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【総題】「烈公の改革と幕末の水戸藩」について

       ---水戸の理想と悲劇---
            水戸史学会会長  名 越 時 正

 水戸史学会の名越でございます。今年は大変暑く、毎日猛暑が続きますが、本日は大勢お出で頂きまして誠に嬉しく存じております。
 今日から第十一回目の水戸学講座が開講されますが、この講座は常磐神社が企画し、主催されたものでありまして、私どもはあくまでお手伝いということであります。水戸史学会では義公烈公を始めといたしまして、水戸の学風、特に歴史学を受け継いで勉強をしておる会でございますので、そのテーマや講師について神社のご相談を受け、五軒公民館とともに共催させていただいております。
 さて今年の水戸学講座の総題は、案内書に書いておきましたように、「烈公の改革と幕末の水戸藩」こういう題に決めました。そしてそれに、「水戸の理想と悲劇」、こういうサブタイトルをつけました。
 水戸藩の理想が、素直に順調に通ればそれは日本のために喜ぶべきことだったのですが、不幸にして色々な障害、圧迫、弾圧をうけまして、水戸の歴史は非常な悲劇を繰り返すという惨憺たる状態となってしまいました。一体、これはどういうことなのか、どうしてこういうふうに水戸藩が非難を受け、或いは弾圧をうけたのか。それは理想そのものに関係があるのか、或いはそのやり方に関係があるのか、或いは他に事情があるのか。そういうことを明らかにしたいのが目的でございます。
 丁度今年は水戸藩が幕府から弾圧をうけました弘化元年から数えて百五十年になります。この弘化元年の五月、幕府は七ヶ条の嫌疑を烈公にかけ、烈公及びそれを補佐した東湖先生、戸田蓬軒先生等に全て幕府の命令によって、非常に重い処罰を与えました。その為にせっかく、これから益々展開しようとした水戸藩の改革を瓦解させ、中止を余儀なくさせてしまいました。こういう事件であります。水戸にとっては甲辰の国難、弘化元年は庚申の年だったので、弘化甲辰の国難とよんでおります。それから以来の動きが水戸の悲劇となるわけです。その悲劇のなかで、一番大きいのはやはり、所謂天狗党、筑波山挙兵の顛末だったと思います。この事件を含めて、水戸の、幕末に於いて果たした役割、あるいは色々様々な悲劇、これを究明していくのが、この講義のもう一つの目的であります。
 しかし、そういう悲劇を繰り返しながらも、明治維新が達成されると改めて水戸藩の功績が見直されて、そして明治六年には常磐神社の創立ということが朝廷においてはじめて許可されました。この常磐神社が今から百二十年前に創建された時には水戸領を始め、この近辺の人達は非常に喜んで、あらゆる建築材料や苗木などを担いでここに集まって建設に協力をしたわけです。こういう事情はなかなか一般の簡単な歴史には書いてございませんで、その裏面に非常に興味深い、また複雑な動きが有りました。
 一口に、義公と烈公といいますが、この義公と烈公とについて、その違い、相違点はよく多くの人があげることですが、面白いことに非常な共通点があります。それは、義公が藩主になられたのは三十四歳、烈公は三十歳です。どちらも、もう青年期を過ぎて円熟した時に、藩主になっておられます。それはいろいろと事情がありましたが、その間の義公烈公のされたこと、これが大きく影響するということを考えます。義公の場合は始めは色々我儘なところがありましたが、十八歳の時に史記の伯夷伝を読んで考えられたことが非常に大きな動機となって、学問、とくに歴史がいかに大事であるかということを知って、それからというものは、亡くなるまで書物を離さないと言うくらいの学者になられました。その藩主になるまでには多くの学者、たとえば京都の冷泉為景というような立派な学者の協力を受けたり、或いは幕府の林読耕斎という良い友人がありまして、色々助けました。そういうことが義公の一生に非常に大きな役割を果たしているのであります。
 一方烈公はどうであろうか、烈公の藩主になられる前のことはあまり良く知られていないのですが、調べてみるとこれはやはり、義公と同じように非常に勉強しておられる。それは藤田幽谷先生とその門下会沢正志斎或いは吉田活堂、藤田東湖、そういうようなグループの間に、烈公は、生涯部屋住みで終わるか自分の将来は分からない立場にもかかわらず、一所懸命勉強されます。ことに幽谷先生は、あの当時の賄賂の非常に流行した、金権政治というものを、非常に激しく、痛烈に批判して藩の改革を主張しています。それと同時に毎日のようにあの長い太平洋海岸、鹿島灘に現れる外国船、この動きが一体何であるのか。世界にどういうことがおこっているのか。ここに注目して研究しておったのが幽谷先生とその弟子達です。ことに会沢先生は烈公の学問相手でしたから、そういう雰囲気の中で烈公は勉強しておられました。従って烈公が藩主となったときにはそういう幽谷先生門下の熱烈な支持をうけて、そして、一気に長年の蓄積を発揮してあの改革を始めました。その改革に当たっては、天下の魁ということを言われます。烈公の詩にも、「雪裏春を占む天下の魁」という有名な詩があります。真先に日本の為に改革を始めよう、こういう気持ちです。これをよく頭に入れて頂きたいと思います。
 ところがそのずっと後にこういう歌を作っておられるのです。「世の中をそろそろ水戸の真似するというこそ国の錦なりけり」今の世の中は水戸の真似をしている、という噂がたっているがこれこそ水戸の誇りなのだ。と、これは実は非常な得意の気持ちだったのだろうと思います。これはいつかといいいますと、丁度水野忠邦の天保の改革が始まった年、天保十二年です。その時に水野がやったことは烈公が十年以上前からやられたこととすっかり同じことである、ということから、世の中ではあれは水戸の真似だ、こういいだした。それを烈公は非常に喜んで、これでいいのだ、天下の魁がこれで始めて達成された、という気持ちになれたのでしょう。しかしその反面幕府側では水戸を邪魔にしはじめ、警戒するようになりました。丁度天保十二年は弘道館が開館した年です。翌年は偕楽園が開かれる。そして天保十四年には将軍の家慶公から呼ばれて大変なごほうびをうけるのです。水戸の政治は非常に立派だ。実に良くやっている。こう言って将軍から表彰をうけ、そして、刀や、或いは馬の鞍や、或いはお米を与えられました。これは、烈公にとっては非常に得意満面な次第であったと思います。ところが例の弘化元年の弾圧というのは、その翌年なのです。それから丁度一年後に一転して水戸藩は幕府の下にすっかり抑えられてしまうのです。改革も破壊されます。烈公は隠居謹慎、改革は一切中止。こういう状態に置かれるるのです。このあたりの幕府の急変の張本人は一体誰だったか、ということを問題にしていただきたいと思います。世の中の人は烈公の悪口ばかり言うのです。しかし幕府は一体しっかりしていたのか、と言うことはあまり論じられないのです。この辺はあとは仲田先生のおはなしに期待していただきたいと思います。そういう悲劇が続きますが、最後にやはり一番水戸藩の改革に感謝したのは誰か。それは諸藩の志士と水戸の領民です。お百姓であり、また、水戸の町民である。そのことを一番最後の、十二月ですが、「水戸藩の改革の余光」こういう題で薗部先生が新しい発見というわけではありませんが、長年埋もれていたものを発見して、皆さんにご披露すると。こういうことで締め括りたいと思います。どうぞ皆さん宜しくご静聴下さってご一緒に考えていただきたいと思います。