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甲 辰 の 国 難 と 外 圧

                  吉 澤 義 一


 失礼致します。吉澤と申します。前々回、仲田先生から「天保の改革の発端とその発想」という話がございました。前回は斎藤先生の方から「改革の理想」ということで、詳しいお話がございました。本日は、この天保の改革が、順調に進んでおりました改革が、一旦、国難と言われることで頓挫いたします、その辺の事情と、改革が軌道に乗りかかる頃、今度は外圧が、つまりペルリの来航、あるいはロシア使節プチャーチンの来航、このような心配がされてきたことではあったのですが、現実に目の前に現れた時にどのように対処したのか、そのような問題を含めましてお話を申し上げたいと思います。
 天保の改革の理想は、私は『弘道館記』に凝縮されていると思います。「道とは何ぞ。天地の大経にして生民の須臾も離る可らざる者也云々」と始まりますが、『弘道館記』は、烈公やあるいは家臣達が、充分に研究し、文章を練りまして出来上がりました大文章であり、
     鳴呼我が国中の士民夙夜懈らず、斯の館(弘道館)に出入りし、神州(日本)の道を奉じ西土の教へ(支那の儒教)を資り、忠孝二无く(忠と孝は一致している)、文武岐れず、学問事業其の功を殊にせず。神を敬ひ儒を崇び、偏党あるなく衆思を集め群力を宣べ、以て国家無窮の恩に報いなば、則ち豈徒に祖宗の志墜ちざるのみならんや。神皇在天の霊も亦将に降監したまはんとす。
「国家無窮の恩」とありますが、これは国体に基づく所から出てきた言葉でありまして、日本と支那の国柄の違い、国体の違い、支那は革命の連続でありまして、国家国民が度々悲劇に会います。その都度歴史が断絶され、あるいは国が分断される、そのような支那の国柄と比較して、万世一系の日本の国柄、革命によって国民は分断せず、歴史が分断せず、日本はそのような非常にあり難い国である。「無窮の恩」と表現されておりますが、そのような国家の恩に報いる、そのようなことであれば、先祖代々の志も墜ちることはないだろうし、また御歴代の天皇の御霊も我々の成すことを御照覧賜るでありましょう。このような意味かと思います。そういうところに根本理念があり、こういう方針で人材を教育する。それと同時に理想の藩や国家を創っていく。こういう所に改革の理想というものが凝縮されているように思います。
 改革そのものについて、今までも沢山お話がございましたが、非常に順調に行っていたわけであります。殊に、幕府から天保十四年の五月八日、褒賞を受けるという栄誉に浴するわけです。これは『徳川実記』によりますと「水戸中納言まう上られ御座所にして御対面あり」とあり、将軍と謁見されるわけです。「御手づから包清。毛貫き形の御大刀、御鞍鐙、黄金百枚をおくらせられ、柳間にして吸い物。菓子をまいらせらる。」つまり、刀、馬に使います鞍、或いは鐙、そして黄金百枚を送られます。将軍直々に送られます。その改革の功を幕府から賞せられるのです。そういう栄誉に浴したのです。なおその時に、源義、つまり義公の遺志を継述して、継いで、これからもおやりなさい、こういう有難い言葉も賜ったということでありまして、この辺までは、幕府からも褒賞されるということで、これが一つの弾みになりまして、天保十四年五月以降、また烈公は藩政改革を押し進めていかれることになるわけです。
 しかし、それが突然隠居謹慎を被りました。およそ一年後です。「甲辰の国難」ということに遇われることになります。これが一体どうしてなのか。色々虚々実々、中々まとめようがございませんで、非常に難しい問題であると思いますが、一般に強調されている、或いは『水戸藩史料』、或いは『水戸市史』、そういった所で言われておりますことは、寺社改革が大きな原因になっているのではないかということであります。弘化元年の四月に、烈公は幕府から「七ヶ条の嫌疑」というものを受けます。挙げてみますと、
    一、常磐山東照宮の神仏両部なりしを唯一神道に改めたること(神仏分離ということ)

    二、蝦夷地国替の儀を内願に及びたること。

    三、勝手向不如意にも拘らず、濫りに土木事業を営みたること。

    四、弘道館の土手を高くしたること。

    五、寺院を破却したること。

    六、浪人者を召抱たること。

    七、鉄砲揃打を為したること。
このような七ヶ条の嫌疑でありまして、この中で、「東照宮を唯一神道に改めた事」、「寺院を破却したること」、これは幕府から褒賞を受けた後の事業ということでありまして、嫌疑を被った大きな原因であろうと言われているところであります。しかし、全て天保の改革を進行していく上で、正規の手続きをとってやってきた事でありまして、推進している人にとってはどうしてそうなったのかということがあるわけです。
 そこで、しばらく社寺改正というものはどういうものだったのかということを見てみたいと思います。史料を見てみますと、『水戸藩史料別記下』ですが、これで言われています事は、
     鳴呼公が不慮の奇禍に罹りたるは幕府の嫌忌僧侶の怨憤及び奸臣の讒誣等種々の原因ありて一朝夕の故に非ざるなり抑も公は夙に幕政の陵遲を慨嘆し挽回の策を講ずるもの一にして足らず殊に世人の睡夢を驚破したる大事業に至りては最も幕府の嫉視(妬み見ること)する所となりたれども公は毫も顧みずして之を断行し或は上言せしが會々毀鐘鋳砲(寺院の鐘を壊しそれで大砲を造ること)と社寺改正とは大に僧徒の不平を招ぎ奸臣亦此の機に乗じて讒説を唱へ竟には幕府の褒賞ありし後僅に一年にして幽閉の身とはなりぬ何ぞ幕府の公に對する前後の措置矛盾するの甚しきや
このような事です。そもそも烈公が幕政の陵遅、盛んな勢いが次第に衰えていくことを陵遅と言いますが、それを非常に嘆いておられまして、何とか挽回の策を講じようということで、天保以来、就藩以来度々幕府に対して建言を致されます。殊に天保十年には「戊戌封事」、(つまり「水府公献策」と言われているものですが、)これを老中水野忠邦宛に提出するわけですが、十一項目に分かれておりまして、当時の幕府政治の腐敗を非常に鋭く突き、それをどうしたら良いかということで建言をしているわけです。御存知のように将軍家斉の時代から将軍引退後も大御所政治というものが続いておりまして、幕府内にあっても非常に風紀が乱れておったという状態であったようであります。家斉という将軍は、よく言われることで、歴代将軍中随一の漁色家でありました。そういうところから、また側近の専権といいますか、独裁といいますか、それに近い人達もそれに輪を掛けて賄賂が当たり前のようになっていた時代であります。さらに大奥の幕政への干渉、これは賄賂を使いまして、お上の御機嫌をとり、自分の考えを政治に取り入れてもらう等便宜をはかってもらって、そのようなことが実際に横行していたということです。そしてその大奥の中には、日啓というような日蓮宗の僧が(中臈の父にあたりますが)、大奥の政、或いは幕政というものに深い関わりを持って政治を動かしていたと言われております。そのような幕政の陵遅の中で、これは改革の必要性がでてくるのは当然でありましょうし、幕府も天保の後半頃から、幕府なりの改革にも取り組んで行くわけであります。一つ強調したいのはなぜ改革しなければならなかったのか、というところを充分に考えて、天保の改革というものを見ていかなければならない、ということだろうと思います。賄賂を使って上がるような人を採用してはいけない、或いは緩んだ士風を厳しくし、或いは悪貨製造をやめて物価を下げる、そのような具体的な建言もそういうところから出てくるものでありまして、この時代は内憂外患交々至るわけでありますが、先程申しました「水府公献策」の中では、そのようなことを逐一指摘しまして、具体的に建言しておられるわけであります。また、外交問題についても、この折にオランダとの貿易或いはキリシタンの禁制、或いは侵略の恐れあるものに対しての打ち払いの徹底、或いは大船を造ることの許可、或いは当時一番問題になっておりました蝦夷地の問題(これは後に触れます)、そのような事に対しても、外患の問題に対しても厳しい提言をしていかれるわけであります。
 社寺改正にもどりまして、その嫌疑を被った一番の原因とされる社寺改正は、改革の中でどのように進められたか、ということを見ていきたいと思います。
 先ず東照宮の唯一神道に改めた事ですが、これは嫌疑を被った時にも弁明しておられることでありますが、改革の目標として、大きな柱として、神道の興隆がありました。従いまして、治教、政治と文教を一致させて推進する、そういう方針でありまして、これは初代藩主頼房公、また義公の志を継ぐことだろうが、文面の中でもそのようなことを言われておりますから、当然そのような目標でやられたはずであります。就藩前の天保元年、最初の政治改革でありますが、これは葬式の改革であります。特に神官は神葬祭で行うということに改めております。さらに天保三年には、住職が住んでいないお寺、或いは非常に壊れかかったお寺、そういったお寺を四十余り破却しておられます。さらに天保四年、就藩以後は村人の院とか、或いは法名、これを唯一神道の立場から禁止する事が行われました。さらに天保七年からは、大砲の鋳造の為に藩内の梵鐘、或いは鉄仏、これを那珂湊に運ばせるということも行われてきます。そして天保十三年、仏葬祭をやめて自葬祭をそれぞれの家で行う、そういった自葬祭の勧めもありました。天保十四年九月に、結城寅寿と組みまして、今井金右衛門という人が寺社奉行になりました。これは幕府の褒賞を受けてから四ヵ月後になります。これでますます寺社改革が強力に進められていくことになっていくわけです。或いはこの時の強引なやり方が問題ではなかったかという見方も強いわけであります。結局その頃までに処分されたお寺百九十ヶ寺と言われておりますが、だいたい真言宗のお寺が多かったようです。『水戸藩史料』では百余ヶ寺とあります。しかし、その殆どは無住の寺で、廃寺になったようなお寺が殆どで、全くの破却は十三であったというように藩の史料には記されておりますが、義公時代の規模からいえば、かなり小規模だったということが言えるかと思います。そして天保十四年の十二月、藩内の神社、これをことごとく唯一神道に改めていきます。そして弘化元年の二月には、石仏建立の禁止、或いは講、念仏の禁止、寺子屋の禁止、冠婚は神道、神社でというのが寺社奉行今井金右衛門の下で進められるわけです。
 そうした一連の動きの中で、さらに嫌疑の大きな原因となりましたのが、東照宮を唯一神道に改めたということです。これに対しては、天保十四年の正月に、実は水戸の吉田の薬王院から上野の寛永寺へ訴えがありました。お寺の大事な鐘を壊すのは困る、何とかしてくれということなのですが、最初はお寺の鐘を壊すことを止めさせてほしいという訴えなのです。このような実情があります、ということです。それに対してすぐ二月に上野の寛永寺から、お寺の梵鐘を保存するように、という請求が藩当局にまいるわけです。それは今井金右衛門が寺社奉行になる七ヵ月前になります。さらにその今井金右衛門が寺社奉行になった直後ですが、天保十四年の八月、今度は寛永寺から東照宮別当を旧に復せんことを求む、元の通りにしてほしいという請求がありますが、これは藩当局がこういうわけだということで許さず。さらに、その弘化元年の正月には、今度は幕府から吉禅院東照宮別当、について質問がございますが、これに対してもこれはだいたい義公以来の家風であり、その一端であるから、或いはこれは水戸家の国元の家風であるからというようなことでご容赦願いを出しているわけです。そういう経緯がありました。ここのところは本当に判らない所なのですが、最初は梵鐘をやめてほしいという訴えであり、金右衛門が寺社奉行になった後は、幕府も寛永寺も東照宮を元の別当に復してくれという要求でありました。
 それにしても寺社改革は烈公就藩以来ずっと一連の改革で進められてきた事であり、突然、天保十四年に至りまして重大な嫌疑をかけられたということは、何かやはりその背後に大きな原因があったと見なくてはいけないのではないかと思います。その原因を考えます時に(後世色々憶測を呼びますが、当時ももちろん良く分からなかったわけです。)これは残っている史料に頼らざるを得ないのですが、藤田東湖先生は『許々路廼阿登』の中で(こういう時は『回天詩史』にも言うように、死を決して烈公の罪を雪ぐ覚悟でありましたけれども)、次のようなことを述べております。
     君は舟臣は水水能舟を浮へ水能舟を覆すと申儀兼々金言とは存居候へ共甲辰の御国難に付き而は右金言別而存當り感服仕候そもそも御国難の起源を尋候に学派にて黨と名つけ候〔学派の説主張仕り尚又天狗の名目申出し候人物等委細御承知被遊候半と相略し申候〕より漸々に醸し成候事にて一朝一夕にあらず候得共其病症のあらはれ候所を以論し候へは小人ども銀次郎虎之介(銀次郎といいますのは両田と言われて烈公の股肱の臣の一人でありました戸田銀次郎です。虎之介は藤田東湖先生です。)等を斃し権を専らにせんとたくらみ候より事起り候而恐多くも 老公迄禍に逢給ひ候段水の舟を覆し候と同様に御座候〔小人の謀計今更思ひ當り候事数多御座候へ共事長く候文略仕候〕
具体的な名前は挙げておりませんが、小人共が、戸田銀次郎、自分藤田東湖を退けて、権力を専らにする。そのような陰謀ではなかろうか。そこから起こったのではないかという観察をしております。そして当初の目的はそうであったけれども、予想外に、烈公にまで禍が及んでしまった。これは、文面にあります「君は舟、臣は水、水能舟を浮へ、水能舟を覆す」の「水の舟を覆し」というのと同じことである、ということを述べております。
 それでは烈公自身はこの国難についてどのように考えておられたのか。後に謹慎中に、実は老中阿部正弘と盛んに手紙のやり取りをしておられました。『新伊勢物語』、阿部伊勢守と言いましたその伊勢なのですが、手紙のやり取りの中で、又『不慍録』という書物の中で、色々回想しておりますことは、この国難を被ったのは、奸臣(邪な人ですが)結城寅寿が、奸僧(邪な僧です)駒込大乗寺の日蓮宗の僧であります日華、こういった者達が、讒説、讒言を用いて幕府の奸吏(邪な役人)鳥居燿蔵という役人に取り次いで自分を失脚させたのであろうということです。これをかいつまんで申しますとそういうことなのです。
 事件の解明は、その当事者の記録をよく検討することから先ず始めなければならないわけでありますが、結城寅寿と僧日華、鳥居燿蔵等が事件に大きく関与していたようであります。
 少しご説明申し上げますと、この結城家と申しますのは、そもそもは例の建武の中興の時に南朝の忠臣といわれた結城宗広という方がおりますがその家系であります。この結城家は義公時代に、三百石で義公に召しかかえられた旧家であります。さらに五代良公の時には千石まで加増されました。文公の時には結城寅寿の父一馬、これは藤田東湖先生の『結城寅寿行状記』によりますと、かなり酒飲みで、意気地がなくて、家運を衰退させた。その子寅寿が、そういう家運の衰運を見まして、何とか家を再興しなければならないということで、励むのです。結城寅寿は小さい頃から才気抜群で知力も優れておりました。周囲からの期待も大きかったわけであります。天保四年十六歳の時には、早くも小姓に取立られました。その頃一所懸命に出精をし、さらには本を読み、そして、読書や弓馬で、武士達の相手をしている。そして何よりも貧しい人、貧窮の人達にはお金を与えて、非常に世話をしたそうです。その後使番となりましたが、この頃従兄弟に平尾右近という人がおりまして、この人が東湖先生の言を借りれば大僻物、ちょっと偏りのあった、ひがみのあった人でありました。仏法には熱心。この辺から結城寅寿の仏法贔屓が起こったのだろうと推測されております。それはともかく、天保十年には岡崎采女の帰国に対して、その邪魔をするというようなこともありました。さらに天保十一年、小姓頭に取立られる。ここでは非常に感心しておられるのですが、寅寿は色々な物事の処理が非常に精密であり、確かであるということで東湖先生は感心しておられます。その時に結城寅寿は奥右筆内藤市松と共に、藤田東湖先生宅を訪れたことがありまして、若年寄、これについて文句をさんざん言うわけです。若年寄はべらぼうである、こんな役はつまらない、不要である、というようなことを、二人で申し立てるわけですが、それは二百年来からあった若年寄であり云々、ということで東湖先生は答えられるわけですが、この時にはっきりしていることは寅寿との話の中で、「相違い腹の中にて睨み合い候はこの夜より始まり候相覚え候」ということでありまして、これは心境を吐露しあって話し合ったけれども、何となく心の底で、双方睨み合い、という雰囲気があったようです。そういうことを回想されておるわけであります。それが天保十二年の頃であります。
 烈公が隠居謹慎を命ぜられた前後、結城寅寿はどのようであったかということで、『結城寅寿行状記』の中から、弘化元年、隠居謹慎を命ぜられた前後の部分を、史料として挙げてみようと思います。
    一、此時(弘化元年四月二十日)上には湊御殿に入させられ(上というのは烈公のことです)、俄に帰御(水戸に帰ってきたのです)、御役人青く成黒く成考候中に、結城一人は意気揚々といたし、少しも苦心の様子之なく、御供はさしづめ結城御側野性一人ゆゑ、同断御番頭雑賀、御用人近藤ときまり候處 上には一刻も早く御登りの思召の處結城彼是とのべくり、是は結城初御供にて支度之なく候ゆゑ、江戸へ申遣し伊達道具等下りに日数を考へ、五月上旬御登りと御決着に相成申候。(次は東湖先生の意見ですが)五日十日御登りにても遅く候ても同じ事に御座候へ共、一日も早くと申す思召を大御供支度の為に延引は勿体なき儀、隨分かり物等にて間に合せ候へば事済申べく候ひき。(一刻も早く登城したほうが良いのではないかというような心配をしておるわけです)

    一、五月二日一同しほゝゝと御供仕候處、(藩主が嫌疑をかけられているわけでありまして、その下で仕える家臣達ですが)結城は御制禁の奴をふらせとうゝゝと発足仕候。

    一、御道中も結城一人は至極の元気に御座候。

    一、五月六日御一條相分候節は(御一條と言うのは烈公まで余罪が及んだということだと思います)結城もちと驚き候様子に御座候處、晩景に相成、戸田藤田今井等の仰渡され肥田呼出にて相渡り候後は結城の勢実に盛んの由、此後の事は野拙は見申さず、承り候斗に御座候。(この五月六日に謹慎・蟄居の処分を君臣共に受けるわけです。これで見ますと、結城寅寿の行状が尋常でないことが分かります。)

    一、五月六日夕、結城は連枝様御部屋の花の間へ罷出、(中略)其他種々御連枝様へこびへつらひ候處、例の大音ゆへ、御給仕の中奥御小姓委細詳に承り候由。
 この五月六日ですが、『徳川実記』を見ますと「徳川鶴千代麿(これが次の藩主になります慶篤です)の方に阿部伊勢守正弘、牧野備前守御使して嗣封の事仰せつかはさる。」とありまして、藩主を慶篤とする、という老中二人のお使いが行ったことがわかりますが、どういうわけか烈公の謹慎のことは本文には出てまいりませんで、カッコ書きして「按此時、水戸斉昭被命致仕謹慎」と、このようなカッコ書きであります。右筆にもはっきり分からない、そういう状態の中で行われた処分であったということがわかるわけであります。なおこの時、御連枝と言いますのは、府中、守山、高松です。この御連枝が、まだ慶篤が若いということで、支える政治をせよ、ということで後見を仰せつけられるわけです。この時に松平讃岐守、つまり高松藩主頼常は襲封の暇があったけれども、今年は幕府に留まるべし、というふうに命ぜられたというのです。なぜ高松藩主頼常が残るように命ぜられたのか、というようなことを色々と想像するわけでありますが、結城寅寿の様子、態度というのが、どうも謹慎処分を受ける時、又それ以後、非常に元気が良かったということは、やはり東湖先生、それから次にみる豊田天功『●(たけかんむりに龠と頁)天録』という書がありますが(これは天に向かって叫ぶというような意味です)、これでも触れられておりますが、理解出来ないことであったようであります。
 もう一つ、今申しました豊田天功の『●(たけかんむりに龠と頁)天録』は、烈公の隠居謹慎を非常に嘆き、何とかしなくてはならないということで、書かれた書物であります。おおよそのいきさつがこれで分かるわけであります。
     國難の今に至りて靖まらず讒説紛紜としてやまず公の千辛萬苦して國家の為御心盡させられたる御誠忠今に至るまで見はれざるは其深き子細有之第一大身(身分の高い人)中に結城寅壽と申す大姦人有之此者性質伶俐(非常に賢い)にて大身中にてハ稍文學もあり容貌粗樸言語眞率なるが如くなれども内心至て狡黠にて反覆變化無窮の惡智有之云々
とあります。これは天功の観察であります。それから三行おきますが、
    總而賢人らしき振舞相見へ仍而諸人信用大身中に珍敷人物なりとて上下評判宜敷に付公も追々御仕込被遊べくと小姓頭より參政仰付られたる其頃より跋扈恣雎(恣雎というのは意をほしいままにして怒り見るというような意味であります)の心露はれ總而目付奥右筆抔申政務に拘はる要職の地へハ其黨類の者共を推擧し諸人何となく恠を爲しぬれど周旋奸巧なるゆへに其形迹は曾て顕はれず
というようなことでありまして、出世街道を小姓頭から参政にまで上がり、参政となるや色々当派の人を要職に据えるということがあったようであります。また、寺社改正について天功は次のように述べております。
    寺社改正不殘御委任と申命に而今井を寺社奉行に押出し(今井を寺社奉行に据えたのは結城寅寿です)扠佛法改正に付てハ結城功勞有之由にて度々褒賞を受ながら内實ハ僧徒と申合佛法改革ハ曾て我等の預たる事にあらず戸田藤田今井等の所為なり我等其事によりて度々君を諫め奉れども用ひ玉ハざる故既に切腹可仕と覺悟極めたる程の事也
要するに、結城自身寺社改正で結城自身度々褒賞を受けていながら、結城は「戸田藤田今井等の所為なり」というようなことを申すわけです。続きですが、「僧徒を欺き賺したりといふ」とあり、僧等も欺いた。
    其翌年に至り僧徒を使上野芝両大寺に便り公の御所為不宜戸田藤田今井等大罪有之趣訴させたる是又其計策至て姦功にて形迹は露ハれざれども前日より通路有之響き居たるハいちじるしく相見へ既に四月御用の儀あらせられ君公一旦御在府なされべくとの御奉書到来したるに結城は喜悦の色見はれ道中等駕籠供廻手振奴等至て華美に出立扠御著にて五月六日に御愼御隠居と相成戸田藤田今井三人蟄居鵜殿等逼塞仰付られたるに結城大悦にて申様は我等度々御諫言申たれども御用無之増て戸田藤田抔取合不申遂にケ様の御一義に及ばせられたり云々
形跡が現れないようにやるのが隠れた謀でありまして、少なくともこの時の結城の様子は、東湖先生も天功も隠居謹慎を仰せつかり、結城一人大喜びだったという事実はあったようであります。
 実は、幕府に於いては、当時鳥居燿蔵(最近『鳥居燿蔵』という書物が出されましたが、いかにも人を貶める、蛮社の獄等も鳥居燿蔵の画策があったようであります)というような陰謀家が居ったようであります。この鳥居燿蔵が、天保十四年の八月十三日に「御奉行鳥居甲斐守勘定奉行を兼ね国事をきく」とありまして、将軍に国事のことを色々と話した。将軍が国事に就いて色々聞いた、こういう記事が『実記』に出て参ります。深く勘繰れば、この時の将軍と鳥居燿蔵のやり取りが、その後の甲辰の国難の直接の契機になったのではないかと思います。何ともそれだけでは判断するのは早計かも知れませんが、結城の人柄、鳥居燿蔵の人柄、そのような所から類推せざるを得ないのです。十分な記録がありませんので。天保十四年の八月以降、幕府内でも、或いは水戸に対する嫌疑が加わったということかと思います。その八月以降、京都からの勅使、徳大寺大納言、或いは日野前大納言が将軍と対面しております。或いは摂家、門跡、公卿、続々と来まして、将軍から宣下をされたり、又将軍と対面している。或いは日光から日光門主が参りまして、長期滞在をして、将軍或いは幕府要人と対面している。このような動きのなかで、甲辰の国難が起こってくるわけです。そういう幕府内の動きをみても、寺社改革が大きな原因の一つになったのだということを強く思います。
 この隠居謹慎中の烈公の御心境を偲ぶことが出来るのは和歌ですが、これは那珂湊の木内家(その時代の豪商でありますが、褒賞を全く期待せず藩政の為に財政の援助をした家であります)に、短冊と一枚の文書が現在も残っております。ちょうどその弘化甲辰の国難中の烈公の御心境を詠んだ歌であります。
    いつ晴れむ 程もしれず押並て 世ハ五月雨の空にもありける
短冊は「冬鶯」と題しまして、
    心ある 谷の鶯冬ごもり 人に知られぬ春や待つらん
全く烈公も思い当たる節がなかったわけなのです。その中で隠居謹慎を命ぜられ、或いは蟄居を命ぜられたということであります。
 これに対して家臣達或いは農民はどういう行動に出たのか。老中の水野忠邦の場合は、天保の改革が失敗した時に、領民又農民達の猛烈な反対に合いまして、家まで打ち壊されるというような憂目にあいましたけれども、それは改革自体のやり方の問題だったのであろうと思います。上地令といいますのが一つの大きな反発を買いまして、最後の所で農民といいますか、庶民に大きな憤激を食うという結末になりました。
 烈公の隠居謹慎に関しまして、烈公雪冤(せつえん)運動というものが藩内のあちこちでおこりました。雪冤といいますのは冤を雪ぐ(そそぐ)といいまして、無実の罪を雪ぎ清めるという意味であります。当時烈公を支えた郡奉行として、又烈公の信頼された郡奉行として吉成信貞という郡奉行が居りました。この人は農民の訴えが、烈公の無実を晴らすという訴えが、あまりにも強いので、これはこのままにしておくわけにはいかない、自分の命にかえてそれを代弁して(勿論自分の気持ちとしても、烈公の冤を雪ぐということはありましたけれども)、敢えて御制禁を侵してまでも烈公の雪冤運動に挺身するわけです。農民の愁訴がありまして、吉成信貞は南上を決意するわけです。甲辰の国難の直後、結城寅寿の藩政府内における跋扈がありまして、それに加えて烈公は謹慎中ということで、特に六月になりますと南領の農民達に直接南上の動きがありました。これはやはり藩としては許すことはできない行動でありまして、何とか治めようとしますし、烈公からも治めて欲しいというような命令書が出ますけれども、それでも止まないわけです。農民達の雪冤の声はあちこちから上がるわけです。九月になると農民の代表が御三家の尾張、紀伊に直接嘆願するということがありまして、ついに十月九日、烈公が、郡奉行へ農民の鎮撫命令をだします。烈公雪冤運動は郡奉行が煽ったのではなくて(一部そういう見方もあるわけなのですが)、農民の方から強い雪運動がありまして烈公の方から抑えたということが実体であります。時に郡奉行吉成信貞は南上を決意しまして、老中牧野忠雅宛の「嘆願書」に、その辺のいきさつを述べております。
    小臣儀は郡奉行職且町方をも支配仕候に付、百姓共へ急度申付置候事に御座候処、愚昧之百姓共御事体且御意味をも更に不相守、只管に愁訴仕候得ハ、御聞受にも可相成義と深存詰、御大法をも忘却出訴仕候と奉存候。
農民の行動を思う余り、法を破ってまでも自分の方から訴えたい、そういう覚悟を決めたのです。
    (中略)畢竟村々取締不行届候故之儀にて、全重役共取締等閑に仕置次第に無御座候。乍然愚民共之所為に御座候間、乍恐公儀之御寛仁聊御憤之義ハ被為在間敷奉存候得共、千万ケ一此上少将殿、中納言殿御落度とも被相成候様之義御座候てハ、実ニ家中一統尚々奉恐入候義ニ御座候間、甚以恐懼仕候。
    (中略)重役共へも不申且同役へも相談不仕、全一己之了簡を以推参上言仕候間、
全く農民の気持ちにかえて、自分一人の責任でこの行を決行するという覚悟であります。しかも、農民を思うと同時に、主君烈公の心情を思うその姿勢、真心から出た行動かと思います。
    (中略)等位を越上言仕候不調法之義ハ、是以如何様之御咎ニも被仰付被下置候様、謹て奉至願候。
自分はどうなっても良い、甘んじて御咎めも受けようという気持ちです。中々自分の出世のこと等しか頭に無い人には、我が身がどうなっても良いというような純粋な気持ち、これは出てこないことであります。やはり吉成自身は烈公の無実を信じていたで有りましょうし、烈公の信頼に応える郡奉行であったということも言えるかと思います。
 ところで吉成信貞の寺社改革に対する取組方は、潮来長勝寺のように良くその住職を説得して、又廻りの領民を説得して、このような訳だから梵鐘を納めよというような方針であれば良いのではないか、というようなことも考えていたようであります。ですから、仮定の話ではありますけれども、こういう人が寺社奉行であり、或いはそれを指揮する人であったならば・・・、というようなことも思うわけであります。
 もう一人、武田耕雲斎。この人はやはり吉成信貞と共に南上して、「意見書」を、老中水野忠邦宛に提出した人であります。武田耕雲斎の考えを見てみたいと思います。
    水戸表の儀は。先代より儒道相用ひられ。代々葬祭等も。公邊御振合と異同仕候儀は。(元々幕府等とは違っていたということです)今に始まり候儀に之無く。尤も薩州にて一向宗制禁の由。會津にて神道相用ひ候由の類。聊公邊御振合と異同仕り候儀。水戸表に限り候儀にも。之無き様存じ奉り候此度の御察當も。右等の類には御座有る間敷哉。扨。御察當御座候上にも。押て相行はれ候はば(咎めを受けた後も無理矢理同様のことを進めて行くようであれば)相濟申間敷候へ共。中納言殿気質。公邊より御差留候儀を。押て相用ひられ候様の儀。之無き段は。是亦私共年來。明白に相心得候儀に御座候。此度の如き仰せ出され源威殿以來。例も之無く候處(このような藩主が隠居謹慎を命ぜられるというのは未だ曾てないということです)。一応の御尋等も在らせられず。俄に仰出され候段。臣下の身分。誠に以て驚き入り。悲嘆仕り候。水戸表數十萬人。士民の内には改正を好み候者も。之無く候へば。右の者共。彼是風評等申立候より。右等御調べに相成候半か。
ということであります。耕雲斎も烈公の心情を察しているわけです。非常に驚いた。未だ曽て無い処置である。水戸藩ばかりではなくそのような、一向宗御制禁とか、神道を用いているという藩は他にもあるのに、なぜ水戸だけが、という気持ちなのです。どうやらその結城寅寿、今井金右衛門、このような人達を寵臣にして、その中で少し強引な、また庶民の反感を買うような寺社改革になってしまったのではなかったか。そういうところに一つの大きな問題があったのではないか。そして結城と幕府の要人に近い幕府の陰謀家鳥居燿蔵が結びついて、それが幕府の方から御咎めを受けるという結果になってしまったのだろうと推察するわけであります。 しかし、このような烈公雪冤運動が功を奏したのか、或いは色々阿部老中と烈公との手紙のやり取りの中で、段々に疑いが晴れたのか、その年の六ヵ月後ですが、十一月二十六日には烈公の謹慎が一応解除されることになります。しかしこの時はまだ、藩政への関与は許されなかったようです。もう少し外圧が強まって、烈公しかこの難局を背負える方は居ないということになって幕政改革に再び登場してくるわけであります。
 この間、外圧が高まる前に、実は、後に日本史を動かす程の大人物でありますが、二人水戸を訪れております。その一人が、九州久留米の神官でありました真木和泉守という方であります。この方は明治政府の青写真を描いた方といわれておりまして、非常に優れた人なのですが、天保十五年、つまり弘化元年の七月、烈公が隠居謹慎を受けられてほぼ二ヵ月後であります。折角天保の改革で領内生活も政治も良くなっているわけですが、結城寅寿等の台頭によって又旧に復するというようなことが徐々に進行していた時期ではあります。そういう時期に真木和泉守は水戸を訪れるわけです。この方の書かれた『天保甲辰日記』の七月二十日のところを見てみますと、多分土浦の長島尉信という田制学者(水戸にも仕えまして、検地を担当しました学者)の所に十八、十九日に寄っておりますから、その人の紹介だろうと思いますが、
    鶏鳴乃ち発す。漸く水戸の部に入り、途濶して樹茂る。亦政之美を見るに足る。
道沿いの樹木の様子、或いは民家の様子等を見まして、非常に水戸の政治は素晴らしい、それを見ただけでも充分である、こういう感想です。さらに、「老農有り」とありまして年老いた農民も、水戸藩の、水戸の「政の美を説」いたということです。そしてその日、「会沢翁(会沢正志斎)に謁して、乃ち学制略説を借りて帰る」とあります。先程申しました長島尉信の紹介であったろうと思います。二十一日には、
    翁曰く、時に不可と雖も竊かに塾中に宿し、亦妨げ無し。深切感佩に堪えず。
政の美に感嘆すると共に、このような水戸の学者の親切に真木和泉守は心を打たれるのです。天保の改革の余風といいますか、そのようなものが充分にこれで察せられると思います。
 さらに嘉永四年には、長州の吉田松陰が水戸を訪れました。『東北遊日記』に
    十二月二十六日 晴。二子と豊田彦次郎(豊田天功)を訪ふ、病を以て逢はず。好文亭を観る、偕楽園は即ち是れなり。亭は一高瀧なり。列べて植うるに梅樹棣棠を以てし、環らすに隍塹を以てす。制札を建てて云はく「四月より八月に至る三八の日は、下は百姓町人に及ぶまで釣魚を禁ぜず」と。余嘗て景山老公撰ぶ所の偕楽園の記を読み、又其の作る所の歌を聞く。云はく、「世を捨てて山に入る人山にても尚憂き時はここを尋ねよ」。蓋し公の志見るべし。
偕楽園を訪れまして、烈公の志に感じたわけであります。嘉永五年になりまして、一月の一七日、
    一七日 晴。会沢を訪ふ。会沢を訪ふこと数次なるに率ね酒を設く。水府の風、他邦の人に接するに款待甚だ渥く、歓然として欣を交へ、心胸を吐露して隠匿する所なし。会々談論の聴くべきものあれば、必ず筆を把りて之を記す。是れ天下の事に通じ、天下の力を得る所以か。
会沢正志斎の歓待に感激し、そして水戸はなぜこんなに天下をゆるがす程の力を持っているのか、その原因については必ずその人の聴くべき所は記録をし、色々な情報を持って、天下のことに通じている、そうしたことが天下の力を得る所以であろう、というふうに述べております。時に会沢正志斎は七十歳でありました。吉田松陰は二十三歳。これだけ年齢差がありましても、それを越えて聴くべきは聴き、話すべきは話す、こういう水戸の風といいますか、人物が居った、ということであります。これは他藩には全くなかったようであります。そのような二人の方の他藩の人が見た水戸、こういう方の記録をみましても、天保の改革後の水戸の状況、それから政、これが結城寅寿等の台頭によって、改革に停退があったとは言え、又改革の成果が充分に察せられるわけです。
 やがて、嘉永の頃から外圧が愈々高まって参ります。嘉永六年には、ペルリの来航が有ります。続いて程無く、ロシアのプチャーチンが来航します。かねがね烈公は先憂後楽といいますか、民に先んじて憂い、民に後れて楽しむ、という精神でありました。就藩前後から、或いは就藩以来、度々幕府の、又藩の武備充実の為、いざと言うときの為に建議をし、改革の中でも武備の充実に務めてこられたわけであります。
 年表を見て見ますと、天保以来どれだけ烈公が建議をし、武備を充実させてこられたかという一端を追っていけると思います。天保三年には八月に青地林宗、鱸重時、松延定雄、岡田宗立らを従学させられるわけです。その道の全国の第一人者を水戸に招かれるわけです。その道の専門家です。これは一貫してずっと続きます。そして学問の興隆を図られるわけです。この年、大砲鋳造を幕府へ建議、天保年間は特にこれといった外圧はありませんでした。そうした中でこういう武備の充実を訴えられていくわけです。天保四年、青地林宗が死去したのに伴い幡崎鼎を招き、五年には蝦夷地開拓を幕府へ建議されます。この頃の烈公の見識として、今は長崎よりもむしろ蝦夷地が危ない、こういう意識がございます。これは寛政以来のロシアの南下を心配してのことであります。それから天保七年は、助川に海防城を築き、山野辺氏を移して土着させられます。同じ年、水戸藩では大砲鋳造を命ずる、幕府でやらないものですから水戸藩で大砲鋳造を始めるのです。八年、内憂外患についての意見書を幕府に提出する。さらに天保九年には水戸藩で、大型船軍艦雛形「日立丸」の建造計画を発し、そして天保十年六月に、将軍家慶に対して、「戊戌封事」を提出する。幕政の改革を述べた長文の文章であります。十一年には有名な「追鳥狩」を実施します。一つの軍事演習であります。いざと言うときの為のものです。この年には隣国清で阿片戦争がありました。次の年まで続きます。十一年には同じく巨砲の製造が始まります。天保十四年にはさらに海防のため大船建造を建議されるわけであります。そうした、年表だけでありますが、一連の武備充実の為の建議、或いは施策、これをずっと一貫してやっておられます。いずれもいざという時の為の備えであります。
 これがなかなか幕府は、とうとう本腰を入れないままペルリ来航、プチャーチンの来航を迎えてしまうわけです。弘化三年に烈公が歌われた和歌に、こういうものがございます。
    幾歳か 我が憂へ来しあやふさを 今は現に見る世とぞなる
こういう和歌であります。長年の間自分が憂いてきたその外国からの圧力、この危うさ(しかし幕府は本腰を入れずに対策を立てませんでしたが)、それを今目の前で見るような、そういう世の中になってきた、という和歌です。これが先憂であり、また先見であろうかと思います。烈公の先見で思いますことは蝦夷地の問題なのですが、これは後程述べたいと思います。それはそうとしまして、嘉永六年、ペルリ来航が六月三日でありますから、間もなく烈公は何度も老中阿部に請われまして、遂に海防参与という役に就かれるわけです。これが嘉永六年の七月三日であります。同時に蟄居しておりました藤田東湖も海防係を命ぜられました。藩政を越えて、今度は幕府の政治に嘱望されるわけです。幕府としては、対策、或いは見通しを持っていなかったものですから、ペルリの来航に対しては右往左往する他ない。どうしようもないわけです。誰もこの大事を担当するものが居ないという状態でありました。それは当然のことで、目の前にいきなり大きな問題が起こった時に、そのような事を予測しておかないと、この時はこうする、こう出たらこうする、という対策はすぐには出ないものです。行き当たりばったりの政策になるのが落ちであります。そういう状態であったわけです。それは『水戸藩史料』の記述を見ますと、いかにペルリの来航、プチャーチンの来航によりまして、烈公が嘱望されたかということが分かるのですが、
    齊昭既に出でて、防海の大議に參するや海内の士皆頸を延いてその運籌を瞻仰せざるはなく或は其の事の防海に止まらずして大政にも參與あらんことを望み徳川慶恕の建議或は將軍家の後見たらんことを要し横井時存・安井衡の所論或は勅命を以て直接に朝廷より委任せられんことを論じ梅田定明の書翰或は齊昭の深く自ら任じて嫌疑を顧みず専决果斷あらんことを勧め幕下士向山源大夫の呈書其の他の論策紛々一ならずと雖も率ね皆齊昭に頼りて國体を維持せんことを欲したるものゝ如し八月廿九日松平齊彬の齊昭に寄せたる書翰に一首の和歌あり曰く

      乍恐今度御登營仰せいたされたるをかしこみ奉り候

      雲きりのへたてもはれてさやかなる月のひかりを仰くかしこさ

月の光を仰ぐ程、諸公から、幕府から嘱望されてなられたのです。それは幕府内ばかりではなく、あちこちの藩史の記録などにも多く出ていることであります。当時阿片戦争によりまして、或いはそれ以前にアジア各国殆ど植民地化されておりました。そのような世界の情勢を知っている多くの有識者はそれが日本に及ぶのではないだろうか、こういう心配をしていたわけです。もしそれが日本に及んだ時にどうするか、これは当然世界情勢を知らないと対策が立てられないわけであります。それを烈公は、ずっと前から、藩主になる前から蝦夷地の問題、或いはアメリカ、欧州、こういった国々の研究をしておられたわけです。そういうところからやはりそれなりの見識が出、それなりの対策が出せるものであります。いきなり目の前に大問題が起こった時、それをどのように解決するか、こういう学問が無かったならば、それは到底出来ないことであります。この時の幕府の対応がまさにそれではなかろうかと思うわけであります。 それにしましても、その時に烈公が幕府に提出されました『意見十ヶ条』というのがあります。これは後に阿部老中に頼まれて、さらにこれを敷衍して、『海防愚存』という、これも長編の意見書を提出されるわけであります。ここに掲げましたのは『意見十ヶ条』であります。これによっても充分烈公の考えが伺い知れます。大事なことはまず一番目、
    一、和戰の二字廟算御决被成候儀第一の急務と存候事
和すのか戦うのかの覚悟、これがまず第一であるということです。そして、
    一、戰の一字へ御決に相成候上ハ國持大名始津々浦々迄大號令被仰出質素儉約等不令而行武家ハ勿論百姓町人迄覺悟相究め神國總體の心力一致為致候儀肝要と存候事
世の中泰平になれまして、幕府も庶民も恐れることは無いだろうと思っていた矢先の問題でありますから、これは生半可な気持ちでは侵略の意図があるかもしれない外国に対処することは出来ないというふうに考えたことだろうと思います。和か戦か、どちらにするのか覚悟を決める。これが第一であります。以降、大小銃、或いは大砲の装備ですが、これを国元に帰ってそれぞれの藩で用意する。或いは槍、剣に出精致させ、或いはその私領海岸要害の場所に兵を駐屯させる。或いはいざという時の為の備蓄をする。穀物を蓄えておく。こういう対策を申し述べるのです。最後に、
    一、伊勢神宮始メ御崇敬民心一致候様御仕向ケ耶蘇の邪教彌以て御禁絶之儀當節迂遠の樣に候へ共實は御急務と存候事
結果的に、当時の情勢から烈公は主戦論を唱える訳であります。一般には内戦外和論をとったという言い方もされますが、実際に戦う意思はないけれども、戦ったら負けるということはその彼我の軍事力、或いは体制を比較すれば分かっていたことなのです。しかし、国民、幕府の心が揺るぎ、相手国の言うがままになることは決して平等な交渉にはならない、植民地になるようなことは何としても避けねばならない、そういう気持ちから和戦の二字廟算、先ずこれを決めよという意見の具申なのであります。攘夷一点張りの対外的な偏重な思想家、というような烈公の言われ方も一部しておりますが、そういうことはありませんで、烈公の攘夷論の真相としましては、福井藩主の松平慶永が『雨窓閑話稿』で述べていることであります。
    ある日烈公に余拝謁の時、越前殿は後来の目的は如何、尊皇はもとよりなれど攘夷は出来候もの哉との御問に、余今日の景況を以て考ふれば、後来攘夷は六ヶ敷もの也と御答申たり。公、私も同様の考なり。尊皇と申て只々帝室を尊ぶべきばかりではなし。主上の御親裁になりて徳川は将軍を辞し、役人は旗本譜代大名ばかりではとても維持しがたし、各藩の人々を撰み、人材を抜擢して役人とすべし。攘夷はとても六ヶ敷もの也、第一外国の大小炮にしろ、軍備十分相整ひ、ことに外国は皆日本ごとき小国にあらず、其上昔の武田流のごとき迂遠なる軍備にては戦争しがたし。夫よりは一層外国と貿易する方得策といふべし。
ということでありまして、これは非常に豊富な対外知識を持っていたがゆえの考えであります。 当時の烈公の海外知識、蝦夷地に於いても欧米においても最先端をいっていたということであります。軍事力を比べればとても攘夷など行える状態ではない。しかし、ふらふらした気持ちで、曖昧なまま外国の言うがままに対応し、或いは色々押しつけられてしまうというような交渉は何としても避けたい、そういう所から出てきた一つの主戦論であっただろうと、私は思います。
 最後になりますけれども、そうした中で、日米交渉、それから日露交渉を進められていくわけでありますが、一つだけ申しますと、日米交渉はこれは人を得ずといいますか、ペルリのあまりにも強硬な態度に屈した形で日米和親条約が結ばれます。その後日米修好通商条約が結ばれて、結果的に後世にまで非常な悔いを残す不平等条約が結ばれるわけであります。それに乗じた形でロシアが参りましたので、同じような形で日露和親条約も結ばざるを得なかったという事情がありますが、この時に殊にそのロシアとの、プチャーチンとの間で、日露国境交渉というのがありまして、日露の間の国境を決めたいというのが来航の目的の一つであったわけであります。これに対してやはり、この時烈公は、長年研究してきたことでもあり、又家臣の中に豊田天功という非常に優れた、外国のことに詳しい、良く研究していた学者が居りましたので、プチャーチンが来た時に、すぐさま蝦夷地のことをもっとよく調べよ、或いはロシアのことをもっと良く調べよ、という編纂命令を出しまして、結果的にそれは応接係の川路聖謨が下田に出向く前に完成しました。川路聖謨はそれを始終持ち携えて、『北島志』というものを持ち携えて、そして学問的裏付けを得ながらプチャーチンとの外交に当たったのであります。そういうことが最近の研究でわかりました。これなどは烈公が小さい時から、それこそ蝦夷地のことを心配して、色々な本を集めておられるわけです。当時是だけのことを研究していた人は、幕府内にも他藩にも居りませんでした。それをいざという時の為に天功に提供しまして、それを元に天功は『北島志』或いは『北虜志』という、老中阿部正弘が言いますように「大有用の書」を、目前の危機に対して、外患に対して、それこそ非常に為になる、役立つ本を作ったわけであります。こういうところにも烈公の先憂先見ということを感ずるわけであります。 幕政の参与、海防参与としまして活躍しておられましたので、この時期藩内のことは改革がいくらか不十分であったようであります。そうした中に日米交渉、日露交渉もある程度進んでいる最中に、安政二年、突然江戸に大地震が起きまして、烈公が股肱として頼みにしていた藤田東湖先生、戸田銀次郎が亡くなるわけです。特に東湖先生は老母を救おうとして、家の中に飛び込みまして、落ちてくる物の下敷きになって、圧死するわけであります。この辺からいよいよ改革自体が衰退に向かっていくわけであります。その後のことにつきましては次回久野先生からお話しがあるかと思います。色々言い尽くせませんでしたけれども、これにて失礼致します。どうもありがとございました。
(講話の中で、意味の通りにくかった所等を訂正・補記させていただきました。)

          (平成六年十月二日講座)
          (茨城県立歴史館主任研究員)