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大日本史の完成とその歴史的意義

                  但 野 正 弘


   (1) はじめに

 皆さんおはようございます。
ご紹介を頂きました但野正弘でございます。数えて第十回を迎えました水戸学座も第五回目の最終回ということになりました。今日は十二月五日でございますから明日が十二月六日、新暦と旧暦の違いはありますけれども元禄十三年(1700)の旧暦十二月六日は水戸義公即ち常磐神社の御祭神であります徳川光圀公の御命日にあたります。そういうご縁のある日を前に本日は最終回として水戸学講座のまとめをすることになりました。
 今年は 総題 として「義公修史の開いた道」という題が掲げられました。
 第一回 の八月一日には宮田正彦先生から「義公の立志・英傑への関門」という題で、義公が十八歳の時に反省立志をし、将来の大日本史編纂につながる心構えをもたれたこと、しかも英傑として大きく成長されて行く、その第一歩をしるされたということについてお話がございました。
 第二回目 は、吉澤義一先生から「大日本史 諸蕃伝 (しょばんでん)と北島志」という題で、今まで大日本史関係の講座等では、あまり取り上げられておりませんでした外国伝の問題と、『北島志』という北方の島々について書かれた書物との関係などについてお話がございました。
 第三回目 は、仲田昭一先生 から「彰考館の史臣とその活動、というテーマで、彰考館には全国有数の学者が大勢集められて、非常に自由な雰囲気の中で討議・討論が行なわれ、大日本史の編纂に力を尽くしたこと、そして大日本史編纂の流れと共に主な人物について紹介がございました。
 第四回目 は、梶山孝夫先生 が 、「大日本史と国学者・・ 特に塙保己一を中心として・という題のもとに、幕府の和学講談所の塙保己一が大日本史の校訂に携わったことについて色々なお話がございました。
 そして 最終回 が本日、いよいよ 「大日本史の完成とその歴史的意義」という、まさにまとめのテーマで、私が当番でお話をさせて頂くことになりました。しかしながら、ご承知のように二五○年に及ぶ、長い長い年月をかけての大日本史編纂でございましたから、僅かな時間でそれをまとめるということは、大変困難な問題であります。そこで出来るだけ簡単に、編纂の流れを追って、さらに明治以降においては、非常な困難の中で『大日本史』が完成されたいった状況についてまず見てみたいと思います。


   (2) 編纂経過(幕末まで)

 はじめに幕末までの編纂経過を見てみましょう。
特に前半につきましては、これまでも、何度も水戸学講座等で諸先生方が取り上げられておりますし、充分にご承知の事かと思いますので、ごく簡単にその流れだけを追うことに致しましょう。
 まず正保二年(1645)、義公十八歳、これが立志でございます。それから十二・三年間は修史事業の準備段階とも言える時期でありますが、義公は猛烈な勢いで勉学を続けました。そしていよいよ明暦三年(1657)の二月に、江戸の駒込邸内の御茶屋という所に史局を開設して大日本史の編纂が始まります。以来、王政復古の大号令、即ち幕府最期の時まで、足掛け二百十一年の歳月が経過しております。
 この明暦三年の開始から「旧紀伝」の完成というところまでが、約二十三年間ですが、この間の寛文十二年(1672)五月に、小石川の邸内に彰考館という正式な歴史の編纂局が開館されました・明暦三年から数えますと、正式な彰考館の開館まで、十五年間経っているわけです・これより大日本史の編纂が本格的に行なわれて行きまして、まず「旧紀伝」と称されるものが完成する。これが延宝八年(1680)の六月です。もちろんこの時点で「旧紀伝」と名前をつけたわけではありません。要するに「紀伝」です。しかし後の世から見れば「旧紀伝」という形で分類されるわけでありますが、延宝八年の六月に後醍醐天皇までの「紀伝」清書本一○四巻が完成致しました。
 ところが、これを義公がご覧になって、どうも満足されない。全面的に書き直すようにという、いわゆる 易稿重修 (えきこうじゅうしゅう) 、稿を易えて重ねて編修するという意味ですが、その易稿重修の命令が出るのであります。そこで今まで編纂致しました後醍醐天皇までの「紀伝」一○四巻は廃棄されることになりまして、新たに「紀伝」の編纂が始まります。それが天和三年(1683)に始まった「新紀伝」の編纂であります。
 実は、ここでちょっと問題があるのです。
 それは、「旧紀伝」完成・廃棄から、「新紀伝」の編纂が始まるまで、三年間あるのです。その三年間に何もやらなかったのか、ということに問題があるわけです。そこで二つの説が出てくるのです。仮にこれをA説とB説とに分けることにしましょう。
 まず A説 と言いますのは、延宝八年の清書本が「新撰紀伝」で、後で「新紀伝」と言われるものが出来ますので、それと対比して「旧紀伝」と呼び、さらに易稿重修の命が出てから、天和三年以降に改稿され、新たに編纂が始められたのを「新紀伝」と呼ぶ。即ち二種類と見る考え方です。
 これに対して、B説 と言いますのは、三年の間にすでに編纂が行なわれていたはずである。すなわち延宝八年に清書本が出来た、これを「旧撰紀伝」と呼び、次に延宝八年、九年(天和元年)そして天和二年までの三年間の間に、ある程度原稿が書き直されている。これを「新撰紀伝」という。そしてさらに、正式に易稿重修の命が出た天和三年以降に編修が始められたもの、これを「新紀伝」と呼ぶ。従って「旧撰紀伝」と「新撰紀伝」と「新紀伝」と三つあるという考え方なのです。まとめれば、「旧撰紀伝」と「新撰紀伝」とを合わせて「旧紀伝」があり、それに「新紀伝」があったという考え方です。
 特にこのB説を強く唱えられた方が、亡き吉田一徳博士でありました。博士は、「旧紀伝」から「新紀伝」までの間に、彰考館がなにもやらず活動もしなったとは考えられない。当然三年間の間にある程度編修が行なわれた。しかしやはりそれも不十分だということで、全面的に書き改めよと言う命令が出て、天和三年から正式な新しい編纂が始まった、と考えられた訳であります。
 このA説・B説ともに未だどちらとも確定しがたい面があるのです。
 実際的には、現在見ることのできる「大日本史」というものは、天和三年以降に編纂された「新紀伝」であるということになります。
 それからしばらく年月が経過しまして、やがて元禄三年(1690)に義公が六十三歳で隠居されます。次いで翌年西山荘に隠棲されましたが、当時はある程度、ご自分の在世中に目鼻をつけたいというお気持ちがあったようですけれども、やはり完成は無理だということで、編纂は急がないように、という指示を三代 粛公綱条 (しゅくこうつなえだ) や史臣達に出されています。
 その後、元禄十年、亡くなる三年前には、「百王本紀」といいまして、神武天皇から後小松天皇まで、ちょうど百代の「本紀」が出来上がりました。しかしまだ「列伝」は完成しておりません。そしてその三年後の元禄十三年十二月に義公が逝去されますが、「大日本史編纂記録(二○五)」の中に、元禄十三年十二月付けの「覚」という史料がありまして、それが義公逝去の直前なのか、亡くなられた後なのか、具体的な日付はわかりませんが、次のような史料があります。
 それによりますと、元禄十三年までに「本紀」が六十七冊、神武より後小松まで百代。「列伝」については后妃伝・皇子伝・皇女伝が四十冊、これも神武より後小松まで百代。それから一般の人の「列伝」については、神武より持統まで四十一代の五冊。併せて「紀伝」百十二冊が出来上がりました。
これは全体の三分の二に当ると書いてあります。ですから義公が亡くなられた頃には、「紀伝」のほゞ三分の二くらいは出来上がっていたことがわかります。
 しかし、完成には遠いのです。「紀伝」の残り三分の一と「志」(し)「表」( ひょう)の編纂が残っているわけです。これが出来上がりませんと、紀伝体としての形は整わないのです。
 そこで以後も編纂が続けられて行くわけですが、義公が亡くなりまして十五年後に「紀伝」が一応完成致します。正徳五年(1715)、水戸藩主は三代の粛公綱条の時でありました。この時に一通り出来上がり、仮に「大日本史」という題号が決定されて、「大日本史叙(じょ)」が大井 松隣 (しょうりん) という史臣によって書かれました。そして清書が出来上がりますと、十二月十五日に義公廟(びょう)に献ぜられました。この時の「本紀」は七十三巻、「列伝」は百七十巻で、「正徳本」と呼ばれています。
 それから五年後の享保五年(1720)に、本紀・列伝・叙・修史例・引用書目・目録等、計二五十巻をそろえて幕府への提出が行なわれました。これが「享保本」です。この時一つ問題が起こりました。それは、水戸としては朝廷にも献上したいということで、幕府に伺いをたてたのですが、大日本史の中に書かれております南朝正統論が問題になりました。幕府の学者の中に、現在の皇室は、後小松天皇の御血筋がずっと続いて来ているのであるから、北朝である。その北朝系統の御血筋を引かれる皇室に献上する大日本史に、南朝正統と書いてあるのはまずいであろう、と考える者がおりまして、幕府と気脈を通じているお公家さんとの話し合いの上で、当分これは朝廷に献上しない方が良いということになってしまったらしい。そこで、献上することも、印刷し発行することも許可しないということになったわけです。これが享保五年で、四代藩主成公宗堯 (せいこうむねたか) の時でありました。
それから十四年ほど経ちまして、享保十九年(1734)になってやっと大日本史の出版許可が出るわけです。そこで当時かなりの老齢になっておりましたが、なおかくしゃくとして彰考館に関係しておりました 安積澹泊(あさかたんぱく)が、最終的な「紀伝」の検討を行なうことになり、足掛け三年ほどかかりまして、元文二年(1737)十一月頃に検討検閲が終了しました。この時の大日本史を「元文検閲本」と呼んでおります。藩主は五代の良公宗翰(りょうこうむねもと)でありました。
 その後しばらくの間、彰考館の活動は停滞期に入ります。かつてのような活発な大日本史編纂の姿は見られなくなり、約六十年に及ぶ長い年月の空白期間がありました。
 やがて寛政十一年(1799)、義公の百年祭にあたる年に、六代藩主文公 治保 (はるもり)が「紀伝」清書本八十巻を義公の御廟に献じました。これが「寛政改訂本」であります。この六代文公の時に、再び大日本史の編纂活動が復活し、活況を呈してくることになります。特に立原翠軒(すいけん )・藤田 幽谷(ゆうこく )達によりまして彰考館の活動が復活してくるわけであります。ところが、その頃「大日本史」という題号が問題になりました。細かい事情は省略致しますが、藤田幽谷がその題号に異議を唱え、「史稿」と称することに決定をみました。それはやがて文化六年(1809)に朝廷から「大日本史」という題号使用の許可がありまして、以後は正式に「大日本史」と称することになりました。次いで翌七年には、七代藩主武公治紀 (はるとし)が、「紀伝」二十六巻と藤田幽谷が起草しました上表文を添えまして「大日本史」を正式に朝廷に奉献致しました。
これに対し、光格 (こうかく )天皇から勅語が下されました。
    専ら国史に 拠(より)、博(ひろ)く群書を考へ、一大部の書を為す。昭代の美事、堂構 (どうこう)の業、勤労想(おも)ふべし。」
 こういう勅語であります。日本の歴史を研究し、多くの記録や書物を検討して、大日本史が編纂され、それが献上されたが、実に見事なことである。そしてまた彰考館において長い間大日本史の編纂を続けてきたその苦労は大変なものであったろう、という 労(ねぎら)いのお言葉でありました。水戸の大日本史というものは、まず光格天皇によって認められたということになるわけであります。
 その後、八代の 哀公斉脩 (あいこうなりのぶ)、九代 烈公斉昭 (れっこうなりあき)という方々の時代に、大日本史の「志」・「表」という文化史的な、また各種の制度史的なことに関する歴史の編纂が進められて行きますが、特に天保十三年頃からは、豊田天功(てんこうが)中心となって「志」・「表」の編修に専念しました。しかし間もなく、烈公が 弘化(こうか)甲辰 (こうしん)の国難に遭遇し、隠居謹慎を命ぜられてしまいます。以後水戸藩は、大きな幕末の問題を抱えてゆくことになります。
 そうした中でも、なお大日本史の編纂は続けられて行きまして、嘉永二年(1849)十二月六日の義公百五十年祭にあたって、上木完成された「紀伝」が御廟に献ぜられました。そして嘉永五年二月には、朝廷と幕府に「大日本史紀伝」一七三巻が献上されました。
 その翌年嘉永六年(1853)がペリー来航の年です。以後日本は幕末混乱の時期を迎えて行くわけであります。当然彰考館もかつてのように、学者達が落ち着いて編纂に従事出来るような状況ではなくなってきました。いよいよ幕末も押し迫った頃には彰考館の建物も非常に荒れ、庭も草ぼうぼうになったりして、昔日の面影が全く失われてしまった、そういう時代を迎えました。
 その間、安政の大獄、桜田門外の変、坂下門外の変、あるいは元治元年筑波山の挙兵というような問題が続いて行きまして、水戸藩は悲劇の幕末を迎えてゆくことになります。
 この嘉永二年の上木完成後約十八年、慶応三年(1867)十月十四日に十五代将軍徳川慶喜公が大政奉還をされ、そして同年十二月九日には王政復古の大号令が出される。ここに江戸幕府はおわりを告げ、翌年、明治維新となるわけであります。
 このように義公が編纂を開始してから、王政復古の大号令まで足掛け二百十一年。しかし出来上がったのは「紀伝」だけである。従って残された「志」・「表」の編纂が明治時代に受け継がれて行くことになります。


   (3) 大日本史完成への道程
                      ---栗田寛博士と志表編纂 ---


  その大日本史完成への道、即ち「志・表」の編纂に命を懸けられたのが 栗田寛 (くりたひろし)博士であります。
 栗田博士は、天保六年九月十四日に水戸の下町本六丁目の商家に生まれました。通称は利三郎、号はいろいろあるのですが、もっとも有名なのは栗里(りつり)です。小さい時から勉強を大変好みまして、早くから日本の古典なども研究しておりました。またお父さんやお母さんも町屋の方でありますが学問には大変熱心な方でありまして、こういう家庭の雰囲気の中で栗田博士は成長されました。
 そして安政五年二十四歳の時に初めて彰考館に入りました。御用部屋小僧として、いろいろな雑務に携わるわけですが、その時の総裁が豊田天功。この豊田天功が栗田寛という青年を大変高く評価するのです。この人物こそが、私の後の仕事を継いでくれる人物である、と言って居られたそうであります。
 やがて、元治元年一月、豊田天功が亡くなります。いよいよ栗田博士は、その後を承けて一身に大日本史の編纂を担って行くことになります。有名な『水戸の文籍』という清水正健氏がまとめられた書物がありますが、その中に次のようなことが書いてあります。
    「天功歿するに及びて、その後を承け、 慨然(がいぜん )として修志の業を以て 己 (おの )が任となし、専心一意、他を顧みず。是(ここ)を以て水藩甲子以来の党難を免(まぬが)れ、常に彰考館に在りて、補訂の業を鞅掌(おうしょう)す。」
 幕末の激動混乱の中でも、彰考館にあって大日本史の編纂を続けることが、自分の使命であり、また義公の精神を絶やさないことが大切であると、考えられました。 他人から見れば、この水戸藩の中で問題が起こり激動している時期に、どうして机に向かっているのだという批判もあったかも知れません。しかし栗田博士は、これを自分が止めたならば水戸の根本が失われる。他人が何と言おうと自分はこれに命を懸ける。そういう気持ちがあったのだろうと思います。ですから、どんな苦境の中でも、栗田博士は大日本史の編纂を続けられたわけであります。
 そうして、王政復古の大号令が出て明治維新を迎える。廃藩置県後も博士は彰考館編修として大日本史の「志・表」編纂に従事されました。しかし最終的な完成を見ずに、明治三十二年(1899)一月二十五日に東京の牛込で亡くなりました。六十五歳でした。「大日本史」が出来上がりますのが明治三十九年ですから、完全な完成を見ないで亡くなられたわけですが、この栗田博士がいて大日本史が完成に近付いた、いや実際には完成したと言っても良いでありましょう。
 さて、明治維新以後の彰考館の情況や大日本史編纂のことを、概略見てみたいと思います。
 御一新を迎えまして、やがて明治二年(1869)の六月十七日、十一代水戸藩主徳川昭武公が封土人民を朝廷に返還され、知藩事(ちはんじ)に任命されました。すなわち版籍奉還(はんせきほうかん)が行なわれました。従って彰考館は、水戸藩の施設ではなくなって、徳川家の財産、個人の家の経営ということに変わったわけであります。
 しかもこの頃から、彰考館をもう止めたら良いではないかとか、彰考館の書物を東京に移すか朝廷に献上しようとか、また志類の編纂をやめようとか、いろいろな噂が立ったのです。栗田寛博士は、「これはいけない」ということから、直ちに藩の役所に請願します。彰考館機構の再建案と志類編纂事業の達成は、絶対に必要なことであると熱心に請願致しました。
その結果、請願はほヾ認められて、新たに彰考館の組織替えがなされました。
総裁は置かれずに編修として栗田博士以下、津田信存(つだのぶかず)・ 菅政友(かんまさすけ)などの人達が任ぜられました。
それに編修雇・正字・雇・管庫・筆生など合わせましても十二・三名という僅かな人数になってしまいました。
 そういう情況の中で、明治四年(1871)の二月には、まず「志」の中の「刑法志第八」が最初に 上木(じょうぼく)されました。上木というのは、版木に彫って印刷刊行することです。出来上がった「刑法志第八」(二巻)は三月に朝廷に進献されました。「志」の順序は、最終的な刊本である『大日本史』では、「神祇志」が第一ですが、完成上木の順序は違います。一番はじめに出来たのは「刑法志第八」でした。
 ところでこの「志」というのは、一体何であるかといいますと、総合文化史とお考えください。大日本史は「紀伝体」ですから、「本紀」は天皇の御事績が中心、「列伝」というは、天皇以外の人達の伝記で、あくまでも人物を中心に叙述しています。そこで、人物以外のいろいろな物事は、これを「志」という形でまとめて書き記すわけです。ですから総合的な文化史、政治経済文化など種々のものが、それぞれ分野毎にまとめられている、というようにお考え頂ければ良いと思います。刑法に関する事が「刑法志」であります。
 それが出来て間もなく、この年、明治四年七月十四日に廃藩置県が行なわれ、ついに水戸藩は無くなりました。そして水戸県が新設されましたが、さらに十一月十三日には茨城県となりました。廃藩置県によって昭武公は知藩事を免ぜられ東京の小梅邸に移られたのであります。
 一方、彰考館もこの年七月に、水戸城の二の丸、現在水戸市立第二中学校のあるところですが、二中の門の右側に「大日本史編纂之地」という碑が建っていますね。そこが水戸彰考館の場所でした。その水戸城二の丸から、三の丸の藩校弘道館の中に移されまして、大日本史編纂は水戸徳川家の私的事業、あくまでもプライベートな事業として継続されることになりました。次いで同年の冬には、弘道館から柵町(さくまち)の別邸、かつて義公がお生まれになった三木仁兵衛之次(ゆきつぐ)の屋敷跡、後に中御殿(なかごてん)と呼ばれた所ですが、その場所に移されました。現在の水戸駅の北口を出て少し東の方に行ったところ、県立水戸第三高校の下あたりです。 この明治四年のうちに、水戸城内から弘道館へ、弘道館から柵町へ、と彰考館は転々と移っているわけです。そしてさらに、明治五年(1872)には、偕楽園の東南隅の地に移転されました。その具体的な場所は、推定するところ常磐神社の東側鳥居を入った辺り付近と思いますが、そこに彰考館が移されました。
 ところが、この明治五年には、彰考館編修の津田信存が茨城県に出仕し、菅政友も大和の石上(いそのかみ)神宮の宮司に転出してしまいました。栗田寛博士自身も一時期、県の学制掛というものに任命されて出られましたが、間もなく学制掛を辞任されまして、家で著述に専念されていたようです。従ってこの時期、しばらくの間は、彰考館は現在の常磐神社(当時はまだ常磐神社は鎮座しておりませんが)の東南隅にありましたけれども、ほとんど活動出来ない閉鎖状態にあったと思われます。
 しかも明治六年の七月から栗田博士は上京されまして、政府の求めに応じて大教院、続いて教部省、それから太政官修史館に勤務されてしまいました。中心になった三人の編修官の方々が、直接大日本史の編修を指揮される情況ではなくなってしまったのです。しかしそれでも彰考館に残っておられた人達の努力によって、明治六年(1873)の十二月には、二番目の「志」であります「兵志第七」六巻が上木されまして朝廷に進献されました。
 やがて、明治十一年(1878)十月、西南戦争の翌年ですが、栗田博士は水戸に帰ってこられます。実はお兄さんが亡くなられ、さらにお母さんが亡くなられました。そこでもう自分は東京に居られない、帰る、ということで、博士は水戸へ帰ってこられる。これから再び栗田博士は大日本史編纂に情熱を傾けられて行くわけであります。
 明治十二年(1879)六月五日に彰考館を偕楽園南崖中腹の平地に新築致します。この南崖中腹の地こそが「大日本史完成の地」ということになります。さてその土地に彰考館が移りましてから、栗田博士は「仏事志」の校訂に着手し、明治十五年(1882)に「仏事志第十」六巻が完成致しまして上木、九月に朝廷に進献しました。以下、同年の十月に「職官志」、いわゆる朝廷の官職に関する歴史を記した「職官志第三」五巻が上木され、十二月に進献。二年後の明治十七年にいろいろな家柄氏族について記した「氏族志第二」十三巻が、五月に上木、六月に進献されました。
 ところが、この年の九月に栗田博士は、元老院奏任御用掛 (そうにんごようがかり)に任ずるから上京せよ、という命令を政府から受けました。栗田博士も断りきれなくて、ただし、水戸での志類編纂は、そのままやらせて貰いますよ。ということを条件として、東京に出られました。志類編纂の事は兼務ということで続けられました。 明治十八年(1885)八月に「禮楽志第六」十六巻が上木され、九月に進献三年後の明治二十一年、(1888)七月に「食貨志」(しょくかし)第五、十六巻が上木、九月に進献されました。「食貨志」といいますのは、朝廷の経済についての記録をまとめたものです。
 翌明治二十二年三月に、栗田博士は元老院を辞官、再び水戸に帰って来ました。栗田博士が水戸に帰ったその翌年、明治二十三年(1890)十月に、近衛諸兵演習親閲のため明治天皇・皇后両陛下が水戸に行幸されました。これは水戸にとって画期的なことでありました。明治二十三年と言えば、第一回帝国議会が開かれた年です。前年の二月が大日本帝国憲法の発布でありますから、こういう日本にとって重大な時期に水戸に行幸になられたわけであります。その時の「御沙汰書」の中に、
    「夙(つと)に尊王ノ大義ヲ唱ヘ、力ヲ国事ニ盡(つく)シ候段、御追想被為在(あらせられ)・・・・」
という一文がございました。水戸は早くから尊王の大義を唱え、力を国事に尽くして来た。そのことは本当に心に感じ思い起こす事である。ということで、藤田幽谷・東湖などの遺族に祭粢料(さいしりょう)が下賜されました。これは昨年の最後の講座でも、私が話をさせて頂きまして、先頃常磐神社から発行されました「平成四年度水戸学講座講録」の中にも収録されておりますので、ご覧頂きたいと思います。
 ところが明治二十五年の十月、栗田博士は、今度は文科大学教授に任ぜられて上京することになりました。ただし「志・表」の編修はそのまま継続されました。そしてこの時期、最も博士が力を入れられたのは、「神祇志」でありました。また同時に一番編修の難しいものでもありました。巻数も多く二十三巻あります。この「神祇志第一」がやっと出来上がりまして、明治二十六年(1893)十一月上木、十二月に進献されました。
 それ以後になりますと、栗田寛博士の養子であります栗田勤さん、この方は寛博士の兄さんのお子さんですが、博士に後継ぎの子供がおりませんでしたので養子になっておりました。その他、博士の門弟であります清水正健などの方々が、編修に従事されるようになりまして、明治二十八年(1895)に「陰陽志第九」五巻が上木、進献されました。
 しかし「志」は、あと一つ残っています。それは「国郡志」というものですが、この完成は少し後になります。「国郡志」が出来る前に、「表」の方のまとめに入っておりまして、まず明治三十年(1897)の十月に「志表總序」というものが書かれました。「表」を進献する場合の「序」文です。同時に「志・表」の目次も正式に確定されました。そして翌年の三月に「公卿表」七巻が出来上がり、上木・進献されました。でもまだ、「表」は四つほど残っておりますし、「志」も残っております。
 そういう中で、明治三十二年(1895)一月二十五日に、栗田寛博士が六十五歳で亡くなられてしまいました。
 門弟の清水正健氏は、「増補水戸の文籍」の中で次のように書いています。
    先生彰考館に出入する四十余年、.........先生の本志とする所は、先公の 遺意(いい)を奉じて、国体を明にし、人心を正し、大道を護り、邪説を排するに在りて、固 (もとよ)り 世(よ)の腐儒曲学の徒、委瑣考證(いさこうしょう)、自誇り、或は奇言を弄(ろう)して以て名を当世に求めむとする者の比に非(あら)ざるなり。」
 この栗田寛博士が六十五歳で亡くなりました後は、栗田勤(くりたいそし)号は 晦屋(かいおく)氏が編修の中心となってゆきます。
 そして明治三十二年(1899)に「臣連二造表」( おおむらじにぞうひょう)が出来ます。二造というのは、古代の官職である伴造(とものみやつこ)と国造(くにのみやつこ)を指します。伴造というのは、技術集団などの長官。国造というのは、地方の長官。これが二造であります。臣・連といいますのは、豪族の家柄や職掌をあらわす「姓」(かばね)のことで、他にもたくさんの「姓」がありました。はじめは朝廷から頂いたのですが、やがて世襲されてゆきます。それらの表が「臣連二造表」二巻で、三十二年の十月に上木され、十一月に進献されました。
 翌年の明治三十三年(1900)十一月十五日に、再び明治天皇が茨城県に行幸になりました。
 この時は笠間を行在所(あんざいしょ)にされまして、現在の和尚塚 (おしょうづか)近辺で機動演習が行なわれるのを統監されましたが、十六日に、侍従を常陸太田の瑞龍山(ずいりゅうさん)に御派遣になりまして、義公に対する御贈位の勅語を伝えられました。
    名分ヲ明ニシテ志ヲ筆削(ひっさく)ニ託(たく)シ、正邪ヲ辨ジテ意ヲ勧懲(かんちょう)ニ致セリまことニ是レ勤王ノ倡首(しょうしゅ)ニシテ実ニ復古ノ指南(しなん)タリ
    更ニ正一位ヲ贈リ以テ朕(ちん)カ意ヲ昭(あきらか)ニス。
勧懲というのは、勧善懲悪(かんぜんちょうあく)のことです。
「洵ニ是レ勤王ノ倡首ニシテ実ニ復古ノ指南タリ」
これは見事なお言葉です。水戸の義公は、初めて勤王を唱え、実践したものであり、王政復古を導いた指南役である。こういう評価を勅語の中で述べられ、義公に正一位が贈られたのでありました。これが明治三十三年。
 それから五年ほどたちまして、やっと最後の「志」であります「国郡志第四」三十三巻が出来上がります。三十八年(1905)の三月に上木、三十九年二月に進献がなされました。
 これで「志」の編纂は終わるわけです。全部で十志あります。「神祇志」が第一で、第十が「仏事志」です。残るは三つの「表」です。
 明治三十九年(1906)二月に「国郡司表」十二巻が上木され、六月に「蔵人(くろうど)検非違使(けびいし)表。四巻が出来上がりました。蔵人といいますのは、平安時代の初期、第五十二代の嵯峨天皇の時に設置された官職です。設置の契機となったのは、弘仁元年(810)に起こった「薬子(くすこ)の変」という事件でした。これは五十一代の平城天皇にお仕えしておりました藤原仲成と薬子兄妹が、御病気のため三年程で譲位され上皇となられた平城上皇が、健康を回復された機会に、もう一度平城上皇に、天皇として 重祚(ちょうそ)していただこうと考えました。それを実現する為に奈良のお寺の勢力を利用しようとして、平城上皇が重祚できた時には、平城京へ都を移すということを約束したのでありました。ところがこの陰謀が暴かれまして、仲成は処刑され、薬子は服毒自殺をしました。これを「薬子の変」と呼んでいます。
 この事件に際して、天皇が出される詔勅などの手続きがきわめて複雑であった為、途中でしばしば秘密が漏れてしまう、また天皇に伝えられる機密事項も、同じように複雑な手順のために漏洩(ろうえい)してしまう、ということが問題になりました。そこでそれを防ぐために、詔勅の伝宣や機密事項の処理にあたる「蔵人」という官職を、弘仁元年(810)に設置しました。その長官を蔵人頭 (くろうどのとう)といい、役所を「蔵人所」と言いました。「蔵人頭」は秘書官長のようなものです。
 もう一つの「検非違使」は、京都の町の警備・罪人の逮捕などの仕事をする警察官のような役割をもった官職です。もともと律令の官職では弾正台(だんじょうだい)というものがありましたが、それでは不十分ということで、検非違使が置かれ警察機能を担当するようになりました。長官(カミ)を別当、次官(スケ)を佐、判官(ジョウ)を尉、主典(サカン)を志、といいました。有名な源義経は、壇ノ浦の戦いで平家を破ったのちに、後白河上皇から「検非違使尉」(けぴいしのじょう)に任ぜられましたので、尉=判官(ホウガンとよみます)であるところから九郎判官(くろうほうがん)源義経と名乗り、また判官(ほうがん)贔屓(びいき)という言葉も生まれています。
 なお「蔵人」も「検非違使」も共に大宝律令や養老律令には定められていなかった官職ですので、令外官 「りょうげのかん」と呼ばれています。
 以上の二つの重要な官職についてまとめた表が「蔵人検非違使表」四巻です。
 最後に、明治三十九年八月に「将軍僚属表」三巻が出来上がりました。鎌倉以後の将軍とその関係役職の表です。これで「大日本史」は全て完成しました。完成の地は、偕楽園南崖の彰考館でありました。
 明治三十九年(1906)十二月二十六日、ご当主でありました徳川圀順(くにゆき)公が常磐神社に詣でられまして、ここに『大日本史』が完成しましたことを奉告されました。そして同じ日に、新たに上木されました三表とともに「大日本史紀伝志表・目録全て四百二巻」を二組印刷致しまして、上表を添えて明治天皇・皇后両陛下にそれぞれ奉献されたのであります。
 こうして出来上がりました『大日本史』は、
    「本紀」七三巻、「列伝」一七○巻、「志」一二六巻、「表」二八巻、本文三九七巻。「目録」五巻、合計四○二巻。
ということになります。
 そうしますと、明治元年から数えまして足掛け三十九年、編纂開始から王政復古の大号令までが二一一年、足しますと満二四九年、足掛け二五○年という歳月を要している計算になります。
 さて、大日本史は明治三十九年に出来上がりましたけれども、彰考館をどうするかということが大きな問題でありました。水戸としても何とかこの彰考館の蔵書、十万冊位は当時在ったであろうと言われていますが、それを保存したいと皆が考えておりましたところ、明治四○年(1907)一月に明治天皇から書物保存に役立てるようにと、金一万円の御下賜がありました。加えて明治四十二年の五月には、昭憲皇后から三千円の御下賜がありました。これが元になりまして明治四十三年(1910)に、現在の義烈館の敷地のあたりに「彰考館文庫」という煉瓦造りの建物が出来ました。
 こに十万冊に及ぶこれまで集められた彰考館の蔵書が保管されることになり、多くの人々がその彰考館文庫を訪れて、勉強されました。しかし今日は、その十万冊の書物の内、五分の一程度でしょうか、見川の徳川家邸内に疎開されていたものだけが残りまして、大部分は昭和二十年八月の空襲で焼失してしまいました。ですから、戦前彰考館に来られた研究者の方々が、こういう手紙を見たとか、こんな書物があったとか書かれておりますが、今、存在しないものが数多くあります。ですから、戦前の方々が書かれました書物の中から、今日我々は出来るだけそれを写し取って置かなければならないと思います。古い書物の中に引かれている彰考館の史料は、これを書き抜いて将来に備えなければならないと思うのです。


   (4)大日本史編纂の意義

1、史学研究への貢献 ---出典註記と史料蒐集・参考本の作成

【出典註記】

  このようにして「大日本史」は完成しました。では大日本史の編纂というものは、どういう意義があるのだろうか、ということをいくつかの面から考えてみたいと思います。
 まず一つは、何と言っても歴史学研究に対する貢献です。
特に出典註記と史料蒐集の問題です。出典註記については、これまでも先生方が何度も繰り返して話をされておりますので、お分り頂いていると思いますが、本文の一記事毎に史料の出典を註し、考証の理由とか結果についてもこれを記しています。「大日本史」をご覧になりますとわかりますように、割註で二行にして註がついています。これは、ほとんど従来の歴史書等には見られない画期的な新体裁と言ってよいのであります。一部には、註を付けている書物もありますけれども、「大日本史」のように一つ一つの歴史事項について、徹底して出典註記を行なっている書物は初めてと言って良いでしょう。
 では、何故このように出典を註記することになったのか、ということについては、『御意覚書(ぎょいおぼえがき)』の天和四年四月三日の条に義公の指示が記されています。
    「凡(およそ)紀伝之出処付(しゅっしょづけ)、縦(たとえ)ハ日本紀・古事記・旧事記等ノ本拠ニ成候書ハ不及記(しるすにおよばず)其外ノ雑書等より考出たる故事ハ、悉(ことごとく)可記其出処(そのしゅっしょをしるすべし)。......... 」
 さらに『往復書案』(「大日本史編纂記録」二二○)を見ますと、元禄十年十二月廿二日付、安積・中村・栗山宛、井上・佐々書簡に、
    「御編集之書ニは皆出処を御付被成(なされ)候段、御書ニも被仰遣(おおせつかわされ)候。」
ということで、義公の直接の意向によることが判ります。しかも其の具体的な理由については『史館旧話』(水府明徳会彰考館文庫架蔵)という記録の中に、次のように書いてあります。
    「御平成史館へ被仰付(おおせつけられ)候ハ、大日本史を造事(つくること)其方共之可及(およぶべき)事ニあらす、後世ニ才識抜群の人出て、大日本史を撰述せん時ニ、採択ニも可成哉(なるべきや)と思召(おぼしめし)此書を御編修被遊(あそばされ)候、それ故一事一条をも、専ニ御決断不被遊(あそばされず)、毎時引用の書を御注シ被指置(さしおかれ)候」
義公自身は、「大日本史」とは言われておりません。「大日本史」という名称が決定した後で書かれたものですから、こうなっているのです。
「史記」とか「紀伝」とか称されていたのでしょうが、お前たちが「大日本史」を造ることは難しいのだよ。将来すばらしい人が出て日本の歴史を編修する時役立てば良い、そういうつもりでこれを作るのだ。「それゆえ一事一条をも専らにご決断遊ばされず、」すなわち一つ一つの事についても専らに決断せず、要するに独断で、これはこうだ、と結論してしまうようなことはしない。「毎事引用の書を注し、」それぞれの事について、これはこういう書物から引きましたよ、と註に記すわけです。水戸藩に於いても考証できない事もあります。史料も不十分ですし、多少の史料はあっても、それをどう解釈したらよいか、結論を出すのが難しい場合もあります。そのような時には、註として、疑問をありのままに書いているのです。こういう説もある、また一方こんな異説もある、従って、「後考(こうこう)を俟(ま)つ」というような書き方をしております。非常に謙虚な記述の仕方です。
 義公は、自分が完全な大日本史を書くのだという、そういう思い上がった気持ちを持たれずに、後の人の為に、後世本当に素晴らしい人が出て、真の歴史を書かれる時に役に立つように出典を記して置きましょう、という意味です。以上のような点から、義公の出典註記の本旨というものを理解することが出来ると思います。

【史料蒐集】
 しかし、この出典註記をするためには、史料の蒐集が必要です。そこで基礎的な事業としての採訪蒐集が盛んに行なわれました。これについては、前回も仲田先生から詳しくお話がありましたので、省略させて頂きますが、特に歴史学研究への貢献の面から、一つ二つご紹介しておきましょう。
 例えば、水戸の史料採訪によって、初めて世に出たものがいくつかあります。その第一の例が『高野山文書』です。これは大変な功績です。今でこそ、「大日本古文書」の中に『高野山文書』として収録され、立派な印刷物になっておりますから、学者・研究者の方々も簡単に使えます。
 しかしながら、当時あの高野山に行って、丸くなったり、皺くちゃになったまま畳まれていた記録史料を、一つ一つ手にとって解読していったのは佐々(さっさ)介三郎(すけさぶろう)宗淳(むねきよ)です。実に大変な仕事でありました。延宝八年(1680)の八月下旬から、佐々宗淳の調査が行なわれました調査の場所は、高野山の弘法大師御影堂(みえどう)というところです。その御影堂の文庫の中にある記録文書、これは僧侶達も全然見たことがない、開けて見たこともないという貴重な史料類でありましたが、それを調査しました。
 これについて、故久保田収博士、博士は高野山大学の教授などを歴任され、最後は皇學館大学教授で亡くなられましたが、水戸に来られて水戸史学会大会で記念講演をされたこともございます。その久保田収博士が「高野山における歴史研究」(『近世史学史論考』所収)という論文の中で、
    「これはひとり水戸だけではなく、高野山にとっても、重要な出来事であったそれは文書・記録に対する認識を新たにしたことである。......宗淳の来山と、彼による古文書類の調査は、史料としての文書の重要性を明らかにしたに違ひない。この後になって、高野山に、はじめて文書を利用した史書があらはれてくるのである。.........」
佐々宗淳の採訪以後、高野山でいろいろな歴史の書物を編纂する時に、そういった史料を利用するようになった。史料によって歴史を書くということを人々に教えた。それが水戸の功績である、ということです。
 同じような例では『東大寺文書』もそうです『高野山文書』の調査の翌年、天和元年(1681)の六月下旬から佐々宗淳達が調査をしておりますが、東大寺の油倉とか、総持院などの文書記録を調査しています。これもお寺のお坊さん達が、「初めて見た。何でも協力するから、どんどんやってくれ」ということで、精力的に調査を実施しました。
 こうした水戸の史料採訪によって、多くの貴重な史料が日の目を見て、世に表れているわけであります。
 それから水戸の史料調査と保存策によって、長く後世に伝えられた史料も数多くあります。
 例えば、ご存じの水戸市六反田の 六地蔵寺(六蔵寺)の典籍がそうでしょう。延宝二年(1674)に、義公は六地蔵寺に蔵されておりました沢山の史料文書、特に恵範(えはん)上人が戦国時代の戦乱の中で一所懸命に勉強され、集められた多くの書物等を、是非とも保存しなければならない、と考えられました。
そして大事な五部の書物に補修を加えて副本を作らせ、また法宝蔵(ほうほうぞう)という書庫を庫裏(くり)から離して建てまして、保存の手立てを講じました。やがて明治になってから、法宝蔵が傷んだため修理をしようと解体したところ、慶長小判三十枚その他が出てきました。一体誰が、これを隠したのだろう、お寺にも記録がない。いろいろ考えますと、これも義公以外には該当者がいない。おそらく義公は、将来必ず法宝蔵も傷むに違いない、その時の為にと考えられ、誰にも言わずに瓶(かめ)に入れて隠して置いたのであろう、ということなのです。それが元になって、修理が出来たのだそうです。六地蔵寺の典籍・文書は、義公の史料調査と保存策によって後世に伝えられた代表的な例です。

【参考本の作成】
二番目には、「参考本」の作成についてですが、この仕事も大変なことだったのです。
「参考」と言いますのは、参照校勘(さんしょうこうかん)という意味です。多くの異本を集めて校訂・考証を行い「参考本」というのを作成しました。水戸藩で作りました「参考本」は、次にあげました四種類です。

 『参考保元物語』・『参考平治物語』・『参考源平盛衰記』・『参考太平記』

平安末から鎌倉・建武中興・室町に至る間の時期は、正式な朝廷の歴史編纂物などがない時代でした。従って、こういう軍記物語と言われるような書物を参考にしなければ、歴史が書けないという面がありました。ところで、どうして「平家物語」が入っていないのか。実は「平家物語」と「源平盛衰記」とを比較しますと、ほヾ同じような事が書かれておりますが、「源平盛衰記」の方が詳しいのです。そこで「平家物語」の参考本は作成しなかったのだそうです。ただし、彰考館文庫の目録を見ますと、「平家物語」についてもいろいろな写本を集めていた様子がうかがえます。「○○本平家物語」というのがそれです。今日でも「平家物語」の研究者は、しばしば彰考館文庫を訪れて種々の写本を調べていくそうです。
 こうした参考本の作成も、史料蒐集や出典註記のことも、いずれも大日本史編纂という大きな事業の一環として行なわれたわけですから、それぞれ分離独立して考えることではありません。ではこのような種々の作業は、どういう目的・意義をもっているのでありましょうか。そのことについて、加藤繁(かとうしげる)博士と平泉澄(ひらいずみきよし)博士という二人の先学の解説をご紹介しましょう。
 まず加藤繁博士の解説ですが、収録されている原本を見つけることが出来ませんでしたので平泉澄博士の「大日本史概説」(『大日本史の研究』所収)に加藤博士の談として掲載されております一文を紹介させて頂きましょう。
    「......支那で校勘の学が盛になったのは、乾隆 (けんりゅう)以後の事であって、義公が古事記日本紀以下を校訂された元禄の初年には、それが僅に芽を吹き出したばかりであり、従って我が国に影響するような事は無かった、水戸の史籍校訂は、清朝史家の校勘に学んだのではなく独立的に起ったものである。」
「校勘」というのは、いろいろな書物をつき合せて、どれが本文として正しいのか、ということを検討して行くことです。水戸で行なわれた史料吟味や参考本の作成などは、清朝の校勘学の影響を受けたものではなく、独自に切り開かれたものであるという意義を強く述べられております。
 さらに、平泉澄博士 は「大日本史概説」の中で、
    「......かやうに厳密なる科学的操作を創案するに至った動機は、何であったかといふに、蓋し日本の国体を明かにする事、即ち君臣の大義大節を明かにするといふことの、極めたる重大性に徹しては。一字一句も之をゆるがせにせず、事実を究め、真相を明かにし、それをそのまま率直に記述して行かねばならぬと考へられた為であったらう。」
と、述べられております。 大日本史の編纂にあたって、広く史料を集め、しかも史料の検討をし、出典を註記する。また参考本の作成を行なう。これらはすべて、重大な日本の国柄、君臣の問題などを歴史的に書いてゆくためには間違いがあってはならない、ということで出来る範囲の努力をされたことなのである。このように平泉博士はその目的意義を明確にされております。
 近代になってからの歴史学の研究法の発展には、見るべき大きなものがありますが、しかしながら、大日本史編纂事業の中で打ち立てられた歴史研究法の基礎は、多くの史料の発見・保存と共に、誠に大きな意義があると思います。だからこそ、近代になってそれを踏み台にして飛躍発展が出来た。これは史学研究への貢献として、水戸の大きな業績として、高く評価されなければならないと思います。


2、古典復興への貢献 ----研究と編纂
【古典復興の気運】

  一方では、古典復興への貢献ということも、大きな意義があるのです。長い戦国乱世が終わって、世の中が平和になりました。そうした情況の中から、いろいろな人達の間に、古典についてもう一度見なおして行こうという気運が起こってきました。殊に義公は、わが国固有の歴史文化及び精神の尊重と復興ということを心掛けられました。すなわち古典を、国文学的な分野から研究し、復興を目指しておこって来たのが国学です。
 これに対し、歴史学の面かから古典を研究・究明し、日本の道義を確立しようとしたもの、即ち大日本史編纂の一環として古典を研究し明らかすることを目的としたのが、水戸学の立場でありました。
 水戸の学問、水戸学というのは、儒学から、特に朱子学というものだけから出発したのではないのです。儒学というのは、水戸の学者の基礎教養なのです。決して朱子学に縛られて、朱子学の大義名分論に当てはめるために歴史を書いたのではありません。あくまでも日本の歴史を編修するにあたって、史料を集め、史実を研究して、その中から日本の歴史国柄を明らかにし、道義というものはどうあるべきか、ということを解明していったのが水戸学なのです。水戸学というものは、歴史学から出発したものです。
 その歴史研究の中で、国学・国文学系統の研究も、水戸では真剣にやっておりました。この水戸における国学・国文学については、前回お話をされました梶山孝夫先生が、詳細な研究を続けられ、逐次その成果を発表されております。
 義公の念願とするところは、端的に言えば「興廃継絶」(こうはいけいぜつ) 廃(すた)れたるを興(おこ)し、絶(た)えたるを継(つ)ぐということでありました。大日本史編纂を主軸として、古文古史料の発掘蒐集、和歌・和文の注釈研究、神道の研究、有職故実(ゆうそくこじつ)の研究など、こういう事を水戸は行なって来たのです。まさに総合的な古典復興の事業であったと言っても良いでしょう。
 その水戸の古典復興の例を、一・二挙げてみましょう。

【万葉集の注釈】======『釈万葉集』と『万葉(集)代匠記』
 一つは、「万葉集」の注釈です。具体的には、『釈(しゃく)万葉集』と『万葉(集)代匠記 (だいしょうき )です。
 特に義公が注意をはらったのは、文献学的な研究法です。古典の成立当時の原型に出来るだけ復元し、それに基づいて注釈し、理解する研究法をいいます。
 『釈万葉集』と言いますのは、「万葉集」の注釈書のことで、その編修に長年力を傾注しました。義公は、若い時から和歌に大変興味をもっておられまして、七歳の時に、
  「ふる雪がおしろいならば手にためて小かうが顔にぬりたくぞある」
という、お歌を作られたという話もありますけれども、すでに少青年時代に和歌に対して強い関心を持っておられました。
 そして三十代後半の寛文年間に『釈万葉集』の編修が企画され、開始されました。板垣宗憺(そうたん)・伴香竹(ばんこうちく)・安藤年山などの史臣が、これを手助け致しました。その『釈万葉集』の編修の役に立つようにということで、延宝初期に大坂の下河辺(しもこうべ)長流(ちょうりゅう)に万葉集注釈を依頼しましたが、病気などの理由で断られます。そこで、やがて天和三年(1683)に長流の心友というべき人物でありました大坂妙法寺の真言宗の僧契冲(けいちゅう)、この人が非常に「万葉集」に造詣が深いということから依頼が行なわれまして、契冲は大坂に居って万葉集注釈を行いました。こうして出来ましたのが『万葉(集)代匠記』です。代匠というのは、師匠に代わって行なう、という意味です。元禄三年(1690)に精撰本が完成し、義公の元へ献上されました。
 この書物は、文献学的にも非常に精密な注釈書でありまして、万葉学史上特筆される書物です。そして、これが国学成立への発起点ともなっていったのでありました。この契冲から、荷田春満(かだのあづままろ)・賀茂真淵(かものまぶち)・本居宣長(もとおりのりなが)・平田篤胤(ひらたあつたね)という国学の流れが出来て行くわけです。この契冲の万葉集注釈は、国学の出発点といえるものです。そういう面から考えますと、契冲に著述させた水戸の義公は、国学誕生の助産婦的役割を果たしたのではないか、と私は考えます。
 しかし代匠記は、あくまでも義公による独自の万葉集注釈の有力な参考書でありましたから、『釈万葉集』の編修はずっと継続されて行きまして、元禄十三年(1700)義公が亡くなられた年には、五十巻が一応出来上がっておりました。『桃源遺事』(とうげんいじ)などの、義公が亡くなられた頃の記録を見ますと最後まで義公は万葉集に対して情熱を燃やしていたようでして、亡くなられる二日位前にも、『釈万葉集』の注釈に関する指示などを与えております。ですから最期までそうした気持を持っておられたことがわかります。なお精撰本は享保十六年(1731)に完成しました。
 ところで、義公の万葉集研究について、佐佐木信綱博士 _「義公と万葉集」という文章を書かれております。これは『文学界』という本の中に収められているのですが、この『文学界』は明治四十四年六月十五日の発行で、「義公号」という特集号なのです。「光圀」ではないのです。この特集号に寄稿している人は、ほとんどが「義公」と書いております。徳川光圀などという呼び方はごく少数でありました。錚々たるメンバーが執筆しています。
その中に、佐佐木信綱博士が書いておられる文章がありました。
その一節に、
    「......我等国文に従事する後学は、今日尚隠然、公の恩恵を被(こおむ)りつゝあるものと言うても 宜 (よろ)しからうと思ふ。」
即ち、明治の時代に、佐佐木信綱博士たち国文の研究に従事する人々は、その恩恵を義公から受けているのだ、ということを、この大家が述べられているわけであります。

【扶桑拾葉集の編修】
  次は『扶桑拾葉集』の編修についてです。これは義公自身によって編集が開始されたものですが、弘仁年間、先程申し上げました嵯峨天皇の頃から、江戸時代の承応年間まで、義公の年齢で言えば二十六・七歳の頃までの、和文の優れたもの三百余編を集めたものです。 延宝六年(1678)に一応完成し、後西(ごさい)上皇に奉呈致しましたところが、上皇から『扶桑拾葉集』という題名が下賜され、勅撰に准ずる、准勅撰の書と認められました。これは大変なことです。水戸という一藩の大名徳川光圀、義公が編集されたこの『扶桑拾葉集』が、勅撰に准ぜられるという名誉に浴したわけであります。次いで延宝八年増補完成、四月に後西上皇と霊元(れいげん)天皇に奉呈献上されましたが、その後も校訂増補を続け、続編の編集も行なわれて行きました。
 その献上の際の義公の上表文「進扶桑拾葉集表」には、和文の淵源と盛衰を述べ、盛衰の根源は、わが国固有の文化の忘却と、外国文化の惑溺にあると指摘し、自分の念願は、古人先人の純粋な精神を今に明らかにし復興することであります、と述べられております。この書物もまた貴重な史料として、後世に生きてくることになります。

3、 朝儀復興への貢献

【礼儀類典の編纂】
  義公は、大日本史を編纂している中で、朝廷の儀式に関することが、いろいろ史料に出てくることに気付いておりました。そしてかなり早い時期から、もしこれを部類別に、部門別に集めて編修し、朝廷に差し上げたらお役に立つだろう、と考えておりました。
 やがて、天和二年(1682)に史臣の山県源七(元纜)が上京した機会に、公家の 土御門泰福 (つちみかどやすとみ)という人に、水戸からこういう書物を編修して差し上げるのは如何なものでしょうか、是非陛下にうかがって頂きたいと、義公の意向を伝えさせました。やがてこのことが霊元天皇の叡聞に達しまして、霊元天皇は大変喜ばれ、是非その部類記を献上せよ、とのお言葉がありました。
 そこで義公は、翌年正月にまず『立坊儀節』『立后儀節』という二書を献上しました。
 『立坊儀節』(りゅうぼうぎせつ)というのは、皇子が皇太子になられる儀式、即ち立太子の儀式に関することをまとめたものです。『立后儀節』(りっこうぎせつ)は、皇后に立てられる時の儀式に関することをまとめたものです。これらは大日本史編纂のために集められた史料の中から抜き書きされ、編修されたものでありました。 この二書を参考にして、この年、実際に立太子礼や立后礼が宮中で執り行われました。
 そしてさらに、この年の七月頃から部類記、後に『礼儀類典』といわれる書物の本格的な編纂が開始されております。編纂の主旨については、後に『礼儀類典』を献上する際に認められました「口上之覚書」に、次のように書いてあります。
    「......史記よりハすぐれ候而、官家之御用ニ相立可申 (あいたちもうすべし)......」
 史記というのは、大日本史のことを指します。大日本史よりも優れて官家、即ち朝廷のお役に立つ書物である、ということです。裏を返せば、大日本史もまた朝廷のお役に立つ為に編纂がなされている、というふうにも推定できるわけです。もっと広い言葉で言えば、陛下の君徳の涵養の為にお役に立てよう、という意味も義公の心の中にあったのではないでしょうか。
 さて、義公は大変な精力を傾けて『礼儀類典』の編纂を進めて行きました。貞享三年(1687)夏には、水戸城内に彰考館の別館が開設されました。これは大日本史編纂の為に開設されたものではなく、『礼儀類典』編纂の為に設けられた施設でありました。但し、何の為に部類記の編修をするのか、ということについては内緒にされました。朝廷との関係を、絶対に幕府に知られてはいけないのです。ですから、関係の史臣達にも本当のことは言わなかったようです。
それほど義公は気を遣っておりました。
 編纂に携わったのは、安藤為実・為章を中心に総勢六十一名、当時の江戸彰考館の大日本史編纂の人数よりも多かったのです。
 そして、完全に出来上がるのは、義公が亡くなられた後で、宝永七年(1710)八月に三代藩主粛公綱条から 中御門(なかみかど)天皇に『礼儀類典』五一五巻が献上されました。ただし、この時の献上については疑問もありまして、幕府には呈上されましたが、朝廷には献上されなかったのではないか、とも言われています。
 しかし、享保十九年(1734)五代藩主良公宗翰の時には確実に中御門天皇に献上が行なわれました。そしてこの水戸から献上された『礼儀類典』を参考にして、元文二年(1737)十一月に桜町天皇の御即位 大嘗祭(だいじょうさい)が斎行されたのでありました。義公は生前に大嘗祭という朝廷の盛儀の復興を見ることは出来ませんでしたが、義公の念願は、この桜町天皇の大嘗祭の斎行にあたって、『礼儀類典』が重要な参考書となったということによって、達成されたと言ってよいでありましょう。

4、明治維新・王政復古への貢献

【義公の本願】

  さて、大日本史編纂の意義について、いくつか述べてまいりましたが、その最大なるものはやはり何といっても明治維新・王政復古への貢献であったと思います。
 あらためて、生涯をかけた義公の本願は何であったか、ということを考えてみますと、端的に言えば、革命や反逆を未然に防止し、そして国体、国体といいますのは国家の根本の性格・国柄でありますが、そういう日本の国柄を護持してゆくには、どうしたらよいか、ということにあったと思います。史臣の大井松隣は「大日本史序」において、
    「乱賊の徒をして 懼 おそ るる所を知らしめ、将(まさ)に以て世教(せきょう)に裨益(ひえき)し綱常(こうじょう)を維持せんとす」
と、書いています。 また安藤年山の著書であります『年山紀聞』(ねんざんきぶん)には、三大特筆について、史館の史臣たちの間にもさまざまな議論がありました時に、義公は
    「これ計(ばかり)は某(それがし)に許してよ、当時後世われを罪する事をしるといへども、大義のかゝるところいかんともしがたしとて、他の議論を用ひたまはず。......」
最も大事な道義、即ち大義については、これを動かすことはできないのだ。だからわたしに任せろ、責任はわたしが取る、と言われ、義公自身が決断をされたということが記されております。さらにまた、『梅里先生碑文』には、
    「......皇統を正閏し人臣を是非し、輯(あつ)めて一家の言を成す。......」
と、明記されています。
そうした義公の本願を、一つの言葉に凝縮して表しましたのが、湊川の楠公碑に刻まれた、
    「嗚呼忠臣楠子之墓」
という言葉でありました。どなたもよくご存じの言葉でございましょう。
 元禄七年に水戸からはるばる湊川を訪れ、楠公のお墓に詣でた史臣の大串元善(おおくしもとよし)は、非常な感動を以て「拝楠公碑文」を書いておりますが、その中に、
    「嘗(かつ)て本朝の史を成さんと志す有り、儒臣に命じて修撰せしめ、皇統の正閏人物の 臧否 (ぞうひ)を論じ、必ず楠公を推して間然(かんぜん)すべからずと為し、......景仰の深き啻(ただ)ならざる也。......楠公の忠は我が公に因(よ)りて愈(いよいよ)著(あら)はれ、我公の志は楠公に因りて見るを得たり。」
と、記しておりまして、義公の本願を明らかにし、まさに、楠公と義公とは一体だと書いているのであります。
 ところで、先程ご紹介しました『文学界』の「義公号」に、当時衆議院議員の佐々木照山という人が、「義公論」という大変面白い文章を載せております。
    「元禄五年に光圀が此の碑を湊川に建てた事が、時の将軍綱吉に向って其の頭上に一撃を加へたと同様に当る。......湊川で名も無き一石工が、カチカチ、カチカチと石を穿(うが)つ鏨(のみ)の音は、遠く江戸表の千代田の城の礎(いしずえ)を打ち砕く 玄翁 (げんのう) となったことは疑はれぬ。」
玄翁は、玄能とも書きますが、大きな鉄の金槌(かなづち)です。これは昔、曹洞宗のお坊さんで玄翁という人がおりまして、那須の殺生石を砕いたというので、石を割る大きな金槌を玄翁と言うようになったのだそうです。
 湊川で「嗚呼忠臣楠子之墓」という文字を、石屋さんがカチカチと刻んでいます。実は、それは遠く離れた江戸の将軍のお城の基礎を、カチカチと崩して行くノミの音だった。やがて二百年後に、ついに幕府は崩壊して行きます。こういう発想というのも面白いですね。
 考えてみれば、「嗚呼忠臣楠子之墓」というこの碑によって、日本各地の人達がその心に楠公を思い起し、そこから、日本のあるべき姿、国家の根本の理想、そして尊王ということを考え、やがて明治維新の実現となっていったわけでありますから、佐々木照山氏の説に、私もなるほどなあ、と共鳴したのでありました。
 さて、話を本筋にもどしまして、義公の君臣観について考えてみましょう。これも有名な言葉ですから、どなたもよくご存じと思いますが、義公は家臣への説諭として、
    「我か主君は天子也、今将軍ハ我か宗室也。(割注 、宗室とハ親類頭也)あしく 了簡仕(りょうけんつかまつり)、取違へ申ましき由、御近臣共に仰(おおせ)られ候。」
と、言われておりまして、「君」とは京都に居られる天子、即ち天皇であるということを明示されております。ですから、義公が元禄三年(1690)十月に藩主を引退され、十一月に水戸へ帰られるにあたって、新藩主の粛公綱条へ遺訓の詩を残されましたが、その最後に、
    「......君は以て君たらずと雖も、臣は臣たらざるべからず」(原漢詩)
と、諭された「君」は、我が主君である「天子」であることは、明瞭でありましょう。これが義公の根本であります。
 やがて、義公が亡くなりまして百年後、藤田幽谷 という人物が出現致します。幽谷は彰考館に入って、一所懸命に義公を勉強しました。義公の心を最も的確に把握出来たのは藤田幽谷でした。彼は「原子簡(はらしかん)に送るの序」という文章の中で、
    「我が西山公、嘗て是非の迹(あと)天下に明かならず、而も善人勧むる所無く、悪者 懼(おそ)るる所無きを憂ふ。乃ち慨然大日本史を修めて上は皇統の正閏を議し、下は人臣の賢否を辨じ、帝室を尊んで以て覇府を 賎(いや)しみ、天朝を内とし以て蕃国を外とす。......」
と、述べています。幽谷は、君臣の義・華夷内外の弁が、義公の本当の心なのだ、ということを会得したのでありました。

【義公本願の継承と発展】
 義公の本願を確実に受けとめ、それを後世に伝えて行く、その中継地点で大事な仲介役を果たしたのが幽谷であったと考えます。もしその当時、藤田幽谷という人が生まれていなかったならば、水戸の学問はそのまま萎(しぼ)んで終わっていたかも知れません。
 義公逝去の百年後に、義公の本願を復活してくれたのが藤田幽谷。そしてそれを受け継いだのが、お弟子であります会沢正志斎、そしてお子さんの藤田東湖。しかも二人の学問精神は烈公に伝えられ、烈公から十五代将軍徳川慶喜公に継承されて行きました。
 慶喜公は、一橋家に養子に行きましたが、二十歳を迎えたある日、お父さんの烈公に呼ばれて、重大な水戸家の家訓を言い聞かされました。『昔夢会(せきむかい)筆記』に収められている「烈公の御教訓の事」という慶喜公談に、
    「御身(おんみ)ももはや二十歳になれば心得のために内々申し聞かするなり。......我等はたとへ幕府に反くとも、朝廷に向かひて弓ひくことあるべからず。これ義公以来の家訓なり。ゆめゆめ忘るることなかれ。」
と記されております。
 この烈公の説諭によって伝えられた義公の遺訓が、大政奉還につながるわけであります。そしてさらにまた、鳥羽伏見の戦いの後に、一意恭順の態度を表されたその心の内を、後日伊藤博文から問われた時に、烈公の説諭のことを打ち明けられ「これはわが家の家訓なのです。」
と、答えられたことについては、昨年のこの講座でもお話致しました。まさに、義公の心は、ずっと慶喜公まで伝えられ、継承されて来ているのであります。
 一方、天保期頃から全国の有志が、水戸へ水戸へと遊学して来ました。その目的は何か。
 水藩天保の学、水府の学、水戸の学、即ち水戸学を学ぶためにやって来ました水戸学という名称は、他藩の人達が付けた名前です。彼らは、水戸学の根本である義公の本願を学び、それを持ち帰って自藩に伝える。義公の本願は、広く他藩憂国の士の心に浸透して行きました。大変な数の人が水戸を訪れています。その中から代表的な人物二人についてお話しましょう。
 一人は、真木(まき)和泉守保臣(やすおみ)久留米水天宮の神官です。この人が天保十五年に水戸へやって来まして、会沢正志斎などの教えを受けました。真木和泉守 は、『何傷録』(かしょうろく)という文章を書いていますが、その中に、
    「......湊川戦死の跡に水戸黄門光圀卿嗚呼忠臣の碑を建てられしが、天下の人かりそめにも義理をわかち知るもの、墓前に拝伏して、其高義を感じ、涙をそゝがぬものなし。...」
すなわち、道義道徳というものが何であるか、ということが解るものは、必ずこの楠公の墓前に来たならば、拝伏して涙を流さないものはない、と記しています。
 さらに、文久三年(1863)十月二十日付けで友人の木村三郎に宛てた手紙に、
    「......大日本史恐敷(おそろしく)候間、此節は見事戦死之積(つもり)に御座候。......」
と、悲壮な決意を書き送っておりますが、翌年の元治元年(1864)に禁門(きんもん)の変、蛤(はまぐり)御門(ごもん)の変が起こります。真木和泉守は長州藩兵と共に上京し、京都の御所を守衛する幕府方の会津・桑名・薩摩などの藩兵と戦いました。しかし御所の中で御門を守衛する幕府方に大砲を撃つわけですから、言い換えれば、尊王の最先鋒である和泉守達は、陛下に向かって大砲を撃つことになってしまいます。形の上では反逆です。でも、和泉守は、自分はそうではないのだ。自分はここで命をかけ、そして死ぬ。自分が卑怯な態度をとったならば、水戸の「大日本史」に将来何と書かれるかわからない。自分は今、朝廷に対して、本当に陛下の為にお尽くししたいんだが、残念ながら御所を護っているのは会津・桑名や薩摩である。それに向かって戦わなければならない、これは自分としては誠に不本意だ。
 従って、今見事に討ち死にすることによって、「大日本史」がもし将来書いてくれるとするならば、自分の死をきっと理解してくれるに違いない、そういう気持ちなのです。「大日本史」が恐ろしい。いま自分が名をあげるとか、あるいは生き長らえるとか、そういうことではない、「大日本史恐敷候間、此節は見事戦死之積に御座候」という決意のもとに、戦い敗れたのち元治元年七月、天王山において自刃されました。
 禁門の変で、こと志が違い悲運の死を遂げた真木和泉守でしたが、彼が生前に構想した新しい時代のプランが、実は明治維新に数多く生かされたのでありました。明治維新の青写真を書いたのは、この真木和泉守であったと言っても過言ではありません。「大日本史」および「水戸学」の影響を強く受けた一人でありました。
 それからもう一人は、長州の吉田松陰です。嘉永四年(1851)に水戸へ来ました。そして会沢正志斎をはじめ、いろいろな人に会って大変な啓発を受けました。『講孟箚記』(こうもうさつき)という牢の中で囚人たちに「孟子」を講義した講義録がありますが、その「尽心下編第二十六章」に
    「余深く水府の学に服す。謂(おも)へらく、神州の道斯(ここ)に在りと。......」
私は、水戸の学問に心服しています、日本の道はここにある、水戸の学問にある、と吉田松陰は言っております。この吉田松陰は長州において大きな働きをして行くことになります。
 このように「大日本史」は、日本の歴史に非常な影響を与え、明治維新を達成して行く原動力ともなったのでありました。


(5) 明治史学界の逆風

【大日本史の意義を抹殺】


 ところが明治になりますと、明治の史学界は「大日本史」に大変な逆風を吹き付けるわけであります。「大日本史」の意義を徹底的に抹殺してしまおう、という風潮が強くなって来ました。特に、御一新、御一新という掛け声に便乗して、何でも古いものを叩き潰す、あるいは西洋文明こそが尊いというような風潮があふれまして、「大日本史」などというものは、頑迷固陋の何物でもないと、非難はする、罵詈雑言好き放題・それが明治の史学界でありました。
 これから紹介致しますような錚々たる明治史学界の学者達が、「大日本史」に対しては徹底的に批判をするのであります。 例えば、重野安繹(しげのやすつぐ)博士 、この人は薩摩の出身です。明治二十二年に出来ました史學会の第一回の公開講演で、
    「史学ニ従フモノハ其心至公至平ナラサルヘカラス」
と述べまして、大日本史的な勧善懲悪主義、善を勧め悪を懲らすというような書き方は、歴史ではない、このように厳しい批判をしております。
 それから、明治二十四年に久米邦武博士 は、『史學雑誌』の第十九号に、「勧懲の旧習を洗ふて歴史を見よ」という題の論文を発表し、同じように「大日本史」を勧善懲悪の歴史書として非難をしております。
 次に、三上参次博士 は、雑誌『太陽』に載せた一文の中で、
    「......大日本史の編纂せられたる頃は所謂武家時代である。その頃は苟(いやしく)も尊王と云へば政権を皇室に恢復するといふ事が一大眼目点である。......世界強国の一となり列国対峙(たいじ)の世の中にある日本に在っては、鎖国時代のしかも武家政府を倒すのが、一大眼目であった時代の尊王とは、自から趣(おもむき)を異(こと)にせねばならぬ。」
と主張し、さらに、
    「......君国に忠愛なることは十二分に出来るのである。故に皇統正閏の事は御一新後の今日にあっては、まづ小学児童などにいはぬが得策だらう。......これも武家時代には必要であったらうが、最早今日では不必要のものであらうと考へて居った。明治三十六年以来この考であった。」
というのであります。
 要するに、「大日本史」というものは、武家時代の産物である。しかも皇統の正閏という問題にしても、尊王ということにしても、それは武家政権に対抗する上で必要なものであって、御一新になった今日ではそんなものは必要ない。だから「大日本史」の役目は終わったのだ。ということなのです。
 明治の史学界では、考証史学が主流を占め、史料に書かれていないものは認めない、史料に基づいて、確認出来なかったことは歴史としては書かない、というのが考証史学です。そこで水戸の「大日本史」は所謂大義名分論、何が正しいか、何が日本の道義であるか、という論理に基づいて書かれた歴史である、ということで排除したのです。
 それからもう一つ、重野博士にしても、久米博士、三上博士にしても、みな修史館という明治天皇の思召しによって出来た歴史編纂局の編修官でありました。一時栗田寛博士も行かれたことがあります。その修史館の学者達が、徹底的に勧善懲悪主義を否定し、「大日本史」をことあるごとに槍玉にあげて、論文を書き、講演会を開いて批判・非難をしたのでした。
 こういう情況をみますと、明治の御代といいますが、水戸にとっては、幕末以来の逆風がまだ吹き続けているわけでありまして、こういう逆風逆境の中で、栗田寛博士達は「大日本史」の完成を目指し、懸命の努力を続けられたのでありました。あの志類編纂を行なっていた頃、その裏には、こうした「大日本史」に対する徹底的な抹殺論が吹き荒れ、なぜ今頃、志類編纂をやっているのだ、というような事さえ言われたそうです。
 そうした中で、栗田寛博士達は心血を注いで、義公の悲願達成に努め、二百五十年後に「大日本史」を完成させたのでありまし。


   (6) 最大の理解者 ----- 明治天皇

 以上のように明治の史学界というものは、水戸にとっては大変な逆風であったわけですが、そういう情況の中で、最もよく水戸を理解され、最大の理解者であられたのは明治天皇でございました。昨年の講座の中でも申し上げましたが、一寸それを振り返ってみまして、終わりにしたいと思います。
 明治八年(1875)四月四日、明治天皇は小梅の水戸邸に行幸になりまして、後日、
    「花くはし櫻もあれと此のやとの世々のこゝろを我はとひけり」
という御製を賜りました。
この水戸の世々の心とは何か。それは、藤田東湖の「回天詩」の一節、
    「苟(いやしく)も大義を明らかにし人心を正さば、皇道奚(なん)ぞ興起せざるを 患(うれ)へん」
にすべて尽くされております。まさに義公の「梅里先生碑文」の中に書かれた言葉です。
 最も大切な道義というものを明らかにして、それを人々に示し、人々の心を正して行けば、この日本の道というものは、必ず奮い起こるのである、と藤田東湖は歌ったのであります。この「大義を明らかにし、人心を正す」ということこそが、義公以来の水戸の心でありましょう。
 やがて、明治三十三年(1900)十月、義公に対し正一位の御贈位があり、その勅語の中で、明治天皇は、
    「......名分ヲ明ニシテ、志ヲ筆削ニ託シ、正邪ヲ弁シテ意ヲ勧懲ニ致セリ。」
と、大日本史編纂の精神と水戸の心を明確に述べられ、さらに、
    「洵二是レ勤王ノ倡首ニシテ、実ニ復古ノ指南タリ、......」
 このように、明治天皇は高く義公を評価しておられるのであります。
 明治天皇が「大日本史」の精神に基づいて歴史の編纂をして欲しいと願って、その思召しによって作られたのが修史館なのでしょう。
 ところが、これに対し修史館の史学者たちは、それを真っ向から否定しているのです。三上博士は、「君国に忠愛なることは十二分に出来るのである。」と言っておりますけれども、果たしてそうでしょうか。明治天皇の御心が、全く理解されていないではありませんか。
 明治天皇は、義公をはじめとする水戸の業績、「大日本史」の意義及び価値というものを充分に理解しておられたのであります。明治天皇こそが、最大の理解者でありました。


     (7)  おわりに

 最後に、『善の研究』などで有名な、哲学者の西田幾多郎(にしだきたろう)博士の言葉をご紹介しましょう。西田博士の言葉は、これも平泉澄博士の「大日本史概説」(『大日本史の研究』所収)の中に収められておりますが、昭和三年の秋頃に、お二人がお会いになりました時に、西田博士が語られた言葉として、平泉博士が非常に感銘深く記憶しておられた言葉だそうです。
    「明治以来、我が国の歴史学は、西洋史学の影響を受けて、長足の進歩を遂げたとは、しばしば耳にする所であるが、自分の見る所を以てすれば、明治大正の間、歴史の名に価するほどの著述は、一つも無い。むしろ我々の考へてゐる歴史といふものから見て真に歴史と云ってよいものは、水戸の大日本史があるだけである。」
一所懸命に修史館の学者達は、「大日本史」を否定し、一方で日本最大の哲学者と言われた西田幾多郎博士は、歴史というものは「大日本史」だけだ。他はもう歴史に価しない。このように評価されているわけであります。
 もちろん、ある時期に歴史が書かれましても、その後の新しい史料の発見や史料解読の不備などが明らかになって、書き改められることが生ずるのも事実でありましょう。しかし、そうした先人の業績を基礎にして、さらに研究を深めて行くのが後世の歴史研究でありましょう。ですから、「大日本史」において、ある議論が間違っているからといって、あるいは史料の取り扱いが間違っているからといって、それがそのまま「大日本史」の欠点となり、価値の無いものとする評価にはつながらないはずです。
 あれだけのことを水戸の先人がやって置いてくれたからこそ、近代以降の日本における歴史学が、大きく発展することが出来たのでありますし、また、水戸の大日本史編纂事業があったからこそ、歴史学ばかりではなく国学の発達も見られ、その他の総合的な文化事業の発展が見られたわけであります。
 そのように考えますと、勧善懲悪主義がどうであるとか、あるいは大義名分論がどうであるとか、そういう言葉の中に当てはめるだけで、水戸の「大日本史を考えるならば、何の意味も無い議論になってしまうのではないかと思うのであります。
 現今の史学界の、水戸学、水戸史学に対する見方は、明治の修史館の学者達の見方と、果たして違っているでしょうか。百年経っても、逆風は同じように吹いているのではないでしょうか。
 平成五年度の水戸学講座の最後にあたりまして、まとめと言えるお話が出来たかどうか不安でありますが、一応これをもって終わりたいと思います。長時間にわたりまして熱心にご聴取頂きまして、誠にありがとうございました。


                 県立茨城東高等学校教諭