HOME >資料 >大日本史編纂と国学者

お問合せ

サイト内検索

大日本史編纂と国学者

          -- 特に塙保己一を中心として --

                  梶 山 孝 夫

只今ご紹介頂きました梶山でございます。
本日は早朝から御苦労さまでございます。早速本題に入らせて頂きたいと思いますけれども、その前に、つい先頃、文化勲章を受賞されました司馬遼太郎さんの一節を私目に致しましたので、それをご紹介するところから今日の講座を始めさせて頂きたいと思います。
 お手元の藁半紙刷りの小さな物ですが、それをまず御覧頂きたいと思います。この書物は或いは皆様御覧頂いた方もいらっしゃろうかと思いますけれども、ごく最近文庫本という形で出版されております。私はその文庫本で見たのでありますけれども、その中に水戸学に関する一節を司馬さんが書かれております。ここの所をちょっとだけプリントしましたので読んでみたいと思います。
     水戸黄門といわれた徳川光圀は、早くから日本史編纂の大事業を企てていたが、たまたま明の遺臣朱舜水が異民族王朝である清からのがれて亡命してきたのを手厚く保護した。
 こういう気分のなかで、光圀は学者をあつめて修史事業をつづけ、その没後も続けられた。事業は水戸徳川家の財政を圧迫しつつも二百数十年も継続したのである。その気長さにおいて、日本史にまれな偉観であるといっていい。まあここまではそれ程問題はないかと思いますが、その後でございます。
    その修史態度は史料あつめや、史籍の校訂、考証においてすぐれていたが、しかし記述にあたっては〃義理名分〃をあきらかにし、忠臣叛臣の区別を正すという徹底的な宋学価値観の上に立ったために、後世への価値はほとんどない。光圀も雄大なむだをやったものである。
この箇所が問題であろうと思います。その後に、
    ただ、この事業によって幕末、水戸が朱子学的尊皇攘夷思想の中心的な存在なったことはたしかである。
 こういうふうに認められてはおりますけれども、先程の箇所でありますが、「後世への価値はほとんどない。光圀も雄大なむだをやったものである。」ここの所には私は異議を申し立てなければならないと思います。と申しますのは、仮に「後世への価値」ということをどいうふうに捉えるかということ、勿論これは問題があろうかと思いますけれども、今私が仮にこれを歴史的な意義というふうなことに置き換えてみますと、司馬さんもその後に述べられているような事柄は、これは少なくとも、徳川幕藩体制を崩壊に導いたその大きな思想的な役割を果たしたのでありますから、当然ここには歴史的意義を認めなければならない、というふうに思います。それを、後世への価値はほとんどない、それはむだである、というふうに、この一言を以て捨て去ってしまう、ということは、私には認めることができません。しかもこの文章は実はその前に、「史籍の校訂、考証においてすぐれていた」ということを一応認められてはいるのですけれども。その後に、価値がほとんどない、といわれてはその前の文章も実はほとんど価値がないような、そういう印象を与えるのではないかと思います。もし仮に司馬さんのいうようなことであれば、私は、真木和泉守が幕末に於いて、「大日本史恐ろしく候」といわれておりますけれども、そういうことは一体どういうふうに解釈すればいいのか、甚だ疑問を抱かざるを得ません。ここで宋学的な価値観というのは儒学的なという意味合いかと思いますけれども、勿論水戸学の中に、そういう要素が中心にあることは当然のことであります。しかしながら、そういうものの他に、非常に日本の伝統と申しますか、今日は私は国学的な面を皆様に申し上げたいと思うのでありますけれども、日本の古い、古来の考え方、思想、これは国文学、歴史学、そういうものを総合的に見まして、日本の伝統的な価値観の上に水戸学というものが存在しているのだ、というふうなことを改めて認識せざるを得ないのであります。そうでありますから、そういうことを抜きにして、単に価値が無いんだ、というふうなことで捨て去るということは、果たしていかがなものであろうか、当然疑問を抱かざるを得ないのであります。そういうことを前提に致しまして、本日は若干の時間ではありますけれども、塙保己一という人物と水戸学、或いは大日本史の編纂との関わり、というものを中心に申し上げてみたいと思います。それでは、お手元の資料によりまして、順次考えていきたいと思います。
 先ず、大日本史と国学者、或いは大日本史の編纂と国学の関係、ということを考えます場合には、これは両面から考えることができるだろうと思います。その第一は、大日本史が国学者にどういうふうな影響を与えていたか、そういう観点が一つ。それから二つ目は、その国学者達が、実際に大日本史の編纂にどのように関わったのか。似ているようでありますけれども、そういう二つの側面があろうかと思います。 それで第一の観点からですけれども、これにつきましては、もう多くの諸先輩、或いは諸先生方が、研究されたところが数多くございます。そういうものによりまして、私も若干申し上げてみたいと思いますが、先ず第一番目に、ここに六人程ざっと挙げておきました。例えば谷川士清(コトスガ)という学者は、伊勢の人で国学者でありますが、大日本史を批判的に継承、その精神を継承した方であります。それから二番目は本居宣長、これはあまりにも有名な方でありますから、ここで申し上げる迄もないのですが、「玉勝間」「うひ山ふみ」こういう書物で、大日本史との関係と申しますか、大日本史についての印象を述べております。特に「うひ山ふみ」の方では、そう長いものではありませんので、若干ご紹介申し上げたいと思います。こういうふうに述べております。
    近世水戸の大日本史は神武天皇より後小松天皇の御亀山天皇の後禅を受けさせ給える御事で記されて、めでたき書なり。
大日本史は大変めでたい書である、というふうなことを述べております。それから伴信友「長等の山風」という書物、非常な歴史家であります。それから平田篤胤、この篤胤もいろいろな書物で水戸のことを述べております。特に篤胤は水戸藩に仕官をしたいという希望を持っておりましたので、水戸に寄せる憧憬の念が非常に強かった人物であります。その篤胤は「入学問答」という書物の中で、これも若干申し上げておきたいと思いますが、
    皇朝の学問を第一として、数多の学士を御招きなされ候て、あらゆる古書はもとより国々の神社仏閣及び民間までも御尋なされ、古文書の類をば、少しの物をも集めさせられ、それを明細に順考し給いき、神武天皇の大御代より後小松天皇の御代まで、御代は百代余り年数二千余年の事実を詳しく御選びなされ、大日本史と云う史二百四十巻を御作りなされ、
そういうふうなことを、この「入学問答」の中で述べております。伊能穎則、それから清宮秀堅、共に佐原の人であります。割合近い所の人ですけれども。この伊能穎則は「古学論」、それから秀堅の方は「古学小伝」という書物を幕末に書きまして、水戸の国学者、或いは国学的な側面と共に大日本史のことを述べております。この二人は特に、「本朝通鑑」の批判でありますが、神武天皇が呉の太白の子孫であるという、そういう説があります。これを論駁した書物として、大変この大日本史を高く評価されたのであります。そういうことでありますから、六名程の事例を今簡単にご紹介したに過ぎないのですけれども、大日本史が国学者達にどういうふうに捉えられていたのか、換言致しますと、大日本史が国学者に与えた影響ということで考えてみることができるだろうと思います。ついでながら、参考のところに谷川士清の本居宣長宛書簡、これを一節ですけれども掲げておきました。ちょっと読んでみたいと思います。安永三年と申しますから、江戸時代半ば若干過ぎたぐらいの時期だと思いますけれども。
    神路の記南朝を偽朝と称し候は此の書の疵と存じ奉り候大日本史正統を正し記され候観る可き事に候
こう言うことですね。従いまして大日本史の一つの評価として、いや、正しい評価として、士清は捉えていたのではないかということを、これで確認することが出来るだろうと思います。
 今の六名の国学者達は、直接に実は大日本史の編纂に関わり合いを持ったわけではございません。実際に大日本史の編纂、或いは校訂に直接関わりを持った第一人者が、今日の本題でございます、この塙保己一であります。塙保己一につきましては、これも、諸先生方のご研究によりまして、かなりの所が明らかにせられております。ここに、若干字が小さいのでありますけれども資料として掲げさせて頂きましたのは、もう亡くなられましたけれども、皇學館大學の教授であられました三木正太郎先生の論文から引用させて頂いたものであります。三木先生は「大日本史と国学者」という論文を始め、数編の水戸学と国学の関係に関する論文を発表せられております。私も大いに啓発、ご教示を得る所多いのでありますが、先生のご研究に基づきまして若干ご紹介したいと思います。
 従来、塙保己一という人は非常な優れた学者であり、盲目の学者として大変著名な方ですけれども、この塙保己一が水戸藩に関係を持った、則ち大日本史の校訂に当たったと考えられておりましたのは、天明五年という年だったのであります。丁度保己一四十歳。これは門人達の書かれました保己一の伝記等に出ておりますが、「天明五四〇」とございます。四〇というのは四〇歳という意味なんですけれども、その天明五年に、塙の門人中山信名という人物この人は常陸の国久慈郡石名坂村の出身で、後に幕臣であります中山氏を継いだのでありますけれども、それで江戸にでました。そして、保己一の門人になった人でありますが、その中山信名が、『温故堂塙先生伝』という大変有名な伝記を書かれております。それによりますと、ちょうどこの天明五年の事である、というふうなことが出て参ります。ちょっと読んでみたいと思います。
    まづ参考盛衰記を校正するに、ことつけて大人を文公にすゝむ。この故に同じき五年といふ年始めて文公を拝し、月俸五人の分を給りて往来の助けとす。盛衰記の校合の事はてゝまた、日本史の校合にあつかる。其の功労あるをもて、月俸をまして十人の分を給はる。
これによりますと、最初『源平盛衰記』の校訂をし、その力が認められてやがて大日本史の校訂にあずかったと。その際に最初は五人扶持だったのが十人扶持の俸給を貰うようになった、というふうなことが分かるのであります。ところが、これはどうもそうではないのではないか、ということを他の史料から詳細にあと付けられましたのが三木先生でありました。実は三木先生は、これよりもちょっと後であるということを論証されたのであります。それは寛政元年、天明五年より四年程後になります。則ち四四歳の時に水戸藩と関係を持ったんだということを、新たな史料によりまして考えられたのでございます。その史料とされましたのが、寛政元年の『江水往復書案』水戸と江戸との彰考館では連絡の為に多数の、おびただしい書簡のやりとりをしておりますが、この記録の中から発見せられまして、その事実が寛政元年の八月から九月の事であると言うことを実証されたのであります。そこの八月十八日立原総裁から国元の総裁に宛てて送った書簡の中にそういうことが見えるのであります。
    塙盲人へふち下され儀も近々相済申しふりに御座候
その後に盛衰記という文字が見えます。扶持を下した、という事が分かります。それからさらに、一月程後の九月二十八日付けの同じ書簡の中にも
    塙検校昨日御用にて召させられ候、史館勤め出精に付御合力五人扶持に候由御達しに御座候
こういう文章がございますので、明らかにこの寛政元年の時に水戸藩から扶持米を貰ったんだと。それはなんのためにもらったのかといいますと、先程の『源平盛衰記』の校訂だということが分かるのであります。従いましてそのあとに大日本史の校訂に携わったということが順序立てられてくるのであります。
 それから同じく寛政元年八月の先程の最初の書簡の続きでございますが、
    二三冊日本史をよみ聞かせ候処、事実之齟齬なる事多く心付申候、引用書へのこらず当たり見申さず候へば安心せざるの事共に御座候、盲人の強記には驚入申し候事に御座候
これによりまして、保己一は盲人ながら非常に記憶力の優れた人であるということが分かります。しかも彼は、読み、聞いただけで、その書物の良い悪い、事実の齟齬を判断したということがこれで分かるのであります。そしてさらに翌日付けの書簡になりますが、
    とかく日本史校正にも此人之無きては成申さず候間
とありますから、非常な評価が高まってきたことがこれで分かるのであります。保己一無くしては大日本史の校訂は出来ないのだ、ということをここではっきり述べられているわけです。そういうことでありますから、史館では保己一が大日本史の校訂に携わることを非常に頼もしく、また期待したようであります。その後ずっと彼は亡くなる迄水戸藩との関係を続けるのでありますけれども、それにつきましては、最後に時間がございましたら若干申し述べて見たいと思います。
 水戸藩との関係の前に、実際に保己一がどういう状況で、どの程度の博覧強記ぶりか、学識を持っておられたのか、ということを一つだけ例を挙げて申しあげてみたいと思います。それが次の「宇多帝本紀」に対する批判という箇所に表れているのであります。これも三木先生の論文から引用させて頂きましたけれども、三木先生は「水藩修史事略」文化三年六月六日の条、時に保己一は六一歳でありました。この文化三年の条を一つの例としてちょっとだけ申し上げてみたいと思います。先ず、少し読んでみたいと思います。
    一正延于水戸に還る、後広備長孺対校この日宇多帝本紀より始む、紀首旧本世継物語に拠って、光孝帝竜潜の時、諸子をして其志を言はしむ、宇多帝東宮に居り、以て大宝を嗣がんことを願うの事を載す、通読の間、塙保己一傍聴して曰く、世継に記す所、蓋し日本紀  崇神帝の語を模せり。恐らくは事実に非ざるなりと。因って之を下文に考ふるに、宇多の位を嗣ぐ、全く基経の意に出づ、必ずしも光孝の志に非ず。且つ宇多帝幼より必を釈門に帰し、帝も亦登極の志なし。蓋し基経その制し易きを利して、援立するのみ。世継の説、藤原氏の為に粉飾するなりと。保己一の説識見あり、こゝに於いて、この一条を削り、注文に載せ、参考して其非を弁ぜり。
こういう「水藩修史事略」の文章であります。
 この「水藩修史事略」は明治になりましてから、栗田勤が書かれた書物でありますが、実はこの箇所の文章は、先程出てまいりましたが、川口長孺という史館総裁が書きました『史館事記』という書物の中にでている文章であります。全く同じ文章です。従いまして「水藩修史事略」はこの『史館事記』という書物の中からとったのでありますが、勿論修史事略の中の引用書目の中に『史館事記』が掲げられておりますので、それからとったことは間違いはないのですけれども、この川口長孺の『史館事記』の中からとった文章であります。それで問題なのは、丁度今読みました資料に「世継に記す所、蓋し日本紀崇神帝の語を模せり。」とこういうことが出てまいります。
 それでこれは一体どう言うことなのかと申しますと、『日本書紀』の巻の五の崇神天皇の所にこういう話が出ております。
 崇神天皇には御子がお二人ありました。そのお二人、兄と弟のどちらかに皇位を継承させるということになるわけですけれども、その際にどちらにしたら良いか、ということを崇神天皇は考えられたわけですが、その際に、「各々夢見る可し」あなたがたはどのようにこれからのことを考えるか、それぞれを申し述べてみよ、ということでありますが、その時に兄と弟が次のようなことを概略答えたというのであります。
 兄は「専ら東の方を向いて武器を用いて天下を納める」そういう旨を申し上げた。それに対しまして弟は「四方に心を配って統治するのにはそういう武器などは持たずに別の方法で、粟を食む雀をやる」原文ではそういうことが書いてあるのですけれども、とにかく兄と弟の考えを聞いて、そして崇神天皇は弟の方が天子として相応しいのではないか、というふうなことを申し述べた。という記事が『日本書紀』の中に出てまいります。
 そういうことでありますから、保己一はそれを聞いておって、これは『日本書紀』の内容とそっくりであるからその文章は『日本書紀』から取ったので、どうも事実ではないのではないか、というふうな事を申し述べたというのであります。
それからここで最初の所に出てまいります『旧本世継物語』、ここに実際に書かれておるのかどうかというのはちょっとよくわかりませんけれども、とにかくそこの所の事を要約しますと大体次の二箇条になるだろうと思います。
 要するにこの記事は『旧本世継物語』によって記述されたのですけれども、その世継物語は『日本書紀』の崇神天皇条を模して藤原氏の為に粉飾したのではないか、というふうな事が一つ。
 それから二つ目として、光孝天皇が譲位せられて、そして宇多天皇が天子の位につかれたということは、光孝天皇の御意志でもなければ、また宇多天皇の御意志でも無く、それは単純に藤原基経の意志に基づくものである。いわば基経の野心に基づく。摂政関白の地位を得んが為の、そういうことに基づくのではないかということを指摘した箇所であります。
 そういうことでありますから、この一条をもってして、保己一の学識を伺うことが出来るだろうと思います。そういうことは他にも沢山あるようでありますが、今最も著名な事例の一端だけを申し上げたのであります。
 その他にも、実は塙保己一の役割に関しましては、いろいろな所で出てくるのでありますが、「禁裏奉献に関する検校の役割」ということを一部載せておきました。これも小宮山楓軒の『耆旧得聞』という書物の中に出てくるのでありますが、大きな役割を果たしたということをこれで伺うことが出来るだろうと思います。
    日本史ハ南朝ヲ正統ニ立シ故、朝廷ニ対シテ憚リアレハ上本ハ協ハサル事ノヨシ旧説アリシニ付、先生之ヲ聞カレタルトキノ事ニテ裏松三位殿ヘ校正ヲ託セラレ、其接伴ニ藤貞幹モ与レリ、〔その次からは割注になるのですけれども〕江戸ニテ塙検校ニ月俸ヲ賜ハリ、校勘ヲ命セラレシモ此時ナリ、
 この裏松三位という方は、学識の深かった方であり、有職故実家として、江戸中期には大変著名な方でありました。日野大納言家の出身の方でありました。そういう関係で、今日も大きな役割を果たしておったということがこれで分かるのであります。そしてその後先程も申しましたように、彼はずっと亡くなるまで水戸藩との関係を維持しました。
 最後の所には水戸武公治紀の三回忌の歌などを二首ばかり挙げておきましたけれども、こういう歌は沢山伝えられております。これにつきましてはまた後で時間がございましたら申し述べたいと思います。
 実際に塙保己一と大日本史との関わりという点につきましては、これは中々細かい議論になるのですけれども、最も重要な点は南北朝の問題に関する所の、南朝の長慶天皇論に関する所であります。そうでありますからここの所をしっかり歴史学的に見ていきませんと、塙保己一と水戸学との関係というのは本当の所はわからないのではないか、というふうな印象もございますので、そこの所を、若干議論が細かいのですけれども、少し私なりに整理をして申し上げてみたいと思います
。 そこで、『大日本史』と『花咲松』の長慶天皇論と題しておきました。『花咲松』と申しますのは、保己一が書いた唯一の史学的な、歴史学上の論文でございます。
 この文章、大体原稿用紙に致しまして七~八枚程度の文章でありますのでそう長いものではございません。しかしながら非常に重要な論点を、ここで保己一は主張しているのであります。『大日本史』が南朝を正統と立てられたことはもう皆様先刻御承知の事と思いますけれども、ただ実際のその細かい、なぜそうなのかというふうな点につきましては中々難しい問題がございます。
 今日はその南朝方の、吉野方の三代目の天子になられます長慶天皇についての議論ということになりますが、長慶天皇はもう相当歴史にご関心のあるお詳しい方でないとあまりご存知でないかなという気が致しますけれども、南朝の後醍醐天皇、その次が後村上天皇、そして長慶天皇。南山の第三代目の天子であらせられるわけですけれども、そして四代目が後亀山天皇。南朝四代と申します。そして後亀山天皇から北朝方の後小松天皇に譲位をせられるわけですが、そして南北朝は元中九年、明徳三年、西暦で申しますと一三九二年に統一がなされて、その辺まで『大日本史』は書かれているわけであります。
 それでこの長慶天皇は明治を経まして大正年間まで、実際、即位がはっきりと確認をせられなかったわけであります。これを、しっかり論文という形でもってまとめられましたのは八代国治博士でありまして、『長慶天皇御即位の研究』こういう本でありますが、これは大正四年頃だと思いますが、この本はもうちょっと後から出版されたものです。この八代博士のご研究によりまして、長慶天皇が皇位の中に確認せられたわけです。そこで、『大日本史』はいち早く長慶天皇のご即位を認め、南山の第三代目の天子として、早くからそれを史料的に裏付け作業をしておったわけです。そして今日私どもが見ることの出来る『大日本史』では本紀の第七一に長慶天皇というのがございます。これはもっと長い文章でありますから、今日のお話に関連します所を、二条ぶんだけ抜いてそこに掲げておきました。これが基本になりますので読んでみたいと思います。
 これは冒頭の所になりますが、
    長慶天皇、諱は寛成、〔この諱の読み方は私もあまりはっきり断言できないのでありますが、これは八代博士の本によりましても中々難しいのですが、色々読み方がございます。取敢えずヒロナリというふうに読ませて頂きたいと思います〕後村上帝の第一子なれども所出を知らず。正平二十三年三月、後村上帝崩ず。天皇、位を行宮即き(諸書に、受禅・即位を載せず。然れども、後村上帝崩じて、統を承けたるものは、天皇なり。故に、此に書す。其の余、例、書すべくして書せざるものは、南遷以後、載籍備わらずして、考証する所なければなり。)皇弟〔弟、後の後亀山天皇でありますが、ヨシナリとお読みするのか、ノリナリと読むのか色々と読み方がございます。ここではヨシナリと読んでおきたいと思います〕煕成親王を以て皇太弟となす(新葉和歌集・嘉喜門院集に、正平二十三年八月、東宮、門院と唱和の歌あり。新葉集の福恩寺関白、後亀山帝と唱和の歌にも、亦東宮の字あり。即ちその皇太弟たること知るべし。今、之に従ふ。)
これは長慶天皇論の冒頭の部分です。また次のような文章があります。
    秋八月二日辛未、天皇位を皇太弟に譲りて吉野に遜れ玉川宮に徙御す称して太上天皇と曰ふ。元中二年、願文を親書して高野山に祈ることあり明年、猶院宣を以て紀伊の将士に号令す。剃髪して、法名は覚理、長慶院法皇と号しその崩じたる処を知らず。
こういう『大日本史』の文章であります。これは実は色々問題があるのですけれども、先ずここで確認しておきたいことですが、長慶天皇のご即位と、それから長慶天皇の御譲位とを認めていることであります。これが後々の議論に大きな役割を果たします。
 もう一枚、半分程の年表、関係年表というのを作っておきましたので、これを併せて、比較をしながら御覧頂きたいと思います。非常に複雑な、細かい議論になりますので、その年表を絶えず御覧になりながらお聞き頂きたいと思います。先ずこの関係年表では、最初に下線を引いてあるところ、例えば一番上の延元四年後醍醐天皇崩御、と書いてございますが、そこに下線が引いてあります。五~六箇所書いてございますが、これは今日の歴史学上認められているところに下線を引いたのであります。それから『大日本史』の説と、そして少し塙保己一の説を、縦の所に若干記入をしてございます。それを御覧頂きながら、この年代等が出てまいりますので、その確認をしながらお聞き頂きたいと思います。
 それではもう一度『大日本史』の本紀の方に戻りまして、なにが問題かと申しますと、要するに一言で申しますと塙保己一は『花咲松』という論文の中で、三代目の天皇として長慶天皇は即位せられなかったんだ、ということを主張したのであります。従いまして『大日本史』はもう、塙保己一が校訂に携わる時には既に認め、南山の第三代の天子としてもう確定していたわけでありますから、これを一言で申せば異論を唱えた、そういう形になります。そこで、なぜそういうことになったのかということを若干申し上げてみたいと思います。まず、次に和歌を最初に二首掲げてございますが、『大日本史』の本紀の中の括弧の中ですが、割注の中に『新葉集』の中からの引用がございます。『新葉集』の福恩寺関白、後亀山帝と唱和の歌というのがあって、これを根拠にしましたよ、と言うことを『大日本史』では出典を記しているわけです。実際に歌そのものは掲げておりませんけれども、これに拠ったんだ、これが根拠なんだ、ということを明記しているわけです。それでその歌というのは実際にはなにかといいますと、それが次の二つの歌であります。この歌は、『花咲松』の方には引用してありますけれども、
    いとはやも分けてたおらははるの宮に木たかくにほへ宿の梅かえ
 それから返しの方は次の歌ということになります。この歌は『新葉集』の中では、『国歌大観』という書物の中の番号でよく言われることが多いのですけれども、それによりますと、三七番と、三八番の歌がこの二首になります。『新葉集』のこの歌は、福恩寺関白と後亀山天皇の唱和であると言われてきたわけであります。 ここでご注意頂きたいのは、後亀山帝との唱和ということ。本来は後亀山帝でなくて長慶天皇であります。ここの所はまた後で申し上げたいと思います。
 ともかくも今、この二首引用して、これを根拠にしているわけですけれども、このなかに「春の宮」即ち東宮ということが出てまいります。三七番の最初の歌、それから次の歌にも出てまいります。それでこの東宮は一体誰に相当するのか。という問題になるわけですけれども、この東宮を皇弟煕成親王と解した。これは『大日本史』です。
 それに対しまして、『花咲松』では寛成を煕成の弟と考えたのであります。年表の下の所に参考として、これが混乱致しますので、書いておきました。
 塙保己一は後村上天皇の皇子、即ち後亀山天皇と太上天皇とされた、その長慶天皇をそういうふうに考えたのであります。即ち後亀山天皇と太上天皇、それから幽谷が後に、これは『大日本史』でもいいのですけれども、考えられたのはその逆なのです。寛成・煕成、煕成・寛成、兄・弟、弟・兄というのを逆に考えたわけです。その辺が中々混乱する原因の一つなのですけれども。
 これはなぜそんなふうになったのかと申しますと、その根拠とした文章をどんなふうに扱ったか、考えたか、ということに尽きるのであります。即ちここで、特に史料として考えておりましたのは、『花営三代記』という書物であります。この中に譲位をしたのかしないのか、そういうことが議論になるのですけれども、そこの和歌を二首掲げて読みましたけれども、『花営三代記』の一節を掲げてございます。南方・・・というところですね。ここに譲位とありますが、「位を御舎弟宮に譲り奉る」というようなことがでてまいりますが、この記事を実は保己一は採用しなかったのであります。その理由は、そう中々はっきり申し述べられていないのですけれども、「街談巷説」の類として、そして「かれハ南朝の撰集〔かれと言いますのは『新葉和歌集』のことでありますが〕是ハ武家の雑録なり」是即ち『花営三代記』、この書物は武家の雑録であるから採らない、ということを保己一は申し述べているわけであります。従いまして『花営三代記』の中に、譲位したということが書かれているわけですけれども、保己一はこれを認めなかったのであります。この史料的価値を信用しなかった。疑った。そういうことになります。
 ところが、『大日本史』の方は最初見ましたように、文中二年「秋八月の二日、辛未、天皇、位を皇太帝に譲りて」こういうふうに記されておりますので、ここに譲位ということを認めているわけです。従いまして、ここに大きな歴史上の解釈の相違というのが表れてきます。塙保己一の方は譲位がなかったのだと、『大日本史』は譲位があるのだと、主張していたわけであります。
 塙保己一の『花咲松』の方は「正平廿三位につかせ給ひてより弘和元年新葉集を撰せられしころほひまて譲位のさたなきことあきらけし」と、真向から異論を唱えた形になります。これはまた他にも色々議論があるのでありますけれども、もう一度整理をして申し上げますと、年表の方を御覧頂きたいと思いますが、後醍醐天皇が崩御せられて、その後に皇子後村上天皇が即位をされます。これが延元四年。そして今問題の正平二三年と言うところでありますが、正平二三年に後村上天皇が崩御せられました。崩御せられたということは当然そこで長慶天皇が即位せられた。或いは長慶天皇ではなくて後亀山天皇になりますが、即位をせられた、ということであります。そこまではどちらもよろしいです。『大日本史』の方は正平二三年に後村上天皇が崩御せられた後、長慶天皇が即位される。というふうに考えたわけです。
 ところが、塙保己一の方は後村上天皇が崩御せられた後、勿論、天皇が即位せられたのですけれども、その即位されたのは長慶天皇ではなくて、後亀山天皇なのだ、後亀山天皇が正平二三年に即位せられて、ずっと後亀山天皇の時代である。というふうに考えたのであります。そこが大きな違いです。『大日本史』の方では、正平二三年に長慶天皇が即位せられたのです。しかし、今読みましたように、文中二年、秋の八月の所で譲位をせられたのです。その史料は『花営三代記』という書物によって、八月二日、辛未の年に皇太弟、即ち後亀山天皇でありますが、後亀山天皇に譲位をせられた。というふうに『大日本史』では考えたのであります。長慶天皇は、皇位を弟君に譲られましたので、そこで太上天皇になられたのだというふうに考えたのであります。文中二年のところに譲位があったのか無かったのか、これが次の分かれ目であります。もっともここが一番重要なのですけれども、そこに『大日本史』と塙保己一の唱えた説の大きな違いがございました。その後はそれ程問題では無いのですけれども、そこを考えるに当って、先程ちょっと申しましたが、塙保己一の方は、後村上天皇の後の皇子達が、後亀山天皇と長慶天皇にあたる天皇、兄が後亀山で、弟君が長慶天皇というふうに考えられた。『大日本史』は逆に考えた。
 その『大日本史』の方の説をそのまま踏襲して色々と反駁を加えたのが藤田幽谷であります。従いまして、藤田幽谷の説と『大日本史』の説は一緒であると、そういうふうに御覧頂ければ宜しいかと思います。
 それではまた先程の資料に戻りますが、塙保己一は国学者であります。かれは和歌に非常に造詣が深かったのでありますが、和歌を駆使致しましてそういう論をたてられるわけですが、その中で大いに史料として色々使われましたのが、『新葉和歌集』であります。『新葉和歌集』は宗良親王が編集せられたものでありますけれども、その序文の中に、「かみ元弘のはしめよりしも弘和の今にいたるまで世ハミつきとしハいそとせ」というふうに出てまいります。かみ元弘のはじめより、かみ元弘と申しますのは、元弘の始め、元弘元年と申しますのは、年表ではずっとその前になるのですが、西暦で申しますと、一三三一年、元弘の変があった年になります。
それから、「弘和の今」とありますので、弘和の今と申しますのは『新葉和歌集』が編集せられた年でありますが、年表の丁度真ん中辺になります。弘和元年一三八一年、元弘元年は一三三一年でありますから丁度、引きますと五十年になります。それが「かみ元弘」とありますから元弘の始めから、元弘は勿論三年迄ありますから、元弘三年ではなくて、元弘の最初の年であるというふうに解釈できます。そして弘和という年号の弘和元年、丁度五十年になります。従いまして『新葉和歌集』の序文のこの文章は合っているのであります。
 「ミつきいそとせ云々」とあります。丁度五十年ということは合っております。後醍醐天皇を除いて三代目だとすれば、当然この序文の中には「かみ元弘」とは書かれない筈です。従いまして後醍醐天皇、後村上天皇、長慶天皇が即位せられているとすれば、長慶天皇、そして後亀山天皇と、四代になる。これが三代と書いてあるのだから、当然後醍醐天皇、後村上天皇、そして長慶天皇を除きまして後亀山天皇の三代でなければ意味は通じない。こういう事を保己一は主張したのであります。
 それで今仮に後醍醐天皇を除いて、後村上天皇、長慶天皇、そして後亀山天皇と数えれば勿論三代になりますけれども、その場合には「かみ元弘」とは書かないだろう、これは確かに優れた指摘であります。もっともだと思います。「かみ元弘」と書かれておりますから後醍醐天皇を除外するということは到底考えられないのであります。そうしますと三代なのか、四代なのか、またおかしなことになってしまいます。そういうことを一応ここで確認しておけば良いと思います。先へ急ぎたいと思いますけれども、そういうわけで『大日本史』と『花咲松』の方では考え方が少し違っていたのだということがご理解頂けたろうと思います。
 そういう『花咲松』に対しまして、批判を加えましたのが、弱冠十五歳の藤田幽谷でありました。今十五歳と申しましたが、十五歳かどうか判らないのですけれども、恐らく一番早い時期の論考ではないか、というふうに私には思われるのです。『花咲松』が成立致しましたのは天明八年ですが、この年に藤田幽谷は十五歳でありました。従いまして丁度その『花咲松』が書かれて、当然彼も見ることが出来たはずでありますが、それ程遠くない時期に、数年の内にこの反駁をしたはずであります。
 その幽谷の論文。これもそう長いものではございませんが、今日幽谷全集の中に収められておりますが、『長慶院の考』というものと、『花咲松の弁』という二編、その主張点は同じでありますが、これが収められております。恐らく『長慶院の考』の方が先にできて『花咲松の弁』の方が後からできたのではないかと思われるのですが、はっきりとした時期は分かりません。それで十八歳の時にあの有名な『正名論』という一大論文を書かれるわけでありますから、その前であることは疑うことが出来ないと思います。そこで、幽谷が主張致しましたのは三つであります。細かい点はそこの私の書いた文章をお読み頂くということで、論点だけ申し上げてみたいと思います。
 第一点は三代という、この三代をどのように考えるかという問題であります。幽谷はこの三代を、後醍醐天皇、後村上、そして後亀山と、勿論考えているわけですけれども、この長慶天皇を除かれたのは、なにか色々理由があったのでは無いかということを申し述べております。それは文献が無かったからであるとか、史料的に中々そこまではっきり判断出来なかったのではないか、というふうなことであります。
 それから第二点は、寛成親王、即ち長慶天皇でありますが、一の御子としなかった、という点に関する議論であります。幽谷は寛成親王を一の御子、そして、煕成親王を二番目の御子と考えられたわけですが、保己一は逆であったことは先程申しました。それに対する反駁であります。
 第三点は、太上天皇と称する例があるか無いか、そういう疑問であります。
 そういうことでありまして、第一点と第二点といいますのは『花咲松』の史料とは違う観点から幽谷が反駁をしておりますので、それなりの説得力があるのではないかと思われます。特に『新葉和歌集』のこの三代というところの考え方は中々難しいわけでありますけれども、そこの所は特に議論の対象にしなかった。幽谷は別の観点から考えたのであります。そういうことでありますから、『新葉和歌集』の三代の議論というのはいわば水掛け論であります。この段階では水掛け論でありますので、別の史料に拠った、と言うところに幽谷の歴史学者としての見識を見ることが出来るだろうと思います。
 それから第三番目の論点でありますが、太上天皇という例でありますが、実はこれは今日確認されているのであります。従いまして、これだけをみますと、幽谷の反駁は必ずしも当たっているとは言いがたいのですけれども、この点はまた別に論じなければいけないだろうと思います。いずれにしましても、実際幽谷は『花咲松』の論点に対して、敢然と反駁を加え、『大日本史』を弁護したのであります。ところで、この若き幽谷が弁護したのでありますけれども、この後、水戸学派の中にはそれを追随する歴史家達がでております。その第一番目は大竹親従という人物であります。この人物は総裁も勤めました。これも短い論文でありますけれども、『長慶帝継統の議』と題する論文をしたためまして、幽谷の説を踏襲しております。はっきりこの中には『花咲松』の批判だということがでてまいりませんけれども、これは論点から申しまして、明らかに『花咲松』に対する批判であります。
 この大竹親従は「三代記は武家の雑録とハいへと〔これは武家の雑録だということが『花咲松』の中にはっきりと書かれておりますから、当然これを踏まえた論議であります〕是等の事ハ古の忌諱にも拘ハらす其のまゝにしるしたれは却て信すへきなり」要するに史料として『花営三代記』は信用していいのだ、いや、信用すべきなのだ、ということを説いているわけです。だから史館の諸先輩方は、それを採用したと私は思うのだというふうなことであります。従いまして、幽谷の説を弁護したという形になるわけです。
 しかしながらこの議論は、実はそう簡単に終結はしませんで、明治以後までずっと持ち越されたのであります。そして最終的に決着がつきましたのは、この八代国治博士の研究によりまして、終結するのであります。名前だけ掲げておきましたが、その後もまだ続くわけですけれども、例えば木村正辞博士は幽谷の長慶院の考、これを批判致します。そしてさらに、それを水戸出身の栗田寛博士はまたそれを再批判するのであります。栗田寛博士は勿論水戸の方であるというからではございませんが、歴史学的に『大日本史』はやはり正しいのだということを主張し、しかも、『花咲松』に対しまして、逐条批判ということをしております。ただこの段階でも必ずしもその新しい史料がそう出てきたわけではございませんので、まだ何となく並行線というような感じがあるわけです。その細かい議論はここでは省略致しますけれども、とにかくその論議というのは明治以降まで続いていたのだということを申し上げておきたいと思います。
 それでは一体水戸家では保己一のことをどのように認識していたのかということを考えてみたいと思います。それが幽谷の保己一観というところであります。先程から申し上げておりますように、保己一と幽谷はいわば学説的には対立をした状況であります。後に幽谷は『修史始末』という論文を書かれておりますけれども、その寛政元年の条に次のような漢文でもって記されております。そこを読んでおきたいと思います。
    冬瞽保己一を召し。(塙検校)大日本史を校す。保己一の人と為り強記。能く皇朝の古書を誦す。傍ら典故に通ず。人の紀伝を読むを聞く毎に。凡そ其の事実の乖謬。年月の錯誤。皆能く歴歴として之を言う。遂に建議して云。凡そ各条の注する所の出典は宜しく悉く原書に就く可し。以て其の異同出入を質す。衆初め之を難ず。然も黽勉之に従う。其の後頼りて以て訂正する所の者頗る多し。
しかし最初はこのように賛成しなかった。難じて批判していたけれども、実はその後それに従うようになった。即ち保己一の学識を非常に認めていたということであります。それに按文がついておりまして、幽谷(一正)の考え方が述べてある文章が次であります。
    一正按ずるに。史の得失。顧に体裁如何のみ。博考して精選。固より以て尊ぶことをなす。然れども瑣瑣たる異同。何ぞ悉く究むるに足らん。塙の議。髪を算めて櫛けずり。米を数えて炊之類耳。然れども数年の間遂に能く其の緒をおえる。後人臆を以て潤色。原書に悖る者。皆以て訂正を加ふるを得たり。則ち塙の功。亦没す可からず。
 保己一の功績というのもあるのだと。だからこれを蔑ろにしてはいけない、没してはいけない、というようなことを幽谷は述べておられるわけです。そういうことでありますから今申し上げてきましたように、保己一の説と『大日本史』の説は明らかに対立をしたのであります。
 最終的な決着は、明治、大正と、近年まで持ち越されるということになりますけれども、その保己一の学識というところはやはり認めなければならない。だから換言致しますと、水戸の彰考館では、学問に対する考え方というのは非常におおらかというとちょっと語弊があるかもしれませんが、寛大であったと思います。例え自分たちの学説に合わない学者であってもそれを採用し、その説を自由に申し述べさせる、そういう心の広さと申しますか、度量の広さということがあったであろうと思うわけであります。そういう学問の流れ、それを彰考館の中で見逃すことは出来ないのではないかと思います。最後に参りますが、八代国治博士は『長慶天皇御即位の研究』というこの書物の中で、
    藤田一正、大竹親従の反駁ありしも、論鋒鋭利ならず、否認論者をして肯定  せしむるを得ざりき
というふうにやや結論的に申し述べられているのでありますけれども、私は必ずしもその八代博士のこの研究は、勿論これはこれで非常に尊いものでありますけれども、全面的にそうかというと必ずしもそうではないのではないか。というふうに若干の異論を唱えることができるように思います。と申しますのは実はその下の補足の所でありますが、実はこれは既に栗田博士が述べられていることであります。そこのところでは栗田博士の『長慶院天皇継統考證』という著述がありましてこの御即位の肯定をされているのですけれども、この中に『花咲松』の逐条批判という箇所が、一条一条全部批判された箇所があるのでありますが、その中の最後の方に次のようなことが述べられているのです。
    「水戸彰考館学士其の評論を記し、保己一に遣したるに、彼もやゝ屈服して其の稿本をさへに改めしを世には知らずて在るなり」
実はその後の議論によって保己一はどうも訂正をされたらしい。そのことがこの一節から伺われるのであります。そうしますと、訂正をしたということになりますと、「否認論者をして肯定せしむるを得ざりき」というふうに八代博士は述べておられ、今までの議論が殆どその点に集中しておるわけであります。そうしますとどうもそうではないのではないか、という新たな疑問が出てまいります。そのことはまた最後に申し述べてみたいと思います。
 先ず補足のところだけでそれに補足をさせて頂きますと、実は、再び年表の方を御覧頂きたいと思いますが、弘和元年『新葉和歌集』は成立を致しました。そう致しますと、この『新葉和歌集』は一体どなたの天皇であったのか。ということが問題になるわけでありますが、実はこの点は『大日本史』も実は後亀山天皇の時だと認めているわけであります。これが又々問題を複雑にしているところなのです。塙保己一は勿論譲位というのはなかったのだから、当然後亀山天皇の時代であるわけですけれども、『大日本史』の方も実は後亀山天皇の時代なのです。それは先程来申し上げておりますように文中二年に長慶天皇は譲位せられているわけですから、当然後亀山天皇の御代になります。保己一の方はずっと後亀山天皇の御代ということになります。
 ところが今日の歴史学上は弘和三年に後亀山天皇が即位せられたということがはっきりしておりますので、従いまして『新葉和歌集』は長慶天皇の時の成立になります。従いまして、例えば、先程の後亀山天皇の唱和というところで、『大日本史』の後の所でちょっと先程申し上げようということで言っておいたことでありますが、『新葉和歌集』の歌を先程三七番と三八番ということでちょっと申し上げました。そこでこの詞書というのがあるのですが、その始めに「今上未だ都におわしましける時」などという詞書がございますが、その『大日本史』の方でも実は福恩寺関白と後亀山帝との唱和の歌であるというふうに述べております。実はこれはさっきも申しました通り、長慶天皇でなければおかしいわけです。
 実際に弘和元年は長慶天皇の御代ということになりますので、福恩寺関白と長慶天皇の唱和の歌でなければおかしいのです。従いましてこの藤田幽谷等も『新葉和歌集』には長慶天皇の歌は含まれていないのだ、というふうに考えて居りました。かつ、どうしてもそこに矛盾というものがあらわれてくるわけであります。これが長慶天皇の時の撰集であると考えれば、実は矛盾は全部氷解するのであります。これは私共は全部そういう史料を知って後からそんな議論をしておるからさほど難しくないような涼しい顔をしておるのですけれども、当時はそういう状況にはなかったことはもう、今まで申し上げてきたことでお分かり頂けるだろうと思います。今日の『新葉和歌集』の中には長慶天皇の歌が五二首収められております。ですから、この序文の中に見えてくる「三代」いそとせ五十といいますのは、後醍醐天皇、後村上天皇、長慶天皇というふうに考えればよろしいわけであります。従いまして後亀山天皇の御製は勿論入っていない。そういうわけで、歴史学上の史料の発掘等によりまして、これが段々裏付けられてきたのであります。
 それでは最後にこの『花咲松』はどういう価値があるのかということを若干申し上げて今日の話をおわりにさせて頂きたいと思います。
 この『花咲松』は実は天明八年、保己一は四三歳になりますが、その時に書かれた保己一の唯一の歴史的な論文であります。彼には沢山の功績がございますけれども、彼が自ら筆を執った歴史の論文というのはこれだけであります。しかもこれ程の論文が水戸家との関係で書かれたというところに非常に重要な役割があるわけですけれども、ある学者はこの『花咲松』の論文が「水戸の学風と塙の学風を結ぶ媒介である」というふうにいわれておりますけれども、まさにその通りであろうと、私にも思われます。
 今史料としてお渡ししてございます『花咲松』には所々に下線があったり、それから鉤括弧があったりしているわけでありますが、実はこれがまた重要なのであります。これをまた議論しますとかなりの時間がかかりますので、その要点だけ申しますと、ここに掲げておきましたのは東京の静嘉堂文庫というところにある写本を掲げたのでありますが、実はこの中には訂正した跡があるのであります。ただ残念ながら、この訂正が保己一自身の手によって書かれた物かどうかということは判りませんが、尤もこの写本自体は保己一の自筆ではないと思います。元々どういうものによったのか良く判らないのですけれども、ともかくこの訂正せられた跡があるわけであります。傍線の部分が後から削除した箇所であります。それから所々、二重の鉤括弧のところがございますが、これがあとから挿入した所であります。書き直した訳ではありません。一般的にこの『花咲松』という史料は諸書に出ておりますが、良く引用されますのは『改訂史籍集覧』という史料集がございます。これの一七巻というところに入っておるものが良く引用されるのですが、勿論その史料と、今私が皆様にお渡し致しました史料は当然違うわけであります。この削除の跡が無いのであります。この削除の跡があるということが実は先程ちょっと申しました、栗田寛博士のこの文章と、軌を一にするところがあるだろうと思うからなのですけれども、「彼もやゝ屈服して其の稿本をさへに改めしを世には知らずして在るなり」と栗田寛博士述べておられますので、もしそうだとすれば、もう少し水戸の役割ということを、保己一の史学的な学識は当然認め、また価値があるわけですけれども、水戸の方のそれに対する反駁ということも、もう少し評価してもよいのではないか、というふうに思います。
 実はさらに先程申しました大竹親従の「長慶帝継統の議」という論文の一番最後の所に、「あら方服し候様に」という、後から付け加えた文章があるわけです。塙家の方で、あら方服した、というふうなことが書かれておりますので、そういうことも参考に致しますと、どうも保己一自らも、そうだということかどうか判りませんけれども、やはり水戸の方の反駁によって、訂正せざるを得なかった、そういうことを考えてみることが、できるのであります。とは言いますものの、保己一の『大日本史』への関わりということを、それによって低く評価するとか、そういうことではないと思います。これはあくまでも歴史学上の問題ですから、元々が長慶天皇の御即位があったのか無かったのかということは『大日本史』と、保己一と考え方が違っていたことはもう、今までに見てきた通りで明らかになったわけでありますけれども、学説が違うということ、これはまた別のことであろうと思います。そのことによって、実は水戸家との関係が途中で消えてしまった、ということではなかったわけであります。そこにまた水戸家の方で、厚く保己一を信頼した、ということも改めて見ることが出来るでしょうし、また、保己一の方でも、多く水戸家の歌会等にも招かれたり、或いは文章を作ったり、そういうふうなことを生涯続けております。
 最後に立原翆軒が、どういうふうに評価していたか、ということをご紹介して、今日のお話を終わりにさせて頂きますが、翆軒はこういうことを言っております。これは先程、最初に申し上げました本居宣長とちょっと比較をした箇所でありますが、
    本居も歴史校訂の事は、盲史の如くは〔盲史と言いますのは保己一のことであります〕参らぬことにあるべく候
このように翆軒は保己一のことを高く評価していたのであります。
以上をもちまして本日の話を終わりにさせて頂きます。
どうも失礼致しました。

      (当時)茨城県立歴史館学芸部室長
      (現在)茨城県立太田第一高等学校教頭