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彰考館の史臣とその活動

                  仲 田 昭 一

 皆さんおはようございます。第三回目の講座になりますが、昨晩は、伊勢の皇太神宮の遷御の儀が挙行されまして、日本の歴史の本質を理解する方々の熱意と、それからその伝統を守っていこうという祈りが今日脈々と続いておりまして、その心を私共もうけておりますことで、大変嬉しく思っております。
 本日のテーマは、『大日本史』の編纂が、二百五十年に亘って続けられた、それは、義公の志を受け継いだ方々が、その大事業の達成のために心血を注いで守り続けて、それが完成に到った。同じような心で通ずるところがあるかと思います。
 彰考館に招かれた人々を中心として『大日本史』の編纂を見てまいるわけですが、彰考館という名前は、私は高校三年の時に、私共の会長であります名越先生の授業で出てきた時に初めて知りまして、授業が終わりました後先生の所へ参りまして、「彰考館というのは今でもあるのですか、あるとすればどこにあるのですか、」ということを質問したのが最初でございます。先生は丁寧に教えて下さいまして、桜山の神社、護国神社の前に今でもあるのだというようなおはなしを伺いました。その後、歴史を勉強するということから彰考館へ参る機会がございまして、その時の館長さんが、福田耕二郎さんでいらっしゃいました。初めて生の史料に接し、それをたどたどしく読んで行くことになったわけですが、福田さん非常に懇切丁寧に、水戸藩の歴史を勉強するのだけれどもということに対しまして、それじゃこのような史料があるからこれがいいのじゃないかと、ご一緒に、読んで下さったりしまして、非常に感謝を致した思い出が現在蘇ってくるわけですが、この彰考館は決して以前のことではなくて今日も続いておりまして、私どもが、多大なご恩を受けているところでございます。
 史料も沢山残っているわけですが、それが、この大日本史編纂過程のなかで集められた史料が全て残っているというわけではなくて、その過程に置きまして、江戸の彰考館が火災に会いましたりしまして随分失われたものも多くございます。それから福田さんが実際にどのように苦心して、史料を今日まで残されておったのかということも、先般出されました『水戸の彰考館とその学問と成果』という、福田耕二郎さんの遺稿になってしまいましたが、その中での福田さんの書かれたものから、実体を初めて知りまして、改めて史料の保存、そしてその心を伝えていくというのは容易なことではないのだということを知ったわけです。
 それは、大東亜戦争の戦況が段々厳しくなった中で、彰考館も、その当時はこの義烈館の建てられている所にあったようですが、史料も大変だろうから、危ないからということで、移転をしておこうかと、そういうことをご提案されたらしいのですが、徳川様は、東京も大丈夫なのでそれまでは必要ないのじゃないかとおっしゃられたようですが、少しずつ瑞竜、またはこの緑岡の徳川家に運んでゆかれたということでした。ところが八月一日から二日にかけて、ご承知のように水戸の空襲がございましたが、その時の状況を、このように福田さん記されております。
    尚この空襲の際徳川家の御廟、宝庫は無事であった。爆音が静まり空襲が終わったらしいので、私は鈴木氏らに後を頼み急ぎ彰考館文庫へ走った。緑岡邸の坂を下りると眼前に好文亭が燃えており、水戸市一体が火の海のようであった。偕楽園へ駆け上がると既に遅く、好文亭や園内の三軒の茶屋や、常磐神社の本殿、拝殿、東湖神社、社務所、それに続く彰考館の事務所、閲覧室など木造家屋は既に棟が落ちて尚燃え続けていた。文庫は煉瓦作りであったが、中に火が入って燃えていた。屋根は抜かれ、鉄の扉はめくれて火を吹いていた。柵の間の所々に水を容器に入れておいたが、何の役にも立たなかった。それを目撃した私はなんとも言いようのない気持で、灰と煙に巻かれて燃えている書物をどうにも諦めきれない無念さで一杯であった。今更水をかけてもどうということはなかったが、なんばいか水をかけた。末期の水であった。
 このような戦災で彰考館の大事な史料が、かなり焼けてしまった、という状況を思い起こしますと、本当にこれを守り伝えて行くことは、並々ならぬ決意と努力が必要だということを感じます。
 それでは、義公の志を体しまして、この大日本史の編纂事業に当時の史臣たちが、どの様にかかわり合いをもって活躍をされていったのかということに触れて参りたいとおもいます。
 元文二年(1737)に安積澹泊が検閲を校了いたしまして、元文検閲本が完成いたしました。その時までが前期といたしまして、天明以後を後期と大きく分けております。概略を申し上げますと明暦三年の江戸の駒込の別邸に史局を開局してから、所謂「旧選紀伝」といいますか、最初の段階の紀伝が完成いたします延宝八年(1680)これまでを一つの区切りといたしまして、修史事業が、本格化していく。その時期には、寛文十二年(1672)に小石川邸に彰考館が開設された、こういう時期が先ず第一段階。
 それから段々編纂事業も、「旧選紀伝」を改訂するということから、大日本史編纂の方針が、はっきりと確立されて三大特筆が明らかにされた元禄十年(1697)頃、これまでを一つの区切り。
 それから元禄十三年に義公が亡くなられますが、その亡くなられたあと大日本史の編纂をどのように続けていくか、それから続編、題号問題、このようなことが始終論議をされ、そして正徳本といわれる大日本史の題号が決定されまして、正徳本が出来上がった時期が一つの区切り。
 それから次が、その正徳本を基本にしながら、校正や補正、清書が続けられていきました結果元文検閲本が完成した時期、それが前期です。
 それから後期になりますと、立原翠軒総裁の下で事業が停滞していたものが再び復活する、そういう時期でありますが、「史官動揺」と称されます立原翠軒の立原派、さらに藤田幽谷の藤田派と、政治上の対立までにやがて参るという、その発端になった享和三年頃までの時期。
 さらには題号問題が決着して、紀伝が完成され、印刷され、そして朝廷や幕府に献上されていくなかで、烈公が藩主になられまして、そして会沢正志斎総裁を中心としての紀伝が完成していく、板刻されていく時期、嘉永五年までの時期のところ。
 それから次が紀伝に続いて志と表の編纂の推進が行われる安政期から明治維新にかけて。その後明治になりましてから、事業は水戸藩を離れまして水戸徳川家の独自の事業として最後の仕上げに入るわけですが、志や表が完成したのが、明治三十九年。こうして朝廷に奉呈される、そのような時期に分けてみました。その過程の中で史臣たちはどのような関わりをもっておったのかということに入ってみようとおもいます。
 京都から招かれました史臣の一人に田中犀がいました。「開彰考館記」から彰考館の開設された寛文十二年の状況をそこに掲げてみました。『大日本史』の編纂につきましては、綱條公が書かれました「大日本史序」と、その序文に、実際には大井松隣が代作されたものですが、「伯夷の高義に感嘆し、史書により後世の人を感嘆せしめん」という一文がございます。それから義公自身の「梅里先生の碑文」の中には、「早くより史を編むに志あり皇統を正閏し人臣を是非し輯めて一家の言を成す」と、このような志がそれぞれに示されてありますが、史館の田中犀はどのような表現をしておるかといいますと、「夫れ史は治乱を記し善悪を陳べ用いて勧懲の典に備える所以のものなり」治乱興亡、善悪を陳べて勧善懲悪、これをはっきりと示し人間の有るべき規範とするものであると、このようにとらえて、大陸の班馬以来の作者とありますが、後漢の「漢書」を作りました班固とか、「史記」を編纂しました司馬遷の例に習って歴史を編纂していこうと、こう義公の決意を述べられておるわけです。「是歳彌欲遂其志成其功移史館於本邸自擇館名曰彰考且自筆之掲載爲扁額」「是の歳いよいよ其志を遂げ其の功を成さんと欲して史館を本邸に移し、自ら館名を擇びて彰考と曰ひ且つ自ら之に筆して掲げ扁額と爲す」と。則ち明暦三年(1657)に史局を開設して、そしてこの寛文十二年(1672)に彰考館を新たに建てるわけですが、「是の歳いよいよ其の志を遂ぐ」と、この彰考館を建設されたことが、今まで幕府の林家の人達の考え方も採り入れていたものを、はっきりと林家史学から、独立しまして、水戸史学の旗を翻したと、そういう時期になるかと思います。これは、今までの史館と違いまして、はっきりと義公の「皇統を正閏し、人臣を是非する」という方向のスタートといって宜しいかと思います。この時に彰考館員は、どのような姿勢で、編纂に臨まなければならないかと言うことが、「史館警」という五箇条で示されております。それを見てまいりますと、
    一 館に会する者は、辰(たつ)の半を以て入り、未(ひつじ)の刻(こく)退くべし。
辰の半というのは、午前九時、未の刻が午後二時。ですから、勤務時間でいいますと、きちんと規定された中では割合緩やかであったかと思います。この他、編纂事業を推進してゆくのには、あまり窮々した状況で当たることは、望ましくないということから義公は割合史館員を優遇しておるのです。それは、この勤務時間ばかりではなくて、出勤した日には、一日一汁三菜の夕飯が出るのです。しかもお酒もでるのです。その間茶菓子は充分に出る。非常に心を配っておられます。それから夏の間、四月から七月末の間は、編纂が終わりますと、湯に入ることを許され、そして退出するという、このようなこと。
 さらには藩主や、お世継ぎの方々が彰考館に来られた時には、二汁五菜に酒付の接待がなされた。さらには、月に二回は、特別な御食事会といいますか、そういうこともなされまして、緊張した中にも、憩いの場といいますか、雰囲気を和らいで頂くような、そういう配慮がなされて編纂事業が続けられていったと、こういう状況のようです。
「史館警」の二番目としましては、
    一  書策「しょさく」は謹んで汚壊(おかい)紛失(ふんしつ)すべからず。
書物や史料の扱いは非常に丁寧にしなければならない、ましてや、紛失等してはならない、と言うことです。それから、
    一  囂談争論(ごうだんそうろん)、宜(よろ)しく最もこれを戒(いまし)むべし。
喧々諤々、声高に騒々しく話をし、議論をするようなことがあってはならない。静かに、沈着に、史料にあたらなければならない。
 それから四番目としましては、
    一 文を論じ事を考ふるに、各(おのおの)まさに力(ちから)を竭(つく)すべし。もし他の駁(ばく)する所有らば、即ち虚心(きょしん)これを議し、独見(どくけん)を執(と)ること勿(なか)れ。
この編纂事業には、まさに事実を考察するにあたって、一所懸命に力を尽くしてやってもらいたいと。それからもし自分の意見に他人が反論するような場合には、先ずそれを謙虚に虚心坦懐に聞いて、独善、独見、これを執ることがあってはならない、こういうことです。修史というのはいかに重大なことであるかを認識させたものであろうかと思います。
それから五番目は
    一 席に在りては、怠惰(たいだ)放肆(ほうし)すること勿(なか)れ。
これは勿論のことであります。我が侭や、怠け心をおこしてはならないと、こういうことが掲げられたわけです。これは江戸の彰考館でありますが、義公が隠居されてから、江戸と水戸との連絡を密にするということから元禄十一年(1698)に水戸に彰考館が移転するという、これは江戸にもあるわけですが、水戸にも移転するというような命令がでました。その時やはり、同じような約束ごとが、水戸の史官達のなかにでてくるのです。それは水戸の彰考館は二の丸、現在の水戸二中の所に移されたわけですが。いわば城内になります。その城内にありますので移りました安積澹泊総裁以下の面々は、このような約束ごとを設けております。水戸史館は江戸と違って城の中にあるから、酒がでても酔態を一般の人達に見せるようでは困ると、酒がでているということには変わらないようです。
それから勤務時間は同じようです。朝五つ半、九時頃から、八つ頃、午後二時頃と、このようなことであります。それから城の中のことだから声だかで話あうことは謹もうではないかと。
それから出勤したならば、他の者のことなどかまわずに、早速勤務にとりかかるようにしようと。本は用い終われば文庫に納める事になっているが、互いに丁寧に納めることにしよう。いづれも「史館警」五ヵ条と同じような内容でございます。
 それでは、そのような史官達はどのようにして、義公によって招かれたのであろうか。これは、自ら彰考館に入りたいと思いましても、誰もが採用されるわけではありません。義公の厳しいチェックがあるわけです。崎門学者の誘致とその背景というところヘ参りますと。寛文十二年までに入館した史官達は、人見壱(人見卜幽)京都の人。それから吉弘元常が周防、板垣宗憺が武蔵、中村顧言が京都、岡部以直が讃岐、松田如閑が京都、小宅生順が水戸、辻好庵が京都、田中犀は京都の人ですが、このような人達が、全国から招かれているわけです。このうち吉弘、松田、板垣の三人を除いて、殆ど林家の門流であった。これが、寛文十二年のことです。それ以後になりますと、先程御話致しましたように、所謂林家の学者達とはまた別な方面からの史官員の登用が行われるわけです。その主な初期の人を挙げますと、丸山可澄、水戸の出身です。有名な佐々宗淳、これは京都の妙心寺のお坊さんでありました。石井三朶花は安房、鵜飼錬斎、鵜飼称斎兄弟が京都からです。神代鶴洞は江戸からでありますが、いづれも林家とは離れました、特に佐々宗淳もそうでありますが、鵜飼錬斎兄弟などは、山崎闇斎の門人でありまして、大義名分を最も厳しく扱う学問の教えを受けた方々であります。そのなかで鵜飼錬斎の登用された事情をみてまいりますと、佐々宗淳が、つぎのように鵜飼錬斎に書簡を送っております。おそらく鵜飼錬斎は、佐々宗淳の勧めもありまして、義公に招かれたと思われます。このような文です。
    貴様御事(これは佐々宗淳が鵜飼錬斎に対してです)此元ニて沙汰仕候、第一よく身上かたつき不申事、貴様御仕合と存候、(また仕官が叶っていないということは幸いなことでありました、ということ。)金平(鵜飼金平といいます)事ハ、身上不済ゆへ学文をつとめ 被申候間、あかり可申と沙汰仕候、(義公に、鵜飼錬斎は非常に学問に努めておりますので、大分力もつき、全国的に知られるようになるでしょう、そう紹介をしておきました)随分御為よき様に申なし置候、(というような紹介、推薦をしておきました、ということになります)学問の事ハ不及申候(学問は勿論のことであるが、普段の)功績第一ニ奉存候事(人間としての、普段の行いというものが大事であると)時節を御待さのミ御いそき被成間敷候、(時期を待って、そう慌てて仕官を考えることは有るまいと、このように忠告をしております)
それからちょっとおきまして最後のころですが、
    やはり髪をはやし可被成候(学者は当時髪を剃っておったようでありますが、髪をのばして、きちんと侍としての、自覚を持つ必要があると、それは、当時の大名も、儒者が剃髪ではならないということは、だんだん自覚をしてきたようだと、それでありますから、儒者でありながら侍としての自覚を持っておるようにと、このことを忠告しております)
束髪、侍としての形を整えるということは、儒者は人倫を明らかにして、道徳を確立していくものであると、これは正に武士と通づるものであると。しかも、学者はその修史事業を通して、義公が立てられました、修史の志を完成させていくものである、武士もいわば藩政を担って、義公の目指す善政というものに、一歩でも近づけていくように努力するものである。これは、学者と武士としての、藩士のなすべき事と全く同じことである。であるから学者は剃髪をして、全く武士とは違うのであるというような、そういう心掛けであってはならない。正に、文武横溢した姿勢でなければならない。これが、当時の義公の儒者にたいする、学者に対する考え方であったわけです。しかも、この史官員は、後世『大日本史』を完成されました栗田寛博士のお子さん、御養子になります栗田勤氏は、『水藩修史事略』のなかで、栗田寛博士からこのように聞いているということで記しておりますが、
    勤、これを先史に聞けり。義公の学士を聘する、啻に編修の用の供するのみならず、公家の大事、政事の得失等、苟も言はんと欲する所は、その格式役儀に拘らず、直ちに封事を以て君公に論陳せしめ、君公も亦密書を以て諮問することあり。これ公の深意にして、歴世この遺範を継げりと。
学者というのは、単なる学問をしているばかりではなくて、藩政にもしっかり意見を述べて、責任を持っていくものである、と。このように聞いておる、ということからしても、義公の学者に対する考え方が、ずっと一貫して伝わっていったと思われます。その学者達、全国各地から俊秀が招聘されたわけですが、多くは歴史の学者であります。そのなかで漢学を補う意味では朱舜水を招いたこと、さらには国学では、このつぎに梶山先生から御話頂きます、塙保己一や、契冲の協力を得たこと、これらをもって、非常に度量ある姿勢で学者を集めて史実の追究に努めていかれたわけです。彰考館員の人数、これは「史林年表」から採りましたものですが、『水戸市史』で作成されたものを参考にさせて頂きました。水戸藩の学者というのは、義公の初めは、三、四人だったんです。これが、史局が開設されてから、段々と増えてまいりまして、彰考館開設の寛文十二年(1672)には、二十四人になっております・二十人代から三十人代と、増えてまいりまして、貞享元年(1684)三十七人とありますが、この年は新たに、天神坂上に彰考館を新築した歳、義公五十七歳の時であります。それから貞享三年は『礼儀類典』を編纂するために、彰考館の所謂別館、彰考別館が、設立された年です。三十九人になっております。元禄九年(1696)という年には、これは五十三人になっております。この年は大日本史編纂の方針が、最終的といいますか、確立されました「重修紀伝義例」というものが作成された年になります。それからこの頃は五十人代、四十人代と、ずっと彰考館員は増えております。一番多い時期がこの「史林年表」で見ますと、天保元年(1803)です。天保元年烈公の天保の改革が始まりました年、史官員の大部分が水戸に移った年であります。この年が六十一人で、この二百五十年を通じて「史林年表」によりますと、最高の人数かと思います。この他に色々な用事を足す方々も含まれるわけであります。幕末期の頃『大日本史』が完成に向かっていく段階では、文久元年(1861)九人となっています。それから維新の時には、これに近い人数になっておりますので、最後の完成の時期の館員の方々は非常な御苦労であったかと思います。それでは義公の時期に戻るわけですが、先程触れました貞享元年(1684)の五月七日に藩邸の天神坂上に彰考館の新館が造営されました。この時に義公を初めとして彰考館員の面々はどのような心をもっておったのか。これが、義公と佐々宗淳それから鵜飼錬斎の詩文に、顕れていると思います。そこでちょっと見てみたいと思います。この落成の詩歌の宴で、義公は
    乾隅館を構へ堅牢を祝す 考古彰今貶褒を厳にす
    集会の史臣文字の飲(いん)  酌(く)み来って既(すで)に酔(よ)ふ薫(くん)弧の糟(そう)
「乾隅」(けんぐう)これは北西です。藩邸の北西に館を完成させました。非常に立派なものができました。「考古彰今」というのは、彰考館の彰往考来と同じように古を考え、今を明らかにするという、同じような言葉であります。「貶ぼうを厳にす」、善悪を厳しく記して参るという。「集会の史臣文字の飲」彰考館に集った史臣達が、史料に当たる、その雰囲気をいっているわけです。そして、「酌み来って既に酔ふ薫孤の槽」というのは、この大日本史編纂の雰囲気にその真剣さに酔っているという、そういう意味かと思いますが。それに答えまして佐々宗淳も、
    維(これ)斯(こ)の新館高岡(こうこう)を卜(ぼく)し  隠(いん)を索(もと)め微(び)を剖(わか)ち百王を記す
    盛挙(せいきょ)唯(ただ)治乱を彰(あら)はすに非ず  煥乎(かんこ)として文彩(ぶんさい) 扶桑(ふそう)を照らさん
新館の完成したお祝い、しかもこの大日本史編纂事業は、隱を索め微を剖ち、史料を全国各地に求めて、そして厳しくそれを校訂していく。そして後小松天皇までの、百王を記す。その、史書はただ治乱興亡を明らかにするだけではなくて、この皇統を正閏し、人臣を是非するというその精神が、日本の将来を差し照らしているのだと、こういう意義あるものなのだと、ここに、佐々宗淳の志が伺えると思います。さらには鵜飼錬斎は、
    華館(かかん)鼎新(ていしん)す修史の編  幽微(ゆうび)を開(ひら)いて二千年を顕(あら)はす
    公に至り参酌(さんしゃく)す百家の記  姦賊(かんぞく)逃(のが)れ難(がた)し直筆(ちょくひつ)の権(けん)
立派な彰考館ができまして、そしてさらに修史の事業が、前進するでありましょう。このことが、二千年の日本の歴史の本質を明らかにすることであります。しかも、この事業は、義公の時に到りまして、多くの史料を探索して、事によって直書する、そういう姿勢であるのだと。このことによって、「姦賊逃れ難し直筆の権」所謂人臣を是非すると、その事を言っているわけであります。このような喜びが、藩主義公と、史臣宗淳や鵜飼錬斎を始めとした面々のなかに溢れて、より一層大事業が推進されてゆく。このような雰囲気がここのところから伺えると思います。
 それから『大日本史』の編纂の中では、『大日本史』の編纂ばかりではなくて、それに附属する史料の編纂が沢山行われます。次に出てくるのが『礼儀類典』の編纂でありますが、その他『扶桑拾葉集』とか、『花押藪』とか、更には『救民妙薬集』とか、それから『常陸国誌』とか、沢山数多くの編纂事業が行われまして、今日にも非常に大きな恩恵を与えているわけであります。この彰考別館を建てられましたのは、『礼儀類典』を編纂するためのものですが、その総裁になりましたのが、安藤抱琴(安藤為実)という方です。その弟であります安藤為章、これが安藤年山といわれる方ですが、その安藤年山が、「彰考別館の記」というものを記されておりますが、その中に彰考別館はどのようにして造られていったのかということがでております。この内容、全部はちょっと時間かかりますので、途中からまいりたいと思います。
 「彰考別館となづけて水戸城内にかまへられたり。総裁には前右兵衛尉、藤原為実をまねかせ玉ひて貞享丙寅の秋より編纂をはじめらる。」貞享丙寅というのが貞享三年、(1686)になります。「(割注)書目あれども略してのせず。」とありますが、この書目は、実に、二三一部が掲げられているのです。非常に膨大な量の書物が参考にされております。この彰考別館に集う史官のともがら、どのような人達が別館に集ったかといいますと「総裁一人、考勘十五人、書写二十八人、校合十人、出納四人、検察三人隔日に辰の半漏にまゐりて」これは午前八時頃になりますね、少し早いですね。「未の半刻にしりぞく。」未の半刻が午後二時頃になりますか。このようにして『礼儀類典』の編纂が行われて、五一〇巻としてまとめられてゆくわけです。この大事業のことに関しまして、「た々旧記のま々にまかせて公事一会を首尾とゝのひて採摘し、部類たがふことなく編集せられたれば、みな感賞してのたまはく、あはれ朝廷さかりなる世なりせば、勅撰の書ならましを、大変な事業であったということを称えているわけです。しかもその関係しました為章の方は「為章むかし都のうちにそだち侍りたれど、かうやうにあまたの旧記を見聞ことは侍らざりしを、今は日ごとにふるき代々の事どもまのあたりのやうに熟覧し侍る。幸のいたりも身におはずぞおぼえ侍る。」京都にあっても是ほどの書冊を見たことがないと、非常に恵まれた境遇であったと、その喜びと感謝を記しているわけです。
 この安藤兄弟は、その後京都におりましたお父さんを水戸へ招くわけです。これが元禄十年(1697)の三月に京都から江戸へ出まして、四月には水戸へ入ります。そして水戸を所々見聞に歩くわけですが、それらは、『ひたち帯』としてまとめるのが、お父さんの安藤卜翁といわれた方です。その卜翁はこの水戸の環境を見まして、子供の兄弟二人に向かいまして、「汝ら幸いに優れた殿様にお仕えして、何と恵まれたことなのかと。志を励み、行いを磨き、忠勤怠ってはならないぞ」、とこういうことを子供にむかって諭して、一所懸命この編纂事業に尽くすよう励ましたものなのです。
 その安藤抱琴が、義公とこの礼儀類典編纂事業で、どのような、心の交流があったのかということを見たいとおもいます。義公の書翰と抱琴というところに、義公の書翰と、為実抱琴の書翰がでておりますので、そこから、この二人の関係を伺ってみたいと思います。

   新編記録草稿、此度菊亭内府土御門殿
   御執奏を以て
  天覧に備へられ候処、
  叡感の旨、内府殿より委細仰せ下され、
   誠に以て下官一生の大幸、感載の
   至りに堪えず候、偏に足下の勤労に
   非ずんば、何を以て此の如き栄を
   忝ふすることを得んや、多謝々々
  希ふ所は、猶ほ猶を励勉し、速に成功を遂んこと也。  謹言
  正月八日                    梅里宰相
  稲津左兵衛尉殿                   (花押)

稲津左兵衛尉殿というのが安藤抱琴になるわけです。これは『義公全集』の下に出ておるところでありますが、義公は、『礼儀類典』の完成するに先立ちまして、貞享四年(1687)の十二月に記録の草稿十五巻や、藩礼書目一巻、これを京都へ送ります。そして批判や添削をお願いしたのです。その結果をもって今後の編纂上の規範を得ようとされたわけなのです。そのことをいっているわけでありますが、新編記録草稿、此度菊亭内府というのは今手川公規という方になります。それから土御門というのは土御門やすとみといいますか、泰富と書きますが、この二人を通して陛下に御覧頂いたということであります。その御報告を受けてのことでありますが、「誠に以て下官一生の大幸、感戴の至りに堪えず候」、ここに義公の喜びが顕れております。しかも、「偏に足下、安藤抱琴の勤労に非ずんば、何を以て此の如き栄を恭ふることを得んや」、義公の喜びが、さらにその抱琴に対する信頼感謝、このところが十二分に出ておるかと思います。そして、「希ふ所は猶ゆうを励勉し、速に成功を遂んこと也。」今後の、安藤抱琴の活躍に期待し、激励をしているわけです。この御手紙を受けて、安藤為実は直接義公に対してではなくて、義公に近侍しておりました佐々宗淳にその気持ちを伝えるわけです。

  殿様より
  御書を下させられ、
  沐浴盥嗽し、
  几を払ひ香を焚き、
  謹みて以て拝披仕り候。
  抑も御編輯の類聚数巻、
  天覧に備へられ候処、
  叡思を称へさせられ候由、恐れながら
  御書は●(糸へんに是の字)巾十襲してこれを櫃に蔵し候て
  栄幸を子孫に伝ふべく存じ奉り候。
  まことに以て有り難き仕合せ、
  言語に絶し奉り候。
  御請の儀、
  御自分何分とも然るべきの様
  御取り成し頼入り存じ候。     為実(抱琴)
    貞享五
     辰正月十三日   稲津左兵衛為実(花押)
  佐々介三郎殿

これが貞享五年(1688)の辰正月十三日になります。貞享四年に義公がその草稿を京都に送られたわけですが、その結果を受けての、安藤抱琴への感謝の手紙が正月の八日です、それに対して十三日に安藤抱琴のお礼の手紙が認められているわけです。「殿様より御書を下させられ、沐浴盥嗽し、几を払ひ香を焚き、謹みて以て拝披仕り候。」この斎戒沐浴して、香を焚いて殿様からの御手紙を拝承するという、その姿勢、ここに非常に緊張し、感謝をしておる安藤抱琴の姿が伺えると思います。その御手紙は、「●巾十襲してこれを櫃に蔵し候て栄幸を子孫に伝ふべく存じ奉り候。」といいますから、何十にも覆って、そしてそれを箱に入れて、この名誉を、子孫に伝えたいと思うと。
「まことに以て有り難き仕合せ、言語に絶し奉り候。」この気持ちをどうか、宗淳殿、御殿様に御伝え頂きたい。そのような心が、充分にこの手紙から、伺えるかと思います。こうして義公は、はたしてこの大日本史編纂の方針に、この学者は叶っておるのかどうかというのを厳しくチェックをして、しかもその学者達をこの彰考館に招いた以後はこのようにして丁寧に心を込めた書状を送って、史館員達を励ましてゆくわけです。史館員はそれに感謝をし、さらに自分に鞭打って、厳しくこの編纂の事業に臨もうという心を奮い立たせてゆく様子が、この安藤抱琴の書翰によって伺えるのではないかと思います。
 ところでこの史館員達をふくめて、編纂をしてゆく方針をきちんと決めてゆかなければならない。それは、何度かこの方針は、改められたようです。年表にちょっと戻って頂きたいのですが、寛文十年(1670)に、「修史条例」ですが、(この頃 (実際には四、五年頃)「修史条例」が作成されたと思われます。)
この「修史条例」はまだまだ大日本史編纂のきちんとした方針が固まったところではなくて、幕府の『本朝通鑑』が脱稿した時期でもありますし、林家の方針も、入っておったのではないかと思われます。それに対しまして、編纂の議論が色々なされていったわけですが、元禄二年(1689)に、「修史義例」が作成されます。これは先の「修史条例」を改めて、編纂方針が、ここで、さらに整えられてゆくわけです。最終的に後々までの修史の基本とし確立されるのが、元禄九年(1696)の「重修紀伝義例」というものになります。ですから大きくこの「修史条例」の時期、「修史義例・の時期、そして、「重修紀伝義例」の時期と、みてよろしいと思うのです。
 それでは「重修紀伝義例」がどのように整えられていったのか。これは細かい規定が沢山ありますが、一つは、この大日本史の特徴は、現在でも各種の編纂事業にも継承されておりますが、出典を明らかにするということが大事なことであります。「修史条例」や「修史義例」は、史料が充分に残っておりませんのでよくわからないわけなのですが、平泉澄博士はこの「修史義例」の第一条に出典を明記するということがあったに違いない、と、こうおっしゃっておられます。
 一つは、例えば、神功皇后は皇后と称する、皇后は必ず「紀」をたつ、というようなものが、初めに「修史条例」のあたりにはあったかもしれない。貞享元年(1684)に、『御意覚書』というものが、残っております。これは義公の遺稿がしたためられたものでありますが、貞享元年の八月十一日の条で、「皇后を伝にたつべし。本紀とすべからず」とあります。ですから「修史条例」では皇后を本紀の中に入れるようになっておりますが、それが、後に貞享元年になりますと、「本紀」とは別に「伝」をたてるのだと、このように変わります。それがずっと踏襲されることになりまして、「重修紀伝義例」の中にも入ってゆくわけです。
 それからその出典を明記するということは、「修史条例」のなかでははっきりしませんが、先程申し上げましたように、元禄二年(1689)の「修史義例」のなかでは明記されておったのではないかといわれております。(現在は、これも疑問視されている)この出典明記というのは、旧紀伝が完成しました延宝八年(1680)の年には恐らくきまっていなかったのだと思います。どうやらこれは旧紀伝のなかに出典が明記されておらないことからこういえるのではないかと思います。
 大日本史編纂の根本方針であるこの出典を明記するということは、これがあるからこそ、二百五十年ものあいだ、義公の亡くなったあとも、この義公の方針が、曲げられないで、続けていった第一の条件ではないかといわれているわけです。もしこの出典を明記するということがなければ、偏見や独断がはいりまして、自由な筆法でもって書かれていってしまったかもしれない。こういうことから考えますと、出典を明記するということが、いかに重要なことであるか、しかもこれが、今までの日本の歴史の編纂のなかには嘗てなかったことでありまして、大日本史編纂の所謂執筆の形での意味を考えますと、非常に大きなものがあろうかとおもいます。
 それが一つでありますが、更に次に、亡くなった方をどのように表現するか、それを一つ例にだしまして、「重修紀伝義例」の成立していった過程を見てみたいとおもいますが、一つは「薨・卒・死」という表現です。これは律令の「喪葬令」の中にでておるわけです。そのなかで、かっこ書きにしてありますが、「六位以下達於庶人称死」(当時位階がありました。八階までありまして、それからそれ以下を庶人でありますが、それの六位以下庶人は、死と称せよ、ということが、律令の喪葬令のなかにでているわけです。)とあるところは「大ニさわり」があり、「令文」そのままは承服出来ない。こういうことを中村顧言や、安積澹泊この両総裁が元禄九年の時に佐々宗淳や大串元善に書簡を送って問題を提起するわけです。その問題提起の二つ目は後宮伝の官女、三公の末子など官位不明のもの、功名赫々たる武士で無位無官のもの、これらに対し、「死と書き候てハ」伝を立てた意義が明確でなくなるのではないか。これはどうであろうか。
 そして三番めに、右二つの結論として、シナの廿一史にならって、「卑賎迄卒或ハ終」と書すことを主張するわけです。
 「只今御編集之紀伝御議論正しく一事も古例ヲ変申候事無之本拠をふまへ申様仕(つかまつり)候」
本拠を踏まえて紀伝を編集していったらどうだろうか、その本拠とはなにかというと第一にシナの廿一史の例に違わないようにしていったらどうだろうかとこういうことを安積澹泊、中村顧言達が提案するわけです。それに対して、佐々宗淳が、次の様に意見を述べるわけです。この問題は、義公の決裁によって決まることではあるが、一応議論を尽くしてみるのが宜しいと思うからわたしは次のように考えます、と。そして二人の総裁が、問題提起した、所謂六位以下を庶人に至るまで死と称せよと、そういうことは障りがあるということ、それから廿一史の例を基本にしようということ、これは「令ノ文ヲ御改メ被成候事いかゝ可有御座候やと奉存ジ候」とこういいまして、令文を改めるというのはどうだろうか、私はそうは思わない、ということを述べるわけです。この令というのは、その官職等においては、その時代によって、その多少の違いはあるだろうが、日本においては「朝廷千古不変の恒典」だ、朝廷が一度もそれを変えようとしたものではないのである。薨卒死の書法に関しては古今に通じて変革はない、それまで公式な歴史編纂物の六国史ですが、それらも令を根拠にして書いている。それを、今になって新たに外国の歴史、即ちシナの廿一史の書法に合わないからといって、これを改めるということは、「天子に非して礼を議スルト申物ニテハ有之まじく候哉」本来はこのようなものは、陛下がなされることであるのだ、陛下がなされるべきものを、臣下の我々がすることになるのではないか。こういうことがあってよろしいのか、ということを宗淳厳しく突くわけです。
 次に、例え令文がどのように無形なものであろうとも、「其朝廷ニ在テ違背スル事ハ決シテ有之まじき」事であると。この、少し不都合な点があるかもしれないが、先ずは朝廷がお考えになることであって、私共臣下のすることではないのだ、ましてや、その易姓革命が、行われているような、シナの歴史を基本にするということは、あるべきことではないではないかと。ここが、宗淳、大義名分厳しく学んだところであろうかと思います。
「況や一姓伝受万古不変ノ朝廷ニテ恒典ヲ私ニ改候事大ナル誤タルヘク候」この朝廷がなされるべきことを、臣下のものが改めるということがあってはならない。しかも、日本の国は万世一系朝廷は変わらない、こういうことを私的に改めるというのは、如何であろうか、その理由から、結論は、「上古ヨリ称シ来リ候事ヲ今改申候ハ実録ニテ無之候、」事実のことではないのだ、と。古来から、守り通されてきたことを改めるということは実録ではなくなると。
「悉く異邦ノ史ノゴトクニ書申タキトテハ国体ヲツクリカヘネバナリ 不 レ 申候、」この内容、書き方が、シナの歴史の書法に合わない、だから書き改めなければならないということは、そうであるならば日本も易姓革命のような、この国体にならなければならない、国体を作りかえねばならないではないか、そういうことがあって宜しいのか、ここが宗淳の論の根本になると思うのです。義公に仕えて二十二年、その間に培われました学問の成果というものを、みごとにこの「重修紀伝義例」のなかに発揮された大議論だと思うわけです。
 こうして、義公の修史の志を踏まえながら史臣達は議論充分にとりかわしながら、その意に叶うように、なにが根本であるかということを常に繰り返し繰り返し質しながら編纂に当たってゆきました。その過程が、ここに顕れているかとおもいます。
 結局はこの結論としましては、六位以下の庶人に至るまでは、死或いは終を用いて表現しようということにはなってゆくわけです。しかしながらこの過程において、たたかわされたその考え方は、非常に大事なことであったかと思われます。これが一つの基本方針として完成され、代々修史事業が推進されてゆくわけです。
 ここで史館員の一人、あまり聞いたことはない人物でありますが、清水與三郎三世という人物の『大日本史』の執筆内容に触れてみたいと思います。
 この清水與三郎は、水戸藩医の仙庵の子供でありました。義公にどうして招かれたかといいますと、私は学者になりたい、医者の子供であるが学者になりたいということを申し出るのです。もし、私が彰考館員として採用されない場合には私は水戸藩士をやめまして、民間人として生涯を終わろう、侍をやめて、浪々の身となって過ごそうと、こういうことを義公に訴えたというのです。そこで義公としては、それ程迄の決意ならばということから採用されたといわれているのです。まず志がいかがであったかということが義公がとらえたところなのです。そしてこの人物は西山荘久昌寺太田の浄光寺とか、山寺それから正宗寺とか、湊の御殿とか、田中内村の西山荘へ移る前に一晩泊まってまいりました、大内家。こういうところなどで随分義公と一緒に歌を詠んでいるのです。非常に義公の心を体した方だといわれております。その人物が、ずっと『大日本史』の編纂に没頭して、中心は鎌倉時代を扱ったといわれております。そのところでどのような執筆をしておるか、これは、吉田一徳博士が『大日本史紀伝志表撰者考』という本のなかで、とりあげておるわけなのですが、頼朝についてこのような表現をしております。
 頼朝が伊豆に幽閉されていた時のことです。「勇敢の士人を選び、別に之を密室に延き、諭して曰く、『此の事、唯々卿と議するのみ。外に知るもの無し。請ふ我が爲に力めよ』と。衆悦びて皆自ら奮はんことを思ふ。而も機密の事に至りては、獨り時政とのみこれを決せり。(東鏡)」と。ここに頼朝の性格がよくあらわれているといわれております。「此の事、唯々卿と議するのみ。」と。個別的に自分の気持ちを伝える。しかもお前だけだ、というような表現をするわけです。この個別的に説得された雄士たちは頼朝の為に懸命に働こうと、奮い立つわけです。そのことを表現しております。しかしながら反面で頼朝は、「機密の事に至ては、獨り時政、(北条時政)とのみこれを決せり。」ここに頼朝の性格、よく表現されている。それから旗を挙げてからのことであります。「廣常・義澄等曰く、」というところがあります。「平廣常や三浦義澄らが曰く、『佐竹義政(途中ぬきますが)叔姪衆を擁して常陸に在り、其の他屈強のもの尚多し。宜しく東土を定めて後徐にし進取を譲議すべし』と。」平家追討をしているときに、富士川の合戦の後さらに追い討ちを掛けようかというときに、平廣常や三浦義澄らの意見を良く聞いているということ。部下の進言を心良くいれて、そして次の計画に従おうということです。「頼朝之に従ひ、乃ち信義をして駿河を守らしめ、安田義定をして遠江を守らしむ。而して軍を旋して相模国府に至り、」云々とこうあります。「十一月、兵を将ゐて常陸に如き、佐竹義政を誘殺す。義政の姪秀義、金砂山に據る。頼朝兵を遣はして之を攻めしむ。秀義逃走せり。」金砂山の合戦の所です。結局部下の意見を入れて、慎重に事を一歩一歩固めて進めていこうという頼朝の精神、姿がよくここに表現されている。しかも最後、「頼朝人と為り面大にして身短く、風土温雅にして、音吐亮朗、沈毅にして度量有り。算前に定らざれば、未だ嘗て事を挙げず。」ここに頼朝の長所がよくでておると。しかしながら、「然れども猜忌にして恩寡く、骨肉・功臣多く殺戮に遭へり。」と。
 長所と短所。これがよく描写されていて、他の者ではなかなかこうは書けないのではないかと言われる程の評価を吉田博士は与えております。特にその人物の表現といいますか、執筆法にたけていたと言われているわけです。これが義公の頃の史臣達の様子でありますが、元文の二年(1737)に、安積澹泊が検閲を終了しました「元文検閲本」が完成します。これのあと、安積澹泊が亡くなってしまいます。そのあとは次第に人材も乏しくなって、志表の史をそれぞれ分属して、執筆者を決めてゆくわけですが、なかなかそれが進まない。こうして段々館員も減少しまして、大日本史編纂の停滞期に入るわけです。
 その後立原総裁が就任いたしまして、再び復活してゆくわけですが、その中で、史館員の一人として、藤田幽谷を取り上げておきました。大日本史編纂にあたりましては幽谷の、立原総裁の下での様子は、非常に活気があって、義公が今でもこの面前に、いますが如くである、という表現をしております。それは『修史始末』の成立というところです。これは寛政九年(1797)に幽谷が執筆をされたわけですが、それはやはり『大日本史』の編纂というのは義公の心を体して、心をくんで、執筆しなければならない、というお気持ちで書かれたものであります。巻末の一番最後のところに、幽谷が述べています。「立原先生史局を総裁し、力を陳べ滞を振ふ。義公在天の霊、それ或いは今日に竣ることあるか。」と。ここです、非常に活気が満ち満ちている。義公の下で編纂しているような状況であった。しかも、翠軒が、「先生館僚に謂ひて曰く、」と続きます。「義公百年の遠忌己未の歳に在り、相去ること僅かに三年、紀伝を校刻し、以て先君の志を成す、必ず此の期を踰ゆべからず」と。総裁に就任するのが天明六年(1786)でありますが、十年後に『大日本史』を完成させようではないか、立原総裁は叱咤激励するわけです。「是に於いて、在館の士、みな激励奮発せざるはなし。しかのみならず、君上聴政の余暇を以て躬自ら閲覧し、将に一両歳を限りて以て業を卒へんとす。史館有りしより以来、未だ此の若きの盛有らざるなり。館職の士、たれか敢えて力を竭し研精せざらんや。」と。非常な勢いでもって、復活したということが、ここに見えると思います。
 それからこの編纂事業が、義公の心を体して、ということを幽谷は非常に厳しく訴えております。それは、『修史始末』の、執筆は九年でありましたが、寛政二年(1790)の三月に、「原子簡を送るの序」という文章をつくっております。そのところには、次のようにしるされております。
「我が西山先公、嘗て是非の迹天下に明らかならず、而して善人勧むる所無く悪者懼るるところ無きを憂ひ、乃ち慨然として、大日本史を修め、上は皇統の正閏を議し、下は人臣の賢否を弁ず。帝室を尊び以て覇府を賤しみ、天朝を内にして蕃国を外にす。」華夷内外の弁を明らかにするということにもなりますか。尊皇精神がここにはっきりととらえられております。「蓋し聖人経世の意に庶幾し。」これは聖人が世を治めるその心意気に近い、こう十七歳の時に幽谷したためておりますが。続いて『修史始末』にまいりますと、これは元禄四年(1691)五月のところにあります。義公の精神を良く理解するのには、多くの史料はあるけれども、「今義公筆削の大意を究めんと発せば、独り頼るに行実、紀聞諸書有り。就中梅里先生碑は公の自撰する所、而して西山随筆は公諸を口に矢ねて侍臣諸を書に筆する者、最も以て明証確拠と為すに足る。西山随筆、桃源遺事の苟くもよく此の意を推原し、以て全書を通観すれば、則ち後人紛紜の説、其の是非曲直、立ちどころに定むべし。」義公の考えはこうである、こうあったのではないか。いや、ああであったのではないか、色々な説が有るけれども、まず、義公の考えの記されている原典に当たることが大事だと。こうして、まず義公に帰るように。このことを強調されるわけです。そのことは、最も幽谷が先生と敬称をもって尊敬していたのが、安積澹泊、栗山潜鋒、打越撲斎、立原翠軒、この四人が代表となりますが、その一人である安積澹泊に対して、藤原公宗という人物は、これは鎌倉時代から南北朝時代でありますが、後醍醐天皇を誅し奉ろうとしたその逆臣であります。叛臣であります。この人物を叛臣伝より外したという安積澹泊の姿勢にたいして、これは今手川の先祖に当たるということで、遠慮があったのではないか、ということなのです。どうしてそういうことをする必要があるのか。義公は、事によりて直書すると、こういう姿勢で来たのに、それから見ればなんら遠慮するところはないではないか。と、こうまで、先生と尊敬した澹泊も、義公の意に叶わないところは厳しく問い改めているところでございます。
 このような編纂事業に力を尽くした史臣達、その為の史料を求めて、どのような苦労をされたのか、また義公は史料に対してはどのような姿勢であったのか、ということを最後に述べてみたいとおもいます。義公としましては、色々な所に記されておりますが、義公の気持ちは、ここでは『玄桐筆記』からとってみました。常に仰せられているところは、堂上方、公家方が、珍書、貴重書や珍しいものを、門外不出にしている。この為に、或いは蠧損、というのは虫食いです。或いは火燬というのは、火災にあって、無くなってしまう。焼けてしまうということです。こういうことがある。上代の遺事、古賢の懿蹟(いせき)とも、所謂歴史上の以前の事柄、それから優れた人物の業績などが、後世に伝わらないというのは、こういうその史料の紛失、史料が失われていることから起こるのである。我が志は継往開來、ここには継往開來という言葉を使っていますが、ここにあるのだと。であるから史料は広く活用する事だ、と。そうであるならば、例え、災変があっても、一つは、あるいは関東、あるいは関西と両方にありまして、失うことを免れるのではないかということです。であるから、私は方々から史料の借用閲覧を希望された時には、隠すことなく、快くそれに応ずるのだ、ということを『玄桐筆記』の中で、記されております。それから加賀の前田綱紀公に対しては、元禄六年(1693)かと思われますが。「少しも密ニ而ハ無御座候、」私共の水戸では、史料を秘密にすることはない、と。それから「有志方へハ爲写置申度事ニ而候へは、」ということです。複製本、写本を、必ず作って、一つ、一方に備えて置くと。そういう姿勢。これが義公の姿勢でありました。その姿勢を受けまして、史料収集に最も尽力された人物の一人は佐々宗淳でありますが、その佐々宗淳が、吉野山の吉水院に史料採訪に行ったときのことです。これは延宝八年(1680)でありますが、義公が本格的に史料の収集を始められたのは、二年前の延宝六年といわれております。『求書権輿目録』というものが、ここでまとめられるわけですが、その奥書に、「実に是れ我君求書の権輿なり、」権輿というのは始まりなんです。求書、史料を求める、といいます。これは、佐々宗淳などが記したところでありますが、佐々宗淳や板垣宗憺らが、京都方面に史料を採訪に行ったときのことをまとめておるわけです。そこに「我君求書の権輿なり、」と、そういうことがありますので、延宝六年をもって、史料調査が本格的に行われ始めたと、こう考えてよろしいかと思います。そのときに中々この吉水院で、これは秘書であるからといって、出して頂けなかった。そのことに対して、義公に今までの御礼と、それから今後のお願いの御手紙をお願いしますと、こういうことを佐々宗淳が、依頼するわけです。それに対して義公が、吉水院にしたためた手紙です。佐々宗淳を史料調査の為に遣わしました。今まで大変お世話になりまして有り難うございました、と。「乍此上彌御肝煎頼入存候、」これからもさらにご協力頂きたい、こういう丁寧な御手紙を、義公は送るわけです。宗淳の史料収集の姿勢と、それから義公の謙虚な姿勢といいますか。それが相まって、史料採訪、史料収集、これが続けられていったわけです。ことに、この時期の史料収集につきましては、吉水院に入る前は高野山や、紀州の那智等も訪ねてゆくわけですが。この高野山の史料調査においては、これがきっかけで、高野山の文書が世に明らかになっていく、しかも高野山もその文書を使った著書を出版するといいますか、そういう姿勢に変わっていったというきっかけにもなりまして、大変意義のある、史料調査、採訪でありました。
 それでは延宝ばかりかと申しますと、そうではありません。香取文書の調査にはいりますが、義公は、香取神宮の文書について、このようなことをしたためております。「香取大明神は経津主神にして下総の一の宮なり。このゆえに歴代の皇帝戸を授け勅書を賜ふ。摂録武将また寄下文長者宣御教書等に至るまでこれを崇奉す。」と。たくさん香取神宮で、文書がのこっていたと。ところが中古以来異端競い起こり、或いは兵燹(へいせん)にかかり、或いは蟲魚に触ばまれ、兵火にかかったり、虫食いなどにあって、僅かに存するものが十二、三冊だと、しかもこれは大宮司家に残されていると。「予偶まこれを見感激に堪えず、」「装こう成巻し大中臣氏清房に寄す。」と。自らそれを修復して、表装して、残されたわけです。「惟れ願くは仏法の息丕を屏し宗源の道を興さば則ち神威日に隆んに、社職年に昌ならんことを。」仏法の勢いを抑えて神道の道を興隆することになるであろう。このように香取文書を非常に意義付けて、補修され、残されていったわけです。香取神宮の文書として大事なものでありました。それでは民間に対してはどうかといいますと、現在、茨城町の南島田というところに海老沢良久さんというお宅がございます。このお宅に、次のような文書が残っておるのです。江戸但馬守重通公、それから秋田城之介実季公としまして、「右御家伝の文書修復次第、元禄拾壱寅正月十四日水戸府 大君正三位前権中納言 源光圀公様、立原伝兵衛宅へ成させられ候の節、両通の文書高文ニ達し御上覧に入候の処、子孫ニ用立べき物と思食さるるに依て、早速京都へ御登らせ修復仰付られ下置れ候条、有難き仕合ニ存じ奉り候。子孫へ御伝へ、いよいよ他見ハ禁止せらるべく候。以上、このような文書が残っているのです。江戸但馬守重通は、江戸氏の最後の殿様になります。これは水戸城で終わるわけです。海老沢家の先祖はその家臣であったのです。それからやがて慶長七年(1602)に、秋田城之介が宍戸に転封になりまして、その配下に海老沢家が入るわけです。江戸但馬守重通の文書は府中で佐竹との合戦に大変な功績をあげたという感状です。それから秋田城之介からは、島田村で五十石を知行せよという文書です。その二通について、大変立派な文書であるからといって京都にまで送って、修復させて保存をさせておるのです。これは両通一巻にまとめられまして、紫の紐、それから絹を以て、表装されまして、現在お宅にのこされております。そのように民間においても、きちんとした、由緒ある史料は大事にせよということを命じておるわけです。それは修復をして、そして残すように、指導をしたわけです。皆川金衛門というのは海老沢家の親類の者になるようですが、直接藩の役人ではなくて、そう伝えられたので、お前にも伝えておくぞ、という、この間接的な内容になっておる訳ですが。こうして史料の保存と、収集ということに、義公は心をむけられたわけです。
 最後のところは、太政官修史館の副総裁の重野安繹博士が関東六県を史料調査したときの日記であります。明治十八年(1885)の十月四日に香取神宮に行ったときに先程見ました義公の、跋文にもあらわれておりますように、義公は手厚くこれを表装し、保存を願われたわけです。「六県ヲ巡回スルニ、大抵文書は寺院ニアリテ神社ハ皆散逸セリ、而シテ香取社独リ千四五百通ノ多キヲ存スルハ、歴世祠官注意ノ厚キニ由ルト雖トモ、仰又前ニ徳川光圀ノ訓示アリ後ニ三中(これは色川三中なんですが、土浦の商人で国学者でもありますが。)の校正にアラスンハ安ンソ能ク此完備ヲ得ンヤ、」と言いまして、土浦の色川三中の功績を称えているわけですが、この始めは香取文書の保存は義公の訓示から始まり、それが続いたのだということで、重野安繹副総裁も感嘆したところであります。
 このようにして史料を保存し、それを活用し、後世の糧になる歴史編纂をしてゆく。こういうことは義公以後もその精神が非常に太く貫かれて、今日の彰考館に、又受け継がれて、私共それを活用させて頂くことになっておりますので、大変な恩恵を受けているわけです。こうして、二百五十年に渡っての編纂事業、史臣達が義公と共に、また義公の精神を体して、いかに尽力されてきたかと、その一端をお話申し上げました。

      (当時)茨城県立歴史館学芸部室長