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中後期史臣の名文

    ---藤田東湖先生「送桑原毅卿之京師序」「小梅水哉舎記」---

杉 崎  仁     



 失礼致します。本日の史料ですが、先ず最初は、藤田東湖先生「送桑原毅卿之京師序」という御文章でございます。東湖先生二八才の時の著述でございます。天保四年(一八三三)であります。それから「小梅水哉舎記」という御文書でございます。これは弘化二年(一八四五)東湖先生四十才。前年、甲辰の国難で、水戸藩、烈公以下、幕府から厳重に処分されました。
それで、江戸の下屋敷の小梅、そこに禁固に処せられておった時の文章でございます。いずれも東湖先生の数ある文章の中で、非常に大変な文章、我々が教えを受ける所ある文章です。出来たら両方と思いましたが、なにせこの漢文の分量でございますので、書き下し文にすると大変な量になります。東潮先生の名文をじっくり味わうのには、やはり書き下し文ではなくして、苦労して漢文で読みたいと、これが私の願いでありますので、ご容赦戴きたいと思います。それと、「小梅水哉舎」の方は、ご自分で辞書をお引きになってお読み頂ければお判りになると思いますので、特に「送桑原毅卿之京師序」、これで学ばさせて戴きたいと思うのであります。
   藤田東湖先生
     送桑原毅卿之京師序
宇宙之大、万国星布其多矣。而國体之重、未有若神州也。神州之広、国郡県邑、不可勝数。而至尊至厳、未有若京師也。京師者、天皇所都、神器所在、億兆所仰、蛮夷戎所望而服。京師之在宇宙、譬猶北辰之在天也。昔者大道之行也、徳化内洽、威稜外宣。聖皇明弼相踵而起、既遵上古神聖之跡、以植天常民彜、更資西土周孔之教、以培我固有之道。上下之分、内外之弁、厳乎其不可越也。歴世之久、風俗澆漓、異端之説、誣民惑世、神聖之道先荒矣。輓近至治之沢、上下向学、家誦詩書、戸談周孔、而大本已乖也。虚文滅質、浮華掩実、弊之所極、至挙国体名分之重、惜諸度外。可悲也夫。而神聖威霊之遠、天常民彜之不泯滅、亦未嘗無志士仁人出於其間、慨然奮励、以保護大道者焉。二百年来、鴻儒碩学、指不勝屈。嘗竊其書読、而察其学、亡論其博覧洽聞。其能弁國体、慎名分者、猶有什一存乎千百也。欣慕之余、尚論其人、究其出処本末、大抵其学所淵源、不出於京畿、則出於我常陸矣。夫神州居万国之首、京師居神州之中。則苟生幾内長於輦轂之下者、雖牧児樵童、尚能知其尊厳。況読書講学者之於國体名分、不敢苟也。固不足怪。乃若常陸、則僻在東陬。去京師千里不啻。而往々生卓識之士、抑亦有以也。蓋日出之郷、陽気所発、南有筑山、東有大海、所在名神呵護、有若武甕槌神、有若大己貴命、若手力雄神、若日本武尊。其勇武猛烈、嘗芟夷大難、輔翼天業、列在祀典。千載之遠、精霊如在焉。方南北搶攘之際、忠臣仁人、藤黄門・源准后之徒、間関流寓、陳迹在焉。及我威公受封、敬神愛民、以廉耻磨砺一國。義公脩其緒、乃慨然発憤以國体名分自任、開館聘儒、創立一家之言。常陸之学、於是為盛。余沢所在、士重廉耻、郷党自好者、尚排異端。読書講学者、開口則談尊攘之義。斯其学風之所由来、自有淵源。則我常雖僻在東陬乎、其能与京畿相頡頏者、豈偶然乎哉。今茲癸巳十月、余妹夫桑原毅卿、転職将徒於京師、提携家累、自常来武、暫寓江戸。西上有日、来告別。余因謂之曰、神聖之道、不明久矣。豪傑之士、孰不欲反経務本。扶植綱常者。且也丈夫生有四方之志。亦孰不欲遊歴跋渉、弘恢志気者。而形格勢禁、不獲遂其志者、往々皆是。今子千里上途。攀名山、渉大川、奇聞必極、壮観必尽、周旋京畿、親欽仰皇都之尊厳、愈知神州之所以秀出於宇宙者万々、以常陸之学、徴諸京畿之儒、以明淵源之不偶然。豈不偉哉。抑亦有説。凡天下之事、長短不斉、得失相半。以余所聞、京畿之俗、其外雍閑雅、而其内寧静沈懿、敏於事、勤於業。是其所長。而嗜財射利、気力卑弱、不能自振、是其所短。常陸之風、慷慨激烈、鋭於進取、勇於敢為。是其所得。而懶惰麁豪、虧研精之功、固陋自足、乏汎愛之意、亦其所失。嗚呼天下之弁國体、知名分者、寥々已希。其幸而僅有者、亦不免二者之弊。今而無変通之術、則茫々宇宙、孰知神州之重与京師之尊。非可憂之甚歟。今子苟能一意切磋、推其所長、以及京畿之人、又務其所短、優柔魘飫、久而不已。他日帰郷、幸以其所得頒吾輩、則豈啻京畿与常陸、或受子之賜、所謂志士仁人、慨然奮励、保護大道者、其亦可以庶幾也。豈不愉快哉。豈不愉快哉。毅卿聞之、謙遜不肯当。而其色蓋有適其意者。毅卿嗜学、夙有奇節。初在礫川之邸。辛卯之秋、徒水戸、今又有斯行。升平之久、安居為常、千里徒居、亦常情所難。毅卿家素貧。不幸疾病事故相属、加之三年之間、乍東乍西、亦不為不労。宋人李綱有言。曰謀身之智周者、愛君之仁薄、図國之計至者、保身之術疎。以余観毅卿、其於一身、何其術之疎、而其知之不周也。蓋亦必将有厚且至者。臨別之言、所以不得不長也。
(『新定東湖全集』東湖遣稿)  

                     
 少しずつ読みまして解釈を加えさせて戴きたいと思います。
「宇宙ノ大ナル」この宇宙といものは非常に広大であります。「万國星布其レ多シ矣」世界に国は非常に多く、それは星が天に布き輝いている位に多いのであります。「而ルニ國体ノ重キ」國体というのは日本の国柄、日本の歴史で形成された国柄でございます。「未ダ神州ニ若クモノ有ラザル也。」そうではありますけれども、その国の歴史、伝統による国柄の重いものは、我が日本以上のものはございますまい、「神州ノ広キ、国郡県邑、勝テ数フ可カラズ。」我が日本の広いことは、国の数で六十六ケ国、その下に郡があり、町があり、村がございます。非常に数が多いのであります。それを一々かぞえることは出来ないのであります。「而ルニ至尊至厳、未ダ京師ニ若クモノ有ラザル也。」そうではありますが、最も尊厳なるもの、至って尊く、至って厳しいもの、最も尊厳なるものは、京都以上のものは有りません。「京師ハ、天皇ノ都シタマフ所、」漢文でありますが、読みます時には、敬語は敬語として、入れて読むのが当然でございますので、都スル所、と読まないで、都シタマフ所と、尊敬の念を込めて読むわけであります。「神器ノ在シマス所、億兆ノ仰ギマツル所、蛮実戎狄ノ望ンデ服スル所也。」京都と申しますのは、天皇が都されでいるところです。三種の神器が御座まします所でございます。全国民が仰ぎ申し上げる所でございます。蛮夷戎狄というのは外国のことであります。中国では、例えば東の方ですと東夷、南が南蛮です。それから西の方が西戎、北の方が北狄と申します。ですから諸外国という意味で取られれば宜しいかと思います。その京都というものに心服する所であります。京師ノ宇宙ニ在ルハ、」京都が宇宙にありますのを見るならば、「譬バ猶ホ北辰ノ天ニ在ルガゴトキ也。」それは例えて申しますと、北斗星が天に輝いているのと同じであります。「昔大道ノ行ハルルヤ」也は読みませんで、これは文章を主語にして読む読み方でございます。昔、道が大道、正しい道が行われていました時には、実現実行されていました時には、「徳化内ニ治ク、」天皇の徳が、人々に遍く広まりまして、「威稜外ニ宣ブ。」天皇の御威光が、外国にまで広まったのであります。「聖皇明弼相踵デ起り、」優れた天皇、優れた大臣が相踵いで起こりました。「既二上古神聖ノ跡ニ遵ヒ、」そうして、日本の古くからの道、大道です。その跡を受け継ぎまして、「以テ天常民彜ヲ植ヱ、」天常というのは、この自然連なる法則であります。天地自然の法則です。民彜というのは、彜というのは人の守るべき道であります。人として守るべき道徳、それを植付けました。それを広げていったのであります。「更ニ西土周孔ノ教ヲ資リ」そうして西の方、支那です。そこの孔子の教え、儒教であります。支那の儒教の教えを元手に致しまして、それを取り入れました。「以テ我ガ固有ノ道ヲ培フ」そして日本古来の固有の道を養ったのであります。「上下ノ分、内外ノ弁、厳乎トシテ越ユ可カラザル也」上下の間に上下の分がある。上には上の、下には下、それぞれあるべき姿があるわけです。それは明確に認められておりました。内外の弁、日本と外国は違うのだ、ということを、きっぱり弁える。二つの物に分けるのが弁であります。それは厳重に越える事が出来ないようになっておったのであります。「歴世ノ久シキ、風俗澆璃、異端ノ説、民ヲ誣ヒ世ヲ惑ハシ、」そうでありますが、代々時代が経って参りました。、永い年月が経ちまして、世の中の風俗が、段々薄くなって来たのであります。澆璃というのは薄くなっていくことであります。ですから、道徳風俗が軽薄になって、異端の説、邪説が、宜しくない考えが、民を惑わし、汚しまして、欺きまして、この世の中を惑わしております。「神聖ノ道先ヅ荒メリ」風俗が段々と軽薄になり、邪説が横行して、この世の人達を惑わして、日本古来の神聖の道が先ずすさんだのであります。廃れて参りました。「輓近至治ノ沢」輓近というのは、近頃、現代、近代という意味です。輓というのは元々後という意味です。鋸を曳くなどという意味にも使いますが、そうでないものは後という意味です。後の近くですから現在です。最近になって、至治ノ沢、非常に世の中治まりまして、その恩恵を被っております。平和の恩恵を被り、「上下学ニ向ヒ、家ゴトニ詩昔ヲ誦シ、戸ゴトニ周孔ヲ談ズ。」そして、上下の者達が学問に向かっております。そして家々では詩書を読んでいるのであります。そして家ごとに周孔、儒教の事を話し合っておる有り様であります。「而モ大本已ニ乖ケル也。」そのように文字を書いたり学問をしたり、儒教のことを話しますけれども、根本は既に離れてしまっているのであります。日本本来の考え方、日本本来の道徳から背いているのです。「虚文質ヲ滅シ」ですから、あくまでも実態の無い文章、これが虚文です。実質が無い。だから本質を離れて、ただ虚飾、飾るだけであります。「浮華実ヲ掩ヒ」そして、表ばかり華やかにして、本来の実質、これを覆ってしまうのであります。要するに、ただ文章だけ飾り尽くしまして、玩んでいる状況が「浮華実ヲ掩ヒ」ということであります。「弊ノ極マル所」こうなってきますと、弊害の極まる所はどこであるか。「国体ノ名分ノ重キヲ挙ゲテ諸ヲ度外ニ惜クニ至レリ」本来最も重要な、日本の国柄とは何であるか、人間として如何なる道を歩むべきか、その最も重大な事を、ただ放り投げておきまして、これを自分の考えの外に置く状況になってまいりました。ですから、国体名分が最も重要であるのに、それを度外に置いたということであります。「悲シム可キカナ」、夫という字は、感嘆を表す字です。非常に悲しいことであります。「而ルニ神聖威霊之遠キ」そうでありますのに、日本の建国以来、永い年月が経っておりまして、神々の教えが残っておりました。神々の教えがずっと、それが、日本の国に伝えられ、影響して現在まできておる。その永い年月であります。「天常民彜之泯滅セザル」そして我々が守るべき当然の道徳が、泯滅、泯も滅も滅びるという意味です。滅んで無くならない。それは、神聖、神々が日本の建国以来、神及び御歴代天皇の教えが永く伝えられて、それで道徳が滅びないのであります。「亦タ未ダ嘗ツテ志士仁人ノ其ノ間ニ出デテ、慨然奮励、以テ大道ヲ保護スル者無クンバアラザルナリ」そして又更に、今まで優れた人物、志士仁人が、その日本の歴史の間にそれぞれ出て参りまして、志を奮い起こして、これではだめだ、こうしなければならぬ、と気持ちを奮い起こしまして、そしてこの日本の道というものをお守りしなければならない、という人物がありましたことです。「二百年来、鴻儒碩学」それでこの二百年来、鴻儒碩学、江戸時代に、優れた人物、鴻というのは大鳥、大きい、或いは広い、そういう意味であります。ですから鴻儒で大学者、碩学も、大きい、偉い、という意味です。ですから偉い学者。優れて偉い学者が出まして、「指屈スルニ勝ヘズ」指を折って数えて参ります、数えきれない程でございます。指を屈しても数えきれない。「嘗テ竊ニ其ノ書ヲ読ミテ、其ノ学ヲ察スルニ」かつて自分で、それらの人達の書物を読み、その学問というものは、その学風はどういうものかを考察致しました。考えました。「其ノ博覧洽聞ヲ論ズル亡シ」しかしその人物達が色々な知識を知っておる、ということは問題外としましょう。この場合論じないことに致します。知識だけは持っているものもある。非常に広大な知識を持っているものは沢山いる。「其ノ能ク國体ヲ弁ジ、名分ヲ慎シム者、猶ホ什一ヲ千百ニ存スル有リ」そうではありますが、よく国体をわきまえまして、日本の国柄はどういう国か、そして日本の名分、国民がそれぞれの踏むべき道、あるべき姿があります。それを謹んで行っておるもの、これは千百の中に十一有るかどうかであります。「欣慕之余リ」その百分の一、僅かに居た人物、その人物に接しまして喜び敬慕するあまり、「其ノ人ヲ尚論シ」、尚論というのは、遡って昔の人のことを論ずることでありますが、遡ってその国体名分をよくわきまえた人、これを調べてみますと、「其ノ出処本末ヲ究ムルニ、大抵其ノ学ノ淵源スル所、京畿ニ出ザレバ則チ我ガ常陸ニ出ヅ」その人物の出所、そしてその人物の本末、それを追究してみますと、大抵その学の源になっている所は京都出身でなければ、我が常陸の国の出身でございます。「夫レ神州ハ万国之首ニ居り、京師ハ神州之中ニ居ル」、わが国は世界の沢山の国のはじめに存在しております。京都は神州の中心であります。これは誇大だろうと言うかもしれませんが、それぞれの国にはそれぞれの生き方があり、自分の国、これを中心にするのは当たり前のことでありまして、世の中に家族は沢山居りますけれども、子供達が我が親を一番大切にするのと同じです。ですからその気持ちがなければ、自分の国、これを良くしようという気持ちは出てこない。傍観者で居る、こうなるわけです。ですから誇大妄想でも何でもありませんで、その気概です。世界の中心におり、京都は日本の真ん中にあるのであります。「則チ苟シクモ畿内ニ生レテ、輦轂ノ下ニ長ズル者ハ、牧児樵童ト雖モ、尚能ク其ノ尊厳ヲ知ル」、いやしくも、その京都に生まれまして、輦轂というのは天子の車のことを言います。或いは天子のお膝下、皇居があるところです。ですから天皇のお膝下に成長致しました者は、牧場で育った子供、或いは樵の子供、そのような身分の低い者であっても、京都で生まれ育った者は、どうして京都が尊いのであるか、これを知るのであります。「況ンヤ書ヲ読ミ学ヲ講ズル者ノ國体名分ニ於テ、敢テ苟クモセザルヤ固ョリ怪シムニ足ラズ」、まして、書物を読み学問を講じます者が、国体名分に付きまして、あえてそれをおろそかにしないということは元々怪しむに足るものでは有りません。書を読んで学問を追究している、だから日本の国体名分、これを知るのは当然の事だ。怪しむべきことでは無い。「乃チ常陸ノゴトキハ、則チ東陬ニ僻在シ」、京都で学問しているものは、京都の尊さというのは当然怪しむに足りない。が、しかし我が常陸の国の有り様を見て参りますと、東の隅にかたよって存在しております。「京師ヲ去ルコト千里モ啻ナラズ」普通ではない、という意味です。京都から去りますこと千里以上であります。「而ルニ往々ニシテ卓識ノ士ヲ生ズルハ、抑々以ヱ有ル也。」そうではありますが、往々にして優れた人物が生まれますのは、色々考えていきますと、理由があることであります。「蓋シ日出ノ郷、陽気ノ発スル所」それは日の出る所であります。日の出る土地であります。そして太陽が昇る陽気の発する所であります。「南ニ筑山有り、東ニ大海有リ」南に筑波山が有り、東には大きな海が存在致します。鹿島灘、太平洋であります。「在ス所ノ名神ノ呵護シタマフモノ、」そしてその我が常陸の国にいまします神々、平安時代に作られた『延喜式』に、神々の名前、神社、これが載っております。「神名帳」と申しますが、それに名を連ねる神々が、この常陸の国、住民をお守りなされているのであります。暖かくお護りしているのであります。「呵」というのはこの場合暖めるということです。「武甕槌ノ神ノ若キ有り、大己貴命ノ若キ、手力雄ノ神ノ若キ、日本武尊ノ若キ有リ」、鹿島神宮の武甕槌神のような神がおり、或いは大洗磯前神社の大己貴命、或いは静神社の手力雄神、或いは吉田神社の日本武尊のような神々がおられるのであります。「其ノ勇武猛烈ニシテ」これらの神々は日本の国が非常に困難な時に、勇武を奮い起こして、「嘗ツテ大難ヲ芟夷シ、天業ヲ輔翼シ、列シテ祀典ニ在リ」、そして、非常な大難を刈り取りまして、「芟夷」というのは雑草を刈り取ることです。ですから、乱俗を除さ、平らげる、それを言います。そのように、昔、非常に困難な時代の大難、それを刈り取りまして、日本の国家建設の事業をお助け申し上げたのであります。そしてその神として名前を連ねて、神々の祭典に名を連ねております。「祀典」というのは祭りの儀式とか、或いは神々が名を連ねた『延喜式』の神名帳に書かれている神社にお祀りされている、それに名を連ねておるという意味であります。「千載ノ遠キ」千年もの悠久な年月を経過しまして、「精霊在スガ如シ」それらの人達の精神、魂が、今眼前にあるような状況であります。「南北搶攘之際ニ方リテ」あの南北朝時代の搶攘、争いですが、その南北争乱の時代にあたりまして、「忠臣仁人、藤黄門」、元弘二年、元弘の変に発覚しまして、藤原藤房卿、筑波山のふもと小田に流されてまいります。小田治久が城主でありました。その下に流されてこられたわけであります。「源准后之徒」延元三年になりまして、何とか南朝の勢力を挽回したいと、謀をたてられて、伊勢の大湊をでられました。暴風雨に遇い、この常陸の国にたどりついて、小田治久の小田城で、南朝の軍勢、これを激励しましたのが、北畠親房卿でありました。北畠家は源氏の流れであります。「准后」というのは、皇后、皇太后、太皇太后に準ずるという意味であります。そのような人達が、「関々流寓」関々というのは非常な困難であります。道路が険しくて行くことが難しい、そういう所から度々困難な目に会うことが「関々」であります。非常に厳しい困難な状況の下で、流寓、流浪して他の土地に一時身を寄せたのであります。「陳迹存ス」そしてその「藤黄門・源准后」の人達の遺蹟が、小田とか、関とか太宝、小田が落ちた後に関・大宝城に移られます。そのようにこれらの人達の足跡が現在も存しておるのであります。「我ガ威公封ヲ受ケタマフニ及ンデ」、初代水戸藩主の頼房公が、威公がこの土地に藩・封土を受けました。それで水戸藩が創立されたわけであります。「神ヲ敬ヒ民ヲ愛シ」この頼房公は、神を敬い、人々を非常に愛しました。優しく接したのであります。「廉耻ヲ以テ一國ヲ磨礪シタマフ」そうして、大切な事は、廉耻、これに破れるという字がつけば破廉恥ですが、恥知らずということです。破廉恥といわれることは非常に恥ずかしいことであります。その廉恥、清廉で恥を知ることをもって、我が常陸の国、水戸藩に勧めたのであります。水戸藩の人達の生き方は、廉恥を以てするのだ、これは非常に重大な事だと思います。神を敬い民を愛し、そして廉恥を生き方の根本に据える。こういうことであります。「義公其ノ緒ヲ脩メ」そしてその義公がその端緒をつくりました。「乃チ概然トシテ憤ヲ発シ」、そして、水戸義公は、志を奮い起こして、自分がしなければならない、「国体名分ヲ以テ自ラ任ジ」国体名分を明らかにすることこそ、誰を頼るのでもなく、自らの任務としたのであります。「館ヲ開キ儒ヲ聘シ」そこで彰考館を開設致しまして、全国から優れた学者を招聘し、招き寄せまして、「一家之言ヲ創立シタマフ」『大日本史』を自分の全責任において編纂するわけであります。そしてその『大日本史』によって、日本の国柄、国体を明らかにする。その水戸の学問を始めたのであります。「常陸之学、是ニ於テ盛ナリト為ス」、そこで常陸の学問は、ここで非常に盛大になってまいりました。「余沢ノ在ル所」その影響、そのお蔭が残りまして、「士廉恥ヲ重ンジ」水戸では士人が武士が廉恥を重んじております。「郷党自ラ好ム者」そして学問も無く、物好きでやっているようなものでさえも、「尚ホ異端ヲ排ス」邪説というものを排除するのであります。「書ヲ読ミ学ヲ講ズル者、口ヲ開ケバ則チ尊攘ノ義ヲ談ズ」書物を読み、学問を講義するような人達は、口を開きますと先ず尊攘の義を、尊皇攘夷、これについて話をするのであります。尊皇は天皇を尊び敬うことであります。攘夷の夷は外国、攘というのは払うという意味です。日本の歴史が外国の宜しくない考えによって、蹂躪されてはならない。外国は外国でやって良い。フランスはフランス革命の国であります。フランス革命の伝統でやって良い。アメリカはアメリカ合衆国であります。その合衆国の建国の精神でやって良い。それぞれの国には、トルコにはトルコの歴史があり、インドネシアにはインドネシアの歴史があるわけであります。それはそれで良い。けれども、日本が外国の説によって、正しくない道義道徳、これをおよぼされ、日本の正しい道義道徳が踏みにじられる。これは受け入れられない。これが攘夷であります。その、尊皇攘夷ということを話すのであります。「斯レ其ノ学風之由来スル所」、これが義公以来の学問の由来するところ、源であります。「自ラ淵源有リ」そのよってたつところ、元があるのであります。「則チ我ガ常ハ東陬ニ僻在スト難モ」、常というのは常陸の国のことです。我が常陸の国は東の外れに偏って存在しております。「其ノ能ク京畿ト相頡頏スル者」、頡頏というのは、普通はキッコウと読みます。勢力拮抗と言いますが、辞書などにはケッコウと出ております。慣習ではキッコウと読みます。「拮」というのは飛び上がる、「抗」というのは飛び下りることで、甲乙が付けられない。区別が出来ないという意味であります。それで、常陸と京都とが、良く区別が付かないのは「豈ニ偶然ナランヤ」偶然のことでは有りませんでしょう。例えば、藤原藤房とか、北畠親房とか、古くは、日本の国家の建設に邁進された神々。こういう人達の影響が残っている。それを受け継いだのが、義公でありました。京都は当然です、日本の中心であります。御歴代の天皇が座します所であります。そして例えば、山崎闇斎先生の学問等が、そこで脈脈と伝わってきて、明治維新にくるわけであります。そして水戸の学問がやはり明治維新を生み出す。そういうことでありました。「今茲癸巳十月」今茲と書いてコトシと読みます。干支で癸巳の年でありまして、東湖先生二十八才、天保四年のことであります。「余ガ妹ノ夫」と東湖先生の義弟であります、桑原毅卿が「転職シテ将ニ京師に徒ラントシ」職を転じまして、京都に赴く京都に移ることになりました。天皇の御陵、この調査の為であります。そこで京都に行くことを烈公から命ぜられた。「家累ヲ提携シテ」家族を引き連れまして、「常ヨリ武ニ来リ」常陸の国より武蔵の国、江戸にまいりました。「暫ラク江戸ニ寓ス」暫くの間江戸に仮住まいをしておりました。寓居ですから仮住いです。「西上日有リ」間もなく京都にのぼらなければならない、ということで、京都にのぼる日が迫ってまいりました。「来リテ別レヲ告グ」東湖先生の所に来られまして、別れの辞、挨拶に来たのであります。「余因テ之ニ謂ヒテ曰ク」そこで私(東湖先生)は、桑原毅卿に次の様に言いました。「神聖之道、明カナラザルヤ久シ」、日本の本来の道が明らかでないことが長らく続いております。「豪傑之士、孰カ経ニ反リ本ヲ務メテ綱常ヲ扶植セント欲セザル者ゾ」、経というのは正道、本質。誰か正道にかえして、根本を務めよう。綱常というのは道義道徳、それを扶植、広めようと欲しない者があろうか。綱常というのは三綱五常と申しまして、道徳の中で最も重大なものと言われる、君臣の関係、君臣の間の道徳、それから父子の間の関係、それから夫婦の間の道徳であります。これを三綱と申します。五常と申しますのはこの三網にあと二つ、兄弟と朋友の道、これを加えるわけです。これが五常です。その三網と五常を合わせて綱常と申しますので、人たるの道、道義道徳これを綱常と申します。それぞれのものには、それぞれの有るべき様が有るわけです。これを除いては人間成り立ち得ないわけであります。子供は子供としての有るべき様がある。親は親としての有るべき様がある。非常に厳しいものです。それを蔑ろにしているから問題になってくるわけです。その道義道徳、それを確立しよう、広めようとしない者が居りましょうか。「且ヤ丈夫生レテ四方之志有リ」まして男子と生まれて、四方、東西南北、世界各国を旅行して、見識を深めようという志を持つのは当然であります。狭い部屋の中に開じ籠もるなどということはおかしなことです。「亦タ孰カ遊歴跋渉、士気ヲ恢弘セント欲セザル者ゾ」また誰か各地を遊歴して歩き、山や川をよじ登り、川を渡り、自分の志というものを広く大きく伸ばそうとしない者が有りましょうか。「而ルニ形格ヒ勢ヒ禁ジ、其ノ志ヲ遂グルヲ獲ザル者、往々皆是ナリ」、そうではあるけれども、周りの形勢の為、周囲の状況の為に妨げられて、形勢に逆らわれ、勢いを禁じられて、自分の志を遂げることが出来ない。これが往々にして皆そうなのであります。「今子千里途ニ上ル」今あなたは、千里京都に上ろうとしております。「名山ヲ攀ヂ、大川ヲ渉り奇聞必ズ極メ、壮観必ズ尽シ」そうであるならば、名だたる山をよじ登れ。途中東海道を行き、富士山を攀じ、木曽の御岳山を登れ、伊吹山を登れ。そして大川を渡れ。富士川を渡れ、天竜川を渡れ、木曽川を渡れ。そして珍しい事を聞いては、必ずそれを追究せよ。珍しい物を耳にしては必ずそれを究めようとし、壮大な、見るべき物があれば、必ずそれを見尽くすことが良い。京畿ニ周旋シテ親シク、皇都ノ尊厳ヲ欽仰シ、愈々神州ノ宇宙ニ秀出スル所以ノ者万々タルヲ知リ、常陸ノ学ヲ以テ、諸ヲ京畿の儒ニ徴シ、以テ淵源ノ偶然ナラザルヲ明カニス」、そこで今度は京都にまいりましたら京都及びその周り、畿内です。その周りの人達、京都より畿内の人達を、遍く巡り歩きまして、親しく、自ら京都の尊厳、何故京都は尊厳な所であるか。それを良く仰ぎ見て、いよいよ日本が宇宙に特に秀でておるものが、何であるかを知って、常陸の学を以て、今まで学んだ水戸の学問によって、その事を京畿の学者に話をして拠り所を求めるが良い。常陸の学により、京都の学者と話をしてそして何故日本が大切なのか、秀でているのか、それを調べるが良い。「豈ニ偉ナラズヤ」そうであれば、その学問の基づく所が、偶然でないことが明らかになるのである。何とも大したことではありませんか。「抑々亦タ説有リ」また、次のような説があります。「凡ソ天下ノ事、長短斉シカラズ、得失相ヒ半バス」およそ天下の事は皆長所短所があります。長所があれば、そこには短所があります。そして得失も半ばするので有ります。良い所もあれば良くない所もある。必ずどちらのものも存在するのであります。「余ノ聞ク所ヲ以テスレバ、京畿ノ俗ハ其ノ外ハ雍容閑雅ニシテ、而シテ其ノ内ハ寧静沈懿、事ニ敏ニシテ業ニ勤ム」、白分が聞く所によりますと、京畿の風俗というのは、その外面は、雍容閑雅、雍容というのは、和らいで穏やかな有り様です。閑雅は静かで雅やかである。雅やかで優しいのが、外見で有ります。そしてその心の内は、精神作用を見ると、寧静沈懿、寧静というのは安らかで静かな事、沈懿というのは深く麗しい事であります。落ちついて麗しいということで宜しいかと思います。非常に落ちついておりまして、その心持ちは麗しいのであります。業に勤め、良く仕事に励みます。なにか事業をしますと、事務を執りますと、非常に敏捷であります。物事をするのが早いのです。「是レ其ノ長トスル所ナリ」これがその長所であります。「而ルニ財ヲ嗜ミ利ヲ射、気力卑弱ニシテ自ラ振フコト能ハザルハ是レ其ノ短トスル所ナリ」、そうではあるけれども、金儲けが好きであります。財を得ようと、それを良く嗜んでおります。そして利益を得るのであります。利害得失を考えまして、その為に気力が弱い。欲ばかりはりますので、欲に支えられて、自分から発奮することが出来ないのであります。それは短所であります。「常陸ノ風」ここが大切なのです。京都は他山の石でこれは学ばなければなりませんが、「慷慨激烈、進取ニ鋭ニシテ敢為ニ勇ナリ。是レ其ノ得トスル所ナリ」、常陸ノ風を見ますと、慷慨というのは憤ったり、意気が盛んで、感激はしやすいという意味です。そしてその気性は激烈であります。火の中水の中でありまして、そしてその気性は非常に進取の気性に富みます。どんなに辛いところでも完全にやり遂げようという気風がありまして、非常に勇気を以て何事も行うのであります。それが長所であります。良い所であります。「而ルニ懶惰麁豪、」懶惰というのは、なまけ、怠ること、麁豪というのは荒っぽいことであります。粗雑なのです。ともすれば怠け、やることが荒っぼい。「研精ノ功ヲ虧キ、固陋自足、汎愛ノ意ニ乏シキハ亦タ其ノ失トスル所ナリ」、永く精励して、一つの事業を為し終えることができず、そして、固陋、いこじなのです。頑固で、良い頑固ならかまわないのですが、陋習の陋ですから良くない。非常に頑固でそれで自分で満足しているのが自足、他の意見を聴こうとしない。そして人々を広く愛する気持ちが乏しいのであります。十分に研究することもなく、人の話を聞かないで、自分だけで満足している。人をいれる度量に乏しい。こういう所がその失とする所であります。「嗚呼天下ノ國体ヲ弁ジ、名分ヲ知ル者寥々トシテ已ニ稀ナリ」、現在の日本を見てみますと、日本の國体を良くわきまえて、名分の何であるかを知っているものは、寥々というのは非常に数が少ない様子であります。非常に稀であります。「其ノ幸ニシテ僅カニ有ル者モ、亦タ二者ノ弊ヲ免レズ」その幸いにも、僅かにその国体名分を知っているものがいるが、しかし、良く見れば、この二者の弊京都と水戸の持つ弊害、それを免れる者は少ないのであります。皆弊害を持っているというのです。「今ニシテ変通ノ術無クンバ」現在それを矯正する、変通というのは矯正するということです。その矯正する方法がなければ、茫々タル宇宙、孰カ神州ノ重キト京師ノ尊キトヲ知ラン」、この広大な、茫々というのは果てし無い広大な宇宙、その中で誰が、この日本の重さ、それから京都の尊さ、それを知ることが出来ましょうか。「憂フ可キ之甚シキニ非ルヤ」何とも憂うべき、最も重大なことでございます。「今子苟モ能ク一意切磋シ、其ノ長ズル所ヲ推シテ、以テ京畿ノ人ニ及シ、其ノ短トスル所ヲ務メテ優柔●(厭の下に食の文字)飫、久シクシテヤマズ」そこであなたは、仮初にも、願うことならば、良く、その点に気持ちを留めて、自ら切磋して、努力して、その長ずる所を推し広めまして京畿の人に及ぼされるがよろしい。京畿の人は金儲けとか、そのようなことが好きで、気力が無い。水戸の人達は慷慨激烈、進取の気性に富んでいます。ですからそれを京都の人におよぼしたい。ところが、水戸の短とするところ、水戸の者は粗雑である。そして研究心が足りない。京都の人達は沈着、その京都の人達の優しさ、沈着さ、それを自分に取り入れよ、じっくりと食べ物を味わうように落ちついて学問をすることであります。●(厭の下に食の文字)飫というのは食物を十分に味わう事です。ですから学問を十分に味わう。落ちついて学問を十分に味わいなさい。優柔というのは優柔不断では有りません。優しく、柔軟性に富んで、人の意見にも耳を傾けて学問を研究することであります。それをずっと続けて止めないことであります。断絶することは学問ではだめなのです。次ですが、「他日郷ニ帰リ」後に故郷水戸に帰りまして、「幸ヒニ其ノ得ル所ヲ以テ吾輩ニ頒タバ」あなたが京都で得た所を、自分、東湖先生に分けてくれるならば、「則チ豈啻ニ京畿ト常陸ト、或ヒハ子ノ賜ヲ受クルノミナランヤ」それはただ、京都と常陸の国とが、あなたからの贈り物を受けただけではなくて、「所謂志士仁人、慨然奮励、大道ヲ保護スル者モ、其レ亦タ以テ庶幾ス可キ也」そうすると、志士仁人、優れた人物が、これではだめだといって奮発し、そしてこの大道、日本の道をお護りしようということを、望み願うことをするようになるでありましょう。そういことが考えられることであります。「豈ニ愉快ナラズヤ」そうなればなんとも愉快なことではないですか。「毅卿之ヲ聞キ」このことを毅卿は開きまして、「謙遜肯ヘテ当ラズトス」いや、自分はそんなことはありません、と謙遜しておりました。敢えて自分にはそういうことは当たりません。できないことです。このように謙遜しておりました。「而モ其ノ色蓋シ其ノ意ニ適フ者有リ」そうではありますが、その顔色を見ますと、恐らく、自分はやる、そのつもりだ、という気持ちに適うものがありました。「毅卿学ヲ嗜ミ夙ニ奇有リ」桑原毅卿は学を良くしました。そして早くから奇節、珍しく節操の有る人物でありました。志も堅く、行動も堅固でありまして、考えも深いものがあり、それを守ろうとしておったのであります。「初メ礫川之邸ニ在リ」礫川、礫は小石という意味で、小石という字を一字で当てますと、この字になるわけです。それを美しい字に当てて礫川としたわけです。初め、小石川のお屋敷におりました。「辛卯ノ秋、水戸ニ徒リ」、天保二年の秋に、水戸に移りました。「今又斯ノ行有リ」今というのは天保四年、京都に行き、山陵、天皇の御陵の調査のことをするわけであります。「升平ノ久シキ」平和が永く続きまして、安楽に生活することを人々が常としております。「千里居ヲ徒スモ、亦タ常情ノ難シトスル所ナリ」非常に遠い所に住いを移すことさえも、世の人々の気持ちでは難しい。不満を持つことでありました。「毅卿家素貧ナリ」、桑原毅卿の家は元々貧しい家でありました。「不幸ニシテ疾病事故相ヒ属ゲリ」それに加えて、不幸にも、病気、事故が相次いで起こったのであります。「加之三年之間、乍チ東シ乍チ西スルモ、亦タ労セズト為サズ」それだけではありません。江戸から水戸、水戸から京都、このように三年の間、乍ちというのは急にということです。自分は少しも厭わない。全然不満が無いのです。この両三年の間に三たび居を移し、遠く京都にまで行くわけです。「宋人李綱言ヘル有リ」、宋の国の人李綱という人物が次のように言っております。「曰ク身ヲ謀ルノ智周キ者ハ」自分一身、一家の利益を考える智恵が周到な者は、「君ヲ愛スルノ仁薄ク」主君を愛する、国を愛する、思君愛国の気持ちというのが薄いのであります。「國ヲ図ルノ計至レル者ハ」国家の為に貢献しようと、計画を十分にするものは、「身ヲ保ツノ術疎ナリト」自分一身の身を保全する方法というものは誠に疎であります。おろそかであります。「余ヲ以テ毅卿ヲ観ルニ、其ノ一身ニ於イテ、何ゾ其ノ術ノ疎ニシテ、而シテ其ノ知ノ周カラザルヤ」、意味を強めてアマネカラザルヤと読みます。感嘆の意を込めて読みます。自分から、桑原毅卿、あなたのことを見ると、あなたが一身一家の、自分の身において、なんと自分の安楽繁栄を願うことが下手であるか。そして何とかして自分が立身出世しようとか、そういう智恵というものが、全然無いではないか。その為あなたは苦労ばかり、損ばかりしているのであります。「蓋シ亦タ必ズ将ニ厚ク且ツ至ル者有ラントス」そうであるならば、必ずや、恐らく国の為に貢献しようという考えがあるからでありましょう。そのことの厚く、且つ自分がその計画を実現する気持ちを持っているものであろうと思います。「別レニ臨ムノ言、長カラザルヲ得ザル所以也」、あなたと別れに望んで、この送別の辞、これが長からざるを得ない。長くなってしまうのもやむをえないことでした。
 このようにずっと読んでまいりました。私が解釈を加えるよりは、それぞれもう一度お読み頂きまして、この中から東湖先生のお教えを汲み取ることの方が大切かと思います。この江戸時代には「~の序」という文章は、旅立ちます時に、「自分は旅に出ます」と挨拶にまいりますが、その時に序を書いてもらうわけです。旅に何を求めるか、何を得てくるべきか、その為に送別の序を貰うのが常でありました。 それとあと一つ、「小梅水哉舎記」です。
    藤田東潮先生
      小梅水哉舎記
我水藩之潜於江戸也、艤於北浦、浮霞湖、泝刀水、而達於墨水。々々東岸、有藩之別墅、是為小梅邸。倉廩委積在焉。天保丁酉、余友秋山魯堂、来管倉廩事。其於局務、多所更張。乃新築舎於邸中、令僚属及子弟習撃剣。余方在礫川邸。魯堂使一卒齎祭肉頒余。且嘱曰、撃剣舎成矣、祭神落之。請子作文記焉。余諾而未果。既而余与魯堂転職帰郷、去年甲辰、余獲罪於幕府、遂被幽小梅邸。禁錮甚厳、独許隣人継米塩。一日隣人来謁、自称忠介。熟視之、則往年齎祭肉者也。余拊掌称奇、談遂及魯堂。忠介愀然曰、初本邸風俗薄悪、其吏則贓汚、其卒則遊惰、相率侵漁飲博、習以為常。秋君之来、挙邸靡然向風、少者読書、壮者撃剣。至今僕輩身必佩雙刀、口頗談礼儀者、皆秋君之賜也。秋君御下厳而有恩、教子弟必本於報回、秋君之去、実一邸之不幸也ト。余因歎曰、小人学道則易使信哉。魯堂カウ(口へんに蓼のくさかんむりのない文字)々、有慕乎古人、若小梅之政、則其余事耳。而去後見思至於此者、豈非其教化之効使之然歟。君子成人之美。余雖廃矣、記文之嘱、其可不果耶。乃命舎日水哉、取於其在川上也。仲尼屡称於水曰、水哉、水哉。又曰、逝者如斯、夫不舎昼夜。苟使人之志於道、如水之混々、盈料而進、則沛然其孰能禦之。豈特一技芸而巳哉。抑方魯堂築斯舎也、我公尚武右文、尤用心於忠孝之大義。魯堂嘗屡上書陳大計。其帰郷也、慨然欲興隆神聖之道。余毎与魯堂及同志之士相会、飛談雄弁、上下議論、時或酣酔浩歌、以助其歓、蓋亦一時之盛也。既而魯堂落々不遇、遂投閑地、公遽就菟裘、余則困阨如是、同志之士、往々廃棄、靡有孑遺。而人情反覆、又有不可勝言者。古曰、皮之不存、毛将安傅。世道変遷、既至已此。余恐水哉之舎、勢不能独盛也。雖然余聞北浦与墨水、相距数百里、当其水漲風快、則片帆如飛、巨万之粟、殆可運於一瞬。及其水落石出暴風起波、則不啻進退不可、往々有覆没之患。而世遂不以之廃漕運者、知有源之水必不至於涸尽、而風波之変、固非天地之常態也。今夫水哉之舎、源於魯堂、々々之志、本於報國。而又泝其源、則未始不本於老公忠孝之化也。嗚呼斯舎雖小、而源之所自来遠矣。余有知其洋洋漫漫、与刀水墨水長流無窮。而彼反覆変遷者、豈亦人世之常態乎哉。因為之記、併識余感、使後之論世者有以考焉。魯堂名忠彦、忠介之称、乃魯堂所命云。
(『新定東湖全集」東湖遺稿)  

 これは、秋山魯堂という人物であります。それが、小梅の下屋敷の中に「水哉舎」という剣道の道場を造りました。その剣道の道場を造り、その道場の名前、それからその道場に対しての「道場の記」を書いて頂きたい、と東湖先生に、秋山魯堂がお願いした。約束を果たさないうちに、東湖先生も魯堂も転任することになってしまいました。弘化元年、東湖先生は幕府の為に小梅の下屋敷に禁錮の身となりました。小梅の下屋敷は警戒が厳重で、隣に住んでいる者に米や塩を運ばさせるのみでありました。その人物が、以前秋山魯堂に従っていた足軽と同じ人物なのです。剣道の道場ができて、道場にお供えした肉などを東湖先生の元に届けてよこしたその人物だったのです。そこで思い出しまして、約束を果たさなければならぬということで、「小梅水哉舎記」を作られたわけです。それが弘化二年(一八四五)四○才のときでした。ですから先程の文章が二八才、その一二年後のことです。状況は全然かわってます。烈公が水戸藩の改革に励んで、東湖先生も参加せられた。しかし幕府の処分を受けるという非常に厳しい状況の中、四○才を迎えておったわけです。その時に書かれたのが「小梅水哉舎記」でございます。ですからその「小梅水哉舎記」にはまた、その非常な状況の中で書かれた文章の我々に訴えるものがあるわけであります。特に、小梅水哉舎ができるまでの有り様というのは、小梅の下屋敷は、上の役人達は賄賂を受け取ったりしまして、その下で働いてる足軽達は、酒を汲み交わしたり、賭博をしたり、ろくでもない生活をしていたのです。それが秋山魯堂という人物が出てきます。天保八年のことであります。秋山魯堂が倉庫番としてやって来るわけです。しかしその中で、小梅の下屋敷の有り様を見るに見かねて、撃剣舎、剣道場を作るのです。そうしますとどうなったかというと、「秋君之来ルヤ邸ヲ挙ゲテ靡然トシテ風ニ向カヒ、少キ者ハ書ヲ読ミ、壮ナル者は剣ヲ撃ツ」、若い者は読書に励み、壮年の者は剣道に励みました。「今ニ到リテ僕輩ノ身必ズ雙刀ヲ佩ブ」そして下々の自分と同じような足軽の身の者でも、必ず雙刀を身に離さないのであります。「口頗ル礼儀ヲ談ズル者、皆秋君之賜也」、そして口を開けば皆礼儀を言うようになった、それは皆秋山魯堂のお蔭であります。一人の人物の与えた影響、非常に大きな物がある。そして東湖先生の与えられた影響、全国に影響を与えるわけです。そこから優れた人物が排出しまして、明治維新、これが生まれてくるわけです。その、倉庫番を主管した秋山魯堂、この人物が下屋敷の風を一変したのです。その次に「秋君下ヲ御スルコト厳ニシテ恩有り、子弟ヲ教フルヤ必ズ報國ヲ本トス」、ところが秋山魯堂は、下の者を使うこと、これは非常に厳格でありました。厳格なのは誰にもできることなのです。ただの厳格だけではありません。恩情がある。優しく接するのです。そして、それだけでは有りません。必ず子弟を教育していた。放っておくわけではありません。そして必ず報國を本とする。その教えの根本は国に報いることだ。個人一身の利害ではありませんでした。そこが大切なことで、国に報いるものは自分一身の利益、賄賂などは受け取らないはずであります。それから暫く先にいきまして、「苟クモ人之道ニ志ス、水ノ混々トシテ料ニ盈チテ進ムガ如カラ使メバ、則チ沛然其レ孰カ能ク之ヲ禦ガン」、孔子は川のほとりに立ちまして「水哉、水哉」(水ナルカナ、水ナルカナ)と申しました。それにあやかって「水哉舎」と名付けたわけです。「水哉舎」は、孟子の中に孔子の言葉として出てくるものを取って、水哉舎としたわけです。水は源がある。混々と湧き出る。そして、誰でも、勉強するものは昼夜をとわず、水が湧き出る如く勉強するものだ。水が湧き出る如く、次々と出て、その水は穴を満たしてしまう。どんどん進んでいくようにすれば、沛然というのは盛大で大きいことであります。どんどん広がっていきまして、これを防ぐことが出来る者がありましょうか。道を広めていく努力を、人々がしなければなりません。一時として断絶することが無い。断つことが無い。そのようにすることだ。そして次ですが、「我ガ公、武ヲ尚ビ文ヲ右ケ尤モ心ヲ忠孝ノ大義ニ用ヒラル」我が烈公は武ヲ尚ビ文をたすける、文武不岐でありました。そしてその心を忠孝の大義、尤も重要なのは忠孝、そこに根本を置いたのであります。これを魯堂も実行したことでありました。
 両方の文章相まって我々に大きな教えを与えてくれるかと思いますが、「小梅水哉舎記」の方は時間がありません。後は大体お読みになればお分かりになると思いますので、今紹介した通りであります。
 明治以降、明治、大正、昭和と、西洋の思想が滔々とはいってまいりました。殆どが西洋の思想で、物事を判断するところであります。しかし、例えば平等を突き進んで、社会主義の考えがでてまいりました。それがどうしようもない状況になって、ソ連等は崩壊し、その他の社会主義国等も惨憺たる状況です。儒教の国といわれた中国に儒教はなくして、功利にはしり、女の子が旅行するために、おばあちゃんにお金が欲しいといったら断られた。その為に友達と謀って殺した。こういうことが後を立たない。日本もひどい状況であります。これは日々耳にすることであります。なにかどこかが狂っているはずでして、そこに我々が、東湖先生から教えを受ける大きな理由、再び我々が東湖先生に戻らなければならないものがあるのだろうと思うのです。
 そのような所から、今日はこの二つの文章を、「小梅水哉舎記」の方は簡単でございましたが、拝読させて頂いたわけであります。両方に共通することは、国に報いる、恩に報いるということが東洋思想の根本であるということです。恩というのは相手を認めて初めて出来るものであります。自分だけの世界では有り得ないことでして、我と汝との関係、このことを我々が考えていくときに、十分考慮しなければならないことだろうと思います。それぞれの「有るべき様は」ということを求めていくことなのではないかということで、この御文章を拝読いたしました。粗雑でありまして、失礼致しましたけれども、これで終わらせて頂きたいと思います。どうもご静聴ありがとうございました。
(平成七年十月一日講座)

(県立水戸第一高等学校教論)