HOME >資料 > 義公の名文

お問合せ

サイト内検索

義公の名文

    ---「元旦祭藤夫人文」を中心として---

                  宮 田 正 彦


 お早うございます。只今名越会長からお話しがありましたが、今日は義公の文章の中から二つ程選ばせて頂きました。義公の文章にはこの他にも色々と学ぶべき深刻な文章も沢山あるのです。しかし特に今日は夫人との関係、奥様との関わりの文章を拝読しまして、義公の人柄というものの一面を窺いたいと思います。
 初めに「元日祭藤夫人文」ですが、義公全集に載っております漢文のものと、読み下しのものと二つ並べてあります。読み下しの方は、水戸市の博物館で展覧会を致しました時に、水戸市の学芸員が展示してくれました生熊さん御所蔵の、義公の自筆のもので、読み方をとりました。自筆であると書いてあるわけではないのですが、筆跡その他から自筆であるという判断をしたものです。通常の漢文の読み方とちょっと違いますが、そちらの読み方のほうで読んでみます。
   元旦藤夫人ヲ祭ルノ文
 維レ萬治二年 歳ハ己亥ニ次ル春正月元日(拙夫)源光圀 謹ンデ酒ヲ酎ケ香ヲ焼イテ敢エテ昭カニ夫人ノ霊ニ告シテ曰サク
 三微朔ヲ成シ 斗柄寅ヲ指ス 鶏鳴ト告ゲザリシカハ 起キテ宜人ヲ問フ 宜人■(應の心が言の字)へズ 空閏寂蓼 耽歌タル残燈 冷焔空シク燃エ 室■(もんがまえに貝の字)トシテ人無シ 悵悦トシテ心惑イヌ 酒果前ニ羅ナル 君胡ゾ食ハザル 於乎死ンヌ 奈何ゾ斯クノ如クナル 物換り年改レドモ我愁ハ移ルコトナシ 谷ノ鴬百囀レドモ 我ハ春無シト謂ヘリ 庭ノ梅已ニ綻ビタレドモ
 我ハ真ナラズト謂ヘリ 去年ノ今日ハ 対酌シテ觴ヲ挙ゲキ 今年ノ今日ハ独リ坐テ香ヲ上ル 鳴呼哀シイカナ 幽冥ノ長ク隔ッルコト 天カ命カ 維レ霊来リ格レ
 短いものでありますが、これは、奥さんの泰姫が亡くなられてから一週間の後に作られた祭文であります。泰姫は萬治元年十月頃から病に伏しまして、一進一退を繰り返しながら閏十一月を迎えます。江戸城からも医者が派遣されまして八方手を尽くすのですが、遂に閏十二月二十三日の、今の時間にしますと午前一時頃になりますが、ついに亡くなられます。それから、しきたりによって色々ありまして、奥様の遺骸は水戸に運ばれまして、吉田の薬王院の近くに墓所を定めて葬られます。お墓の形は一応儒式だったようです。義公は水戸には来られないで、代埋の人達が一切取り仕切るのですが、恐らく十二月の三十日にはその報告がなされたと思います。一切の葬儀の関係が終わって、明くる日が正月元日なのです。その正月元日に義公は、すでに亡骸はないわけですが、お部屋に祭壇が祀ってあります。その朝早く、まだ夜が明ける前に、奥さんのいらしたお部屋を訪ねて、その感慨を筆に託して、祭文という形で奥さんに呼び掛けられたわけです。
 文の意味を概略たどってみましょう。萬治二年という年は丁度己亥の年に当たるわけです。正月ですから春。酒をたむける、酪という字は、酒を地面に注いで神様を祀るという意味です。そして「三微朔ヲ成シ」というところから最後までが祭文です。先程名越会長から御話がありましたように、この祭文という形式は、漢字で四字ずつ、そして四字と四字、四字二句で対を成します。そして二句目と四句目の最後が同じ韻になるわけです。漢文を見てみますと、二行目の「斗柄指寅」の寅(イン)と「起問宜人」の人(ジン)、このインとジンは同じ韻の文字です。それから「空閏寂蓼」の蓼(リョウ)と「冷焔空焼」の焼(ショウ)が又同じ韻の文字であります。これを全部調べてみますと、丁度二つずつ韻が同じ韻でございます。きちんとした形式に則っているわけです。「三徴朔ヲ成シ斗柄寅ヲ指ス」。これはどのように訳したらいいのか難しいのでございますが、これは一年の初め、正月元旦になったということをいっているのだろうと思います。次に、「鶏鳴ト告ゲザリシカハ」とありますが、普通漢文的に読めば、「鶏鳴を告げず」鶏がまだ鳴かないうちに、という意味だと思うのです。恐らく、大晦日から元日にかけて、眠れない夜を送られたのでありましょう。早々と起きて、まだ夜も明けない、鶏も鳴かないうちに起きて、夫人の部屋を訪ねた。「宜人」というのはその家に相応しい人という意味で奥さんのことを宜人といいます。去年のお正月は一緒に寿いだのですが、「宜人■(應の心が言の字)ヘズ空閨寂蓼」声を掛けても勿論返事をする人は居ない。襖を開けてみても中には誰も居ない。奥さんの閨は空しい。部屋はがらんとして冷え冷えとしている。にこやかにふりむいてくれる人は居ない。祭壇の前には蝋燭が沢山つけてあります。その燃え残った蝋燭の光がまだ赤々としている。その炎だけが妙に明るく、誰も居ないところで燃えている。静かである。誰も居ないというだけではなく、そこにかえって賑やかな明かりがついていることで、かえって寂しさが増すわけです。「室■(もんがまえに貝の字)トシテ人無シ」この■(もんがまえに貝の字)というのは、ひっそりとしているということで、空閨寂蓼と言い、室■(もんがまえに貝の字)トシテ人無シと言い、繰り返しています。「悵■(りっしんべんに兄の字)トシテ心惑イヌ」、悵■(りっしんべんに兄の字)というのは傷み嘆いて、心が茫然となる。「酒果前ニ羅ナル」、明かりが点いて、お酒や果物、様々なお供え物が沢山並べてあります。「羅」は羅列の羅です。並べてあるということです。「君胡ゾ食ハザル」どうして食べないのだ、こんなに御馳走があるのに。明かりもいっぱいついているのに。だけどそれを食べる人が居ない。喜んでくれる人が居ない。蝋燭の明かり、そして沢山のお供え物、そういった賑やかさがかえってその人のいない寂しさを際立たせる。どうして食べないのか、そうか、嗚呼、死んでしまったのだ。「奈何ゾ斯クノ如クナル」なんでこうなってしまったのだろう。ここに何かやり場のない一つの運命に対する怒りのようなものが感じられます。そこからは義公の気持ちです。「物換リ年改レドモ我愁ハ移ルコトナシ」。年は改まった。全ては新しくなったわけです。しかし、自分の哀しい気持ち、寂しい気持ちは何ら変化しない。「谷ノ鶯百囀レドモ我ハ春無シト謂へリ」これは小石川ですから、実際に谷に鶯がいたかも知れませんが、そういうわけではなくて、春を告げる鶯が、絶えず鳴き飛んだとしても、自分には春は来ない。「庭ノ梅已ニ綻ビタレドモ」梅は一つ二つ花を付け始まったけれども、「我ハ真ナラズト謂ヘリ」。それは嘘だ。そんなことはありえない。泰姫が亡くなったのに春が来るなんてそんなことは有り得ない。私の心の中には花は咲かない。考えてみれば、「去年ノ今日ハ対酌シテ觴ヲ挙ゲキ」。去年のお正月はお互いにおめでとうと挨拶をしあってお屠蘇を酌んでお互いの健康を祝いあった。ところが今年は「独リ坐テ香ヲ上ル」。お酒ではない、死んだ人に対してお香を焚いている。「嗚呼哀シイカナ幽冥ノ長ク隔ツルコト天カ命カ」。もう会えない、これが天命というものなのだろうか。「維レ霊来リ格レ」。格レというのは木の枝が突き出している様でありまして、出てきて下さいという意味なのです。願わくばその霊よ、もう一度出てきて欲しい、ということです。非常に短い文章ではありますけれども、簡潔にその部屋の様子を叙しながら、心の中の寂しさ、穴の開いたような空しさというものを、実に率直に訴える。そして亡くなった奥さんに向かって心の悲しみを述べている。非常に心を打つ名文だと思います。
 この泰姫、名前は尋(ちか)子と申されますが、この方は近衛信尋という、応山公と諡されますが、五摂家の一つ近衛信尋公の娘なのですが、この近衛信尋公というのは、後陽成天皇の皇子で、後陽成天皇の女御が藤原氏から上がりました。女御中和文院前子。この方と後陽成天皇の間に生まれた子供でありまして、どういう理由か近衛家に養子に入りまして、近衛の家を継ぎました。そのお兄さんが、後水尾天皇になるわけです。従って泰姫は後陽成天皇には直接の孫、後水尾天皇には弟の娘ですから姪、そしてこの義公と結婚なされた時には既に後光明天皇の御代になっていますが、後光明天皇とは従兄弟に当たります。そういう血筋にお生まれになった方です。それで、お公家様と一口に言いましても、貴戚といいますか、尊い血筋に生まれられた方です。この義公と泰姫の婚姻というものは、義公を初め育てられた三木之次の奥さんの武佐という方がおりますが、当時八十歳を過ぎておりますが、この方がどうも間に立って、縁談をまとめあげたらしいのです。と言いますのも、この武佐は三木氏に嫁ぐ前に先程の後陽成天皇の女御中和文院前子、つまり信尋のお母さんですが、この人にお仕えした。女御としてお仕えしていたのです。実は、武佐の妹が義公のお父さんである頼房公の乳母であったのですが、早く亡くなって、寂しがる頼房公の為に特に宮仕えをしておった武佐を、お姉さんですから二人はそっくりだったということで京都から特に貰い受けて頼房公の乳母にして、三木氏に嫁がせた。だから義公のお母さんが懐妊したときに、水にしようと言われたのを、引き取って生ませた。それが後の義公になるわけです。武佐がそういうことをやったということも、頼房との深いつながり、持っている教養というものから考えてみれば当然だったのかも知れません。
 いずれにしましても泰姫は承応三年二月、江戸に下り、四月に義公と婚姻の礼を挙げられます。その時十七歳であります。そしてこの萬治元年には二十一歳であります。そうしますと足掛け五年に満たない歳月でしか二人の結婚生活はなかったのです。その間の二人の心の動き、つながりというものにつきましては、これを史料で探るというのはなかなか難しいのですが、お二人の間は非常に仲睦まじく、しっくりといっていただろうということは、ある程度泰姫の歌集『香玉詠藻』から想像されます。またそればかりではなくて、泰姫はいつの時からか分かりませんが、義公の講義に列席して居ります。義公は結婚したときは二十七歳、ですから二十代後半、どのような人達を相手に何処でやったのかは分かりませんが、恐らくお付きの儒者達を相手にしてでしょうけれども、礼記の講義をしていることが判っています。そしてその講義の時に泰姫も参加していた、ということが判っています。それは礼記の中のお葬式の儀礼に関する所を義公が講義した時に、聞いていた泰姫が、どうも支那のお葬式のやり方というものは日本の神道のやりかた、古くからの神道のやり方に近い。(これは流石に京都の生まれだからでしょうか。)自分がもし死んだ時にはやはり儒教のやりかたでお葬式をして貰いたい、という感想を述べた。それについて義公は、まさかそんなに早く死ぬわけない、自分のほうが先に逝くだろう、と思っていたでしょうけれども、あなたの希望は良く判った、亡くなった時にはそうしましょう、という話しをした。それが何年も経たないうちに現実の出来事になってしまったのです。儒礼といいますか、日本古来の葬礼を以て、それに儒式を加味したものでお葬式をしてほしい、というふうに言われた。ですから、お墓も本当はお寺には葬りたくなかった。ただ墓地というのは人々の農耕の邪魔にならない、荒れた土地とか、あまり役に立たない土地を墓地にするのが相応しいのですが、そう言って探すというと適当な場所がないので取り敢えず薬王院に埋めることにしたということです。
 ところが葬儀の後に薬王院の古文書を調査してまいりましたところが、一枚の和与状が見つかりまして、これには「近衛北殿御領常陸国吉田云々」という文言がありまして、薬王院のあった吉田のところはかつて近衛家の荘園だったことがわかりました。薬王院を墓所に選んだのは、別にそういう因縁を知って選んだわけではないのだけれども、実はその墓を造ったところが、元々近衛家と縁のあった所であるということに、非常に義公は驚きました。そういった奥さんの葬儀とその薬王院の文書にあらわれた事実と、その不可思議な冥合というものについて、近衛家に書類を作って報告をしております。
 そのょうに、漢文の講義に出席するという位ですから、基本的な教養は十分なものがありたのでしょう。しかしただ単に教養を目指す、知識を得る、ということではなく、そういったご主人の講義を聞き、そしてそれについてご主人の意図する所を理解して、自分も主人の道に従っていこうというそういう心を持って、学問をしていかれたのが泰姫であったわけです。当時武家の奥方が漢文の講義に出席するなどということは恐らく無かった事でしょう。それだけでも異例ですが、ご主人と一緒に勉強する。そしてご主人の理想とする所を学んでいく。自分もそれに従おうとする。そういう夫人であったということが言えそうである。ですから義公にとって泰姫という方は、単に優秀な学問の友というばかりではなく、志を同じくし、一緒に手を取って歩んで行くという上に於いて、本当に得難い同志、同じ志の人間である。しかも夫婦でもありますから、最も心安らげる、信頼できる伴侶だったのだろうと思います。
 義公が奥さんにどのようなことを期待し、どのように奥さんを育てたかということを、次の文章を読むことによって考えてみたいと思います。これは原漢文でありまして、読み下しだけをプリントしました。
   内ノ始メテ志ヲ言フニ和ス並ビニ序 婦人ノ才有ルハ 古今ノ難シトスルトコロナリ。謝女ノ貞 曹家ノ訓 椒花ヲ頌へ錦字ヲ織ル。余ハ姑ク諸ヲ舎ク。文物ノ盛ンナルモ 僅カニ数人ノミ。況ンヤ我朝ニ於テヲヤ。賀茂斎院内親王有智子ナル者アリ六経ヲ学ビ博ク百家ニ通ズ。詩賦文章ハ 布シテ方策ニ在リ。爾来武ヲ継ギテ起ツ者 未ダ曽テ聞カザルナリ。嗚呼 粉ヲ傅シ脂ヲ凝ラスハ 其ノ姿ヲ妝ル所以ナリ。書ヲ読ミ学ヲ勤ムハ 其ノ心ヲ正ス所以ナリ。心正シクシテ后 身修マリ 身修マリテ后家斉フ。家内ヲ治ルハ婦人ノ道ナリ。詩ニ伝ハズヤ其ノ家人ニ宜シト。化シテ以テ国ニ天下ニ及プトキハ則ハチ治平ヲ致サン。九仞ノ山モ一簣ヨリ始マリ 千里ノ途モ 一蹴ヨリ始マル。其ノ先後スルトコロ 蓋シ知ルベシ。我聞ク 古昔ノ君子ハ 婦人ノ好悪ヲ論ズルニ 苟ダ徳ヲ以テ称シ 色ヲ以テ取ラズト。諸葛ノ醜女 閔王ノ宿瘤 是レ其ノ徳ヲ以テスル者ナリ。呉ノ西子 唐ノ太真 是レ其ノ色ヲ以テスル者ナリ。所謂徳ヲ以テ愛ヲ受クル者ハ 愛竟ニ弛マズ。色ヲ以テ寵ヲ得ル者ハ寵時有リテ衰フ。譬ヘバ如シ布袋ニ金玉ヲ貯フルカ 人争ヒテ之ヲ取ラン。錦嚢ニ糞土ヲ盛ルカ 誰レカ之ヲ棄テザランヤ。今年始メテ詞花ノ閨房二生ズルヲ見 長ク英才ノ芸苑ニ秀デンコトヲ期ス。題スルニ春月梅ニ映ズヲ以テス。是ニ於テ点竄ヲ予ニ請フ。就イテ之ヲ誦スルニ 句々琅々 字々燦々 豈其ノ間ニ觜ヲ容レンヤ。戯レニ題ノ字義ヲ取り卿ニ語リテ曰ク。能ク三冬ノ寒苦ヲ経テ 而シテ一陽ノ来復ヲ知ル。凛凛トシテ節操高ク 彬彬トシテ文質アリ。玉色ヲコレ明道二比シ 深衣ヲコレ馬公ニ擬ス。宣ナルカナ 梅ヤ花中ノ儒、其ノ称豈浅々ナランヤ。若シ夫レ月ハ陰ノ徳ナリ女ハ月ノ象ナリ。陰陽ノ変 盈虚ノ数 万人ノ仰ギ望ムトコロナリ。文昭甄皇后曰ク。聞ク 古ヘハ賢女未ダ前世ノ成敗ヲ学ビ以テ己レガ識ト為サザルハアラズ。書ヲ知ラズ何ニ由リテカ之ヲ見ン 所謂文ハ道ヲ貫クノ器ナリ ■(旃の丹が冉の字)ヲ勉メザルベカラズト。行ヒテ余力アルトキハ則ハチ以テ文ヲ学ブノ遺意ナリ。卿夫レ拳々服膺シテ之ヲ失ハザレバ 佗日明徳ヲ中国二輝ヤカシ 芳名ヲ後世ニ流サンコト必セリ。恰モ月ト梅ト相映ズルガ如カランカ。是レ予ノ規祝スルトコロナリ。筆ニ信セテ韻ニ次ス。
 一刻千金誰カ買ヒ得ン 暗香疎影両三枝 月光妝出ス含章ノ下 面ヲ撲ツ春風吹クニ耐へズ
 「内ノ」といいますのは家内ということで、自分の妻が、ということです。「始メテ志ヲ言フニ和ス」。この志は、漢詩の詩です。漢文で作った詩のことです。つまり奥さんが始めて漢詩を作った。それでこの奥さんの作った漢詩に併せて自分も漢詩を作った。同時にそれに一言言葉を添える、それが序です。「婦人ノ才有ルハ古今ノ難シトスルトコロナリ。」厳しいようですが女性で優れた才能を示した者は歴史上にもあまり多くない、ということです。「謝女ノ貞曹家ノ訓」というのは、謝女というのははっきりわからないのですが、宋の謝枋得の奥さんのことではないかと思います。この奥さんは非常に立派な方でありまして、残された子供を連れて逃げたのですが、探索が厳しくて親戚縁者その他知人に迷惑がかかるというので進んで捕らえられましてご主人に殉じて首を括って死にます。謝枋得のお母さんもまた非常に立派であったということで、国が滅びましてその清節といいますか、節義を守り通した優れた人として有名でありますが、特にその詩が有名でありますが、その奥さんの事だろうかと思います。「曹家」は曹大家と言われた漢の班昭のことであろうかと思われます。訓というのは教えでありますが、班昭には「女誡七章」というのがあります。非常にこの人も立派な人であり、皇后貴人の師となった、ということです。この人も才能がありまして、兄の班固の未完成であった「漢書」を完成させたのが班昭です。班昭といい班固といい女か男かはっきりわかりませんが、班昭というのは女性であります。「椒花ヲ頌へ錦字を織ル。」これは秦の劉繁と言う人の奥さんの陳さんという人です。錦を織るというのは前秦の寶滔の奥さんの蘇氏です。これは「元日藤婦人」とありますように藤は藤原ですから婦人は藤原氏なのです。このように支那のほうでは「婦人~氏」といいまして、生まれた方の姓を使うのです。そのような支那式のしきたりというものが日本でもずっと活きておりまして、これは常磐墓地に行かれましても酒門の墓地に行かれても、奥さんの墓は「婦人~氏」と書かれていると思います。ですから蘇という家からお嫁に来た奥さんという意味です。名前がのこっていません。このように歴史上有名で、才女であり、しかも貞節であり、優れた人々として歴史に名を残している人は四人程伝わっているけれども、ということです。「余ハ姑ク諸ヲ舎ク。」その他にも多少ある、ということです。舎クは措と同じです。このように考えてみると「文物ノ盛ンナルモ僅カニ数人ノミ。」支那大陸のように歴史も古く、人物も多く、そういう盛んな国であっても、指折り数えてみて数人というところではないか。「況ンヤ我朝ニ於テヲヤ。」まして支那程の歴史も文化の深みもない日本に於いては、女性で名を残した人というのは非常に少ない。挙げてみると「賀茂斎院内親王有智子ナル者」があった。この人は「六経ヲ学ビ博ク百家ニ通ズ。詩賦文章ハ布シテ方策ニ在リ。」この人は四書五経、支那の古典を十分に学び、様々な典籍に通じておる。また詩文も巧みであった。方策は書物ということです。これは歴史書に残されている。『経国集』にあります。嵯峨天皇の皇女であった。紫式部も清少納言も出てきませんが。「爾来武ヲ継ギテ起ツ者」この武という字は音が同じで歩という字と同じです。跡を継ぐ者「未ダ曽テ聞カザルナリ。」義公の判断というのはこれがそうであったとすれば二十代後半かなり学問をしているわけです。非常に厳しいです。そして、そういう厳しい、このような人物を奥さんに期待しているのです。「嗚呼 粉ヲ傅シ脂ヲ凝ラスハ」傅は守役という意味がありますが、別な意味でくっつく、附属するの附と同じ意味でもあります。脂粉といいます。お化粧です。「其ノ姿ヲ妝ル所以ナリ。」この妝というのはお化粧の粧の字の古い字であります。白粉で化粧をするのは姿を飾るためである。「書ヲ読ミ学ヲ勤ムハ 其ノ心ヲ正ス所以ナリ。」先哲の文を学ぶ広くは学問をする、これは心を正しくする所以である。大事なのは姿を飾ることではない。「心正シクシテ后身修マリ身修マリテ后家斉フ」修身斉家と申しますが、その修身の元は心を正しくすること。つまり先哲の学問をすることなのである。それが基礎になって初めて家も整えられる。「家内ヲ治ルハ婦人ノ道ナリ」夫人の第一の務めは家庭をしっかりと守ることである。「詩ニ伝ハズヤ」、詩というのは詩経であります。「其ノ家人ニ宜シト。」其ノ家人ニ宜シトというのは知りませんが、詩経の桃天の章に、「桃の夭々たる云々」という詩がありますが、あれには「この子干き嫁ぐその室家に宜し」という言葉があります。「化シテ以テ国ニ天下ニ及ブトキハ則ハチ治平ヲ致サン。」家を治めるという基本がしっかり為され、その心を以て「国ニ天下ニ」この場合国というのは常陸の国という意味で、天下というと日本の国ということになるでしょうか。平和の基はここにあるということです。「丸仞ノ山モー簣ョリ始マリ 千里ノ途モ一蹴ヨリ始マル。其ノ先後スルトコロ蓋シ知ルベシ」。今のところを繰り返しますと、女性で才あり名を残したものは少ない、それは何故か。義公に言わせれば、書を読み学を勤めないからだ。悪戯にお化粧で飾っているだけではなくて、心を正しくする努力をしていないからだ。それが基本なのだ。その前後するところを考えなければならないということです。更に畳み掛けて言います。「我聞ク 古昔ノ君子ハ 婦人ノ好悪ヲ論ズルニ 苟ダ徳ヲ以テ称シ 色ヲ以テ取ラズト。」昔の優れた人は女性の好し悪しを判断するのに、その女性に備わっている徳によってそれを見分けた。美人だからというわけではない。その例は「諸葛ノ醜女」。諸葛孔明、有名な三国時代の蜀の宰相です。奥さんは甚だ不美人であったということです。「閔王ノ宿瘤」。春秋の斉の国の閔王の皇后は、首に大きな瘤があったのです。その瘤がある女性が、桑畑で桑を摘んでいたのを見て見初めたという話し、故事があります。いずれも非常に賢夫人として聞こえています。「呉ノ西子 唐ノ太真」これは皆さん良く御存知でしょう。西子の名は施です。越の生まれですが、越王勾践に見出され、色仕掛けで陥れるために呉王夫差のもとに送り込まれた美人です。しかし、この人は肺病病みであったので、絶えず胸を抑えて顔を顰めるような風情があった。それが何とも艶めかしいというので評判になったものですから、ある醜い女がこれを真似たところ、村人たちは恐怖の余り逃げ出した、という話があります。これが「顰みに倣う」という言葉の起こりです。それ程有名な美人であった。そしてあまり呉王が夢中になった為に国を滅ぼしてしまった。唐ノ太真は楊貴妃です。揚貴妃もまた玄宗の寵を受けて安史の乱を招き寄せた。そういう意味でいずれも傾国の美女と言われております。「所謂徳ヲ以テ愛ヲ受クル者ハ 愛竟ニ弛マズ。色ヲ以テ寵ヲ得ル者ハ 寵時有リテ衰フ。」これは当たり前のことです。「警ヘバ如シ布袋ニ金玉ヲ貯フルカ」例えばぼろ布の袋であっても、それに金や宝石が入っていれば、「人争ヒテ之ヲ取ラン。」人は争ってこれを取るだろう。「錦嚢ニ糞土ヲ盛ルカ 誰レカ之ヲ棄テザランヤ。」立派な錦の袋であっても中に糞が入っている。誰も拾って行かない。開けてはみるかも知れないがすぐ棄ててしまう。それと同じなのだ。お化粧だけで、色だけでというのは錦の袋。中は糞、土ということです。この辺の所に女性としての在り様と言うのでしょうか、特に女性は表を飾りたがるのが多いのですが、そうではないのだぞ、ということを教えているのです。ここからがある意味では本題なのですが、詩を見せられたことに対する本題です。「今年始メテ詞花ノ閨房ニ生ズルヲ見長ク英才ノ芸苑ニ秀デンコトヲ期ス。」閏房というのは奥さんのいる閏です。初めて奥さんが漢詩を作った。見てみるとなかなか優れている。「題スルニ春月梅ニ映ズヲ以テス。」その題は「春月梅に映ず」という題の詩であった。それで、出来ましたので、と言って恐る恐るかどうか知りませんけれども、ご主人である義公に、どうか直して戴きたい、と来たわけです。「是ニ於テ点竄ヲ予ニ請フ」ということです。「就イテ之ヲ誦スルニ 句々琅々 字々燦々 豈其ノ間ニ觜ヲ容レンヤ。」どれどれ、といってこれを口ずさんでみると、その言葉遣いも非常に琅々としており、玉のようである。琅は琅■(たまへんに干の字)の琅です。燦は輝いている様子ですから、非常な、珠玉の如き文章である。文字の一つ一つも光っている。全く手を入れるところがない。非常にすばらしい。そこで「戯レニ題ノ字義ヲ取リ卿ニ語リテ曰ク。」、春の月が梅に映ずるという題の意味を取って、更に私の思うところを貴方に申しましょう、というわけです。「能ク三冬ノ寒苦ヲ経テ 而シテー陽の来復ヲ知ル。」三冬というのは三年という意味もありますが、初冬、仲冬、季冬、昔の暦で言いますと十月、十一月、十二月の三カ月が冬です。それで三冬、です。この冬、の寒さを凌いで春の来たことをいち早く知って百花に先躯けて咲くのが梅ですが、春の兆しをいち早く感じとるのが指でありますが、「凛凛トシテ節操高ク彬彬トシテ文質アリ。」いたずらなけばけばしざは全く無い。彬彬というのは飾りと実質とが並ぴ備わっているという意味です。盛んであるという意味もありますが。文質とありますが、文と質です。文は飾り、質は実質。梅の花というものは、姿はすっきりしている。花としての本質は全て備えている。しかも余計なものは無いのです。それを形容したのでしょう。「玉色ヲコレ明道ニ比シ深衣ヲコレ馬公二擬ス。」なかなか難しいのですが、明道というのは程明道のことかと思うのですが、彼は非常に節義を重んじた清節の儒者と言われた方であります。馬公は司馬公かと思いますが、この人も不義を極端に嫌った人なのです。だから明道馬公が人であれば、いずれも素晴らしい清節の士。深衣というのは古代の衣のことでありまして、ごくあっさりした衣だそうです。ようするに、梅の花が飾り気無く質素で、しかも凛とした、そういったことを人物になぞらえているのだろうと思います。そのようなわけで「宜ナルカナ梅ヤ花中ノ儒、」梅は花の中の儒と言われている。真にその通りだ。「其ノ称豈浅々ナランヤ。」なかなか深い意味があるぞ、ということで、梅の花について先ず述べます。梅というのはそういう花だ。「若シ夫レ月ハ陰ノ徳ナリ女ハ月ノ象ナリ。」さて月に付いて考えてみると、月は陰の徳である。しかも女性を象徴する。「陰腸ノ変盈虚ノ数 万人ノ仰ギ望ムトコロナリ。」この陰陽の変というのは、月は陰なのに陰陽の変というのはおかしいのですが、曇っても晴れてもということなのでしょうか。盈虚は満ち欠け。そのように月は変化しているわけです。それはそれぞれに人を喜ばせる。月は空にあって自ずからにして輝き、自ずからにして満ちたり欠けたりする。どこにも媚ぴ諂ってない。中空に独り在る。しかし全ての人がこれを仰ぎ見ている。女性の徳として素晴らしいことです。「文昭甄皇后曰ク。」文昭甄皇后というのは三国の魏の曹操の妃です。「聞ク 古ヘハ賢女 未ダ前世ノ成敗ヲ学ビ以テ己レガ誡ト為サザルハアラズ。書ヲ知ラズ 何ニ由リテカ之ヲ見ン 所謂文ハ道ヲ貫クノ器ナリ ■(旃の丹が冉の字)ヲ勉メザルベカラズト。」ここまでが甄皇后の言棄です。この人も中々優れた女性でありまして、道徳的にはともかくとして、学問というものに心を用いた人であります。「文ハ道ヲ貫クノ器ナリ、」文章を学ぶ。文字を知り、先哲の文を学ぶことは人としての生きる道、在り様というものを明確にしていくための道具である。逆に言えば、文章の些細な所にこだわっているのは道を貫くわけではないのですから間違いなのですけれども、文章はその道具である。■(旃の丹が冉の字)ヲ勉メザルベカラズトと言って文字を学ぴ文を学んだ。「行ヒテ余カアルトキハ則ハチ以テ文ヲ学ブノ遣意ナリ。」日常の様々な為さなければならないことがありますが、それに多くは奪われがちですが、余裕がある時は文章を学んで、それによって道を知り、更に人間としての反省、或いは人間としての在り様というものについて思索をこらしていく。またそれを日常に生かしていく。それが大事なのだ。ということなのです。この文昭甄皇后の言葉は、文を学ぶということの本当の意味を伝えているのだ。「卿夫レ拳々服膺シテ之ヲ失ハザレバ」この言葉をよく心に刻んでそして実践していくならぱ、「佗日明徳ヲ中国ニ輝ヤカシ万名ヲ後性ニ流サンコト必セリ。」佗は他と同じです。その優れた徳、これを中国に輝かし、ここに中国が出てきました。これは大陸ではありませんで、日本であります。わが国に輝かし、その芳しい名を歴史に残すであろう。文昭甄皇后の言ったように、文は道を貫くの器であるから、書を学び、文を学ぶ、漢詩を作るのもやはりその為なのだ。単なる遊ぴではない、と言っているわけです。その事を良く心に刻んで学問を続けていけば必ずや後世に名が残るようになる。また優れた女性として日本中の人々から仰がれるような、そういう人になるであろう。「恰モ月ト梅ト相映ズルガ如カランカ。」丁度月と梅とが相映ずるが如くであろう。「是レ予ノ規祝スルトコロナリ。」規祝という言葉は、辞書に出ておりませんが、誤植か、或いはこのような字を当時便ったのか。私が希望し、喜んで期待するところである、という意味でしょう。そこで「筆ニ信セテ韻ニ次ス。」取り敢えず筆を取って、そしてあなたの詩の韻に合わせて私も詩を作りました。「一刻千金誰カ買ヒ得ン 暗香疎影両三枝 月光妝出ス含章ノ下 面ヲ撲ツ春風吹クニ耐ヘズ」と。これが奥さんが初めて漢詩を作って添削してくれといわれた時に義公が書いて与えた文章です。奥さんが詩を作った。ああ、良くできたね、私も同じ韻で詩を唱和しよう。それたけでも優しいですが、同時に、奥さんが新しい努力をして漢詩を作るというのは大変な事ですから、そうして来たことを学問の発端として褒め称え、そしてこれから行くべき心構え、行くべき道を親切丁寧に教えている文章です。
 文章の表面から見れば以上のような事なのですが、実は、ここに更に考えるべきことがあるのです。泰姫が作られた詩と義公がお作りになられた詩をならべてみますと、

    (泰姫)平起平韻
               △
   ○ ○ ○ ● ○ ○ ●
   春 宵 深 月 清 雲 上       ☆ ○ ☆ ● ● ○ ◎

   ○ ● ● ○ ● ● ○
   梅 蕋 運 香 玉 満 枝       ☆ ● ☆ ○ ☆ ● ◎
           ×    
   ● ● ● ○ ● ● ●
   此 景 有 誰 得 繪 盡       ☆ ● ☆ ○ ○ ● ●
             ×
   ● ○ ● ● ● ● ○
   暁 風 一 陣 撲 鼻 吹       ☆ ○ ☆ ● ● ○ ◎


    (義公)仄起平韻
               △
   ● ● ○ ○ ○ ● ●
   一 刻 千 金 誰 買 得       ☆ ● ☆ ○ ☆ ● ◎

   ● ○ ○ ● ● ○ ○
   暗 香 疎 影 両 三 枝       ☆ ○ ☆ ● ● ○ ◎

   ● ○ ○ ● ○ ○ ●
   月 光 妝 出 含 章 下       ☆ ○ ☆ ● ○ ○ ●

   ● ● ○ ○ ● ● ○
   撲 面 春 風 不 耐 吹       ☆ ● ☆ ○ ☆ ● ◎

 義公の詩は大変良く出来ております。ところが泰姫の詩は、句々琅々字々燦々かもしれませんが、漢詩としては全くだめ、落第の漢詩なのです。漢詩はご承知の通り古い形は別といたしまして、漢の終りから唐の時代には定形化しまして、約束事が色々出来てきました。その約束事に合わせて作ることになっています。○、●、☆、これは声の種類を表します。○が平声、●が仄声で、☆は平声仄声のどちらでも真いという意味です。向こうの言葉というのは四種類の発昔に分けられます。平、上、去、入と言っておりますが、平声というのは平な発音で、その他のものとは別なものとして分けているのです。平らな発音の方を平声と言い、変化の付く方上声、去声、入声を併せて仄声と言っています。平仄という言葉がそれなのです。義公の詩を見てみますと、刻という字は仄音の字なのです。二字目が仄音である場合には仄音で始まる詩なので仄起なのです。泰姫のは音という字が平声なので平起なのです。韻はどこにあるのかというと二行目の最後と四行目の最後です。本当は一行目の最後と二行目の最後、四行目の最後にあるのが正式ですが、一行目は韻を合わせなくて良いことになってますので、最低二行目と四行目、つまり、これは同じ韻の字なのです。支という字を代表とする韻、どれもその仲間なのです。
 ところで、その平仄をどのように並べるかということについては、詩の下に○と●で定形を示しました。それが定形の約束でございます。多少は動いても良いのですが、やってはいけない規則というのがあるのです。それは、二番目と四番目の文字、これは平と仄が同じであってはいけない。二番目に平声を持ってくれば、四番日は仄声でなければならない。二番目に仄声を待ってくれば四番目は平声でなければならない。これを二四不同、二番目と四番目は同じからず、と言います。それから二番目と六番目は同じでなければならない。大体それはあってますが、泰姫の方は最後の行の字、「暁風一陣撲鼻吹」の風が平声で鼻が仄声ですから、これはどちらも平か仄に揃えなければいけないという規則があります。これが二六対というのです。それから、弧平を忌むというのがあります。仄声と仄声のかに一つだけ平声が入るのはいけないことになっています。これは恐らく、日本人には判らないのですが、向こうの人の発音の調子の関係だろうと思います。そうすると泰姫の詩は二行目の「梅潅運香玉満枝」とあるが平声で、これが弧平です。最後の「暁風一陣撲鼻吹」の風もまた弧平です。三行目もそうです。「此景有誰得繪盡」の誰も弧平。つまり四連の語句の中で三つも弧平の禁を犯している。それから下三連を忌むということもありまして、下三つが同じ韻ではいけない。例えば三行目の得絵盡というのは全部仄声になってますから、これはだめなのです。×をつけたり線を引いたりしているところがその指摘なのですが、そういうふうに、正式な漢詩を作るという建前から言えば、泰姫の詩は、一応字は並んでいますが、平仄が合ってないといいますか、漢詩としては成り立たない詩なのです。義公の詩は流石にニ四不同、二六対、弧平もありませんし、下三連も有りません。義公はご自分でこのようにお作りになれるのです。奥さんのをみれば一目で、これは弧平、まずいな、下三連、まずいな、というふうに判るわけです。しかしそれについては一言も言ってないのがまたこの文章の良い所ではないかと思います。考えてみれば、初めて作ったのですから、二度三度作っていく内に段々慣れて判ってくるわけですから、初めからこれはだめ、あれはだめ、と言ってしまっては、折角やろうとしていた気持ちがだめになってしまう。一所懸命やったことを先ず褒めて上げる。それをきっかけとしてどんなものでも、しっかりと、本当のものを身に付けるように努力させる。これ正に教育の原点です。こういうふうにして奥さんの向上心を、学ぼうとするきっかけを大事にして、出来たものを大切にして、更に目標を与えて励むように言った。奥さんと義公のご関係というのは、学問も一緒にされる、志を一つにされる、そのような素晴らしい夫婦のご関係であったろうと思います。泰姫の文章のほうからは、なかなか出てこないのですが、ただ『書楼の記』というのがあります。これは火事で焼けだされまして、今の神田に移った時に、二階建てか何かの新しい建物ができます。その建物に呼ばれて泰姫が、ご主人と一緒に月見をします。その時に泰姫が『書楼の記』という文章を書いております。書楼の竣工を非常に喜んでいることが良く判る文章なのです。この書楼というのは何かと言いますと、書物の楼というのですから義公の書斎だと思うのです。『大日本史』の編纂を始めた場所なのではないかと思っています。『大日本史』の編纂は、最初火事小屋御殿で始められたと言われております。おそらくはこの書楼が後に火事小屋御殿と呼ばれたのではないかと私は考えています。
 『大日本史』の編纂事業というのは、例えば人見ト幽というような人も、それは無理ではないのですか、ということで、非常に疑問を懐いておりました。そのような反対の多い中で、奥さんは、火事の後いち早く、ご主人の書斎が出来上がったということを心から喜んだ。このようなこと考えてみますと、義公と夫人との間には、本当に素晴らしい心の結びつきが在ったのだろうと思います。そういう関係を大事に育ててきて、足掛け僅か五年、急にこの奥さんを失われた義公の悲しみというものは大変深いものがあったろうと思います。またその悲しみを、祭文という形式の枠ではありますが、率直に述べられた、その文を作らざるを得なかったといいますか、そのような義公のお気持ちも判るような気がします。その後奥さんとのことについては殆ど何も言いませんし、周りの人がそれに触れると、わざと話しを逸らせてしまうということが多かったようですが、七十一歳になった時に、ある日突然それまで長くしていた髪の毛を切って短くしてしまうのです。それは理由はなにも言いませんが、その日が十二月二十三日なのです。数えてみると奥さんが亡くなってから丸四十年。泰姫の面影というものは、歳を取られても、義公の中にいつまでも残っていたということではないかと思います。忘れ得ぬ面影であった。
 数々の優れた業績、『大日本史』の編纂、湊川の建碑、というような事を通して日本の国の大義を明らかにした。あの戦乱戦国の時代の後に生まれて、そして大きな志の下に日本の国の歴史の真の姿を明らかにしようと、非常な大事業を興された。我々日本人にとって、また殊更この水戸に学ぶ者にとっては、素晴らしい、有り難い人物、義公ですが、その義公のそのような事業の底に流れるもの、それは何だったのだろうか。学者の中には、一種の名誉心、戦国の時代ならば国取りもできるけれども、平和な時代だから出来ない。大きな学問的な仕事をやって名を挙げようとしたのだ、という人があります。それは義公は確かにそう言われております。名を後世に残すような仕事をしたいということを。それは確かにそういう気持ちは有るだろうと思います。しかし単なる打算、野心だけであれだけの仕事が出来るわけではないし、また歴史というものを深く理解できるものではない。やはり本当に歴史を学び歴史を理解する為には、生きている人間に対する信頼、愛情というものが無いと、これは不可能だと思います。義公が生まれた時こそ不思議な星の下にお生まれになったわけですが、その後父親頼房公の愛情を受け、更には、泰姫という人を通して、男女の愛を知り、女性の素晴らしさを知った。そのようなことが義公の学問の中に血を通わせているのではないかという気がします。直接日本の国を考え、日本の道を考え、日本の将来を考えるという、そういう意味での文章ではありませんでしたけれども、やはり、先程義公の文章にもありましたように、「九仞ノ山モ一簣ヨリ始マリ 千里ノ途モ 一蹴ヨリ始マル。」千里の道も一歩より、九仞の山を築くにも一簣の、菰一杯の土を置くことから始まる。先後するところはあります。やはり心正しく身修まるというのが基本だろうと思います。そういうことを、改めて具体的な義公夫妻という姿の中に感じとっているということをお話しして、今日は時間が来たようですので終りに致します。どうも失礼致しました。

                        (平成七年八月六日講座)
                        (茨城県立太田第二高等学校校長)