の裁可があり、「常磐神社」の社号が下賜されました。当初は常磐神社は民社でありまして、七月に県社に列格します。次いで七年(一八七四)五月十二日に社殿の造営、境内の整備が完成して遷座祭が執り行われ、以後この五月十二日が常磐神社の例祭日と決まります。この年十一月二十二日神号宣下がなされまして、前に紹介しましたように栗田博士の議案どおりの神号が下されたのであります。
 やがて明治十五年(一八八二)十二月十五日に「別格官幣社」に列格いたします。これは国家に功労のあった方々を祀る神社の社格です。その後、昭和二十年までまいりますが、それ以後はGHQの占領政策によって、この社格というものが取り除かれ、宗教法人の常磐神社と称さなければならなくなりました。別格官幣社という社格があることによって、常磐神社というものは、国家に功労のあった方をお祀りしているのですよ。ということが分かる訳です。これが今は無いということは非常に残念な事であり、将来、歴史そのものが次第にわからなくなって行く大きな原因になるかと思います。
 以上長時間にわたりましたけれども、常磐神社ご創建の問題に焦点を当てて、栗田寛博士が起草されました「義烈二公の神社を建設せん事を議するの状」を拝読し、また「義烈二公の神号に関する議案」は時間の関係で簡単にさせて戴いたわけですが、常磐神社のご祭神であります義公と烈公のご神徳について、栗田寛博士の文章からご一緒に学ばせて頂きました。時間の関係で詳しく申しあげられませんでしたが、『常磐神社史』を繙いて頂ければ、その辺のことがよくご理解頂けるのではないかと思います。
 以上をもちまして私の担当であります、「烈公以後、明治の名文の解説」を終わらせて頂きます。長時間にわたりお付き合い頂きまして誠にありがとうございました。失礼致します。
(平成七年十二月三日講座)
(県立茨城東高等学校教論)