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明治維新と水戸学

                  但 野 正 弘

   1 はじめに

 皆さんおはようございます。ご紹介を頂きました、但野正弘でございます。
本年度の水戸学講座の最終回ということで、いよいよ第五回目のまとめの話になるわけでありますが、奇しくも今日十二月六日といいますのは、水戸義公即ち徳川光圀公のお亡くなりになった日なんですね。元禄十三年(一七○○)の旧暦十二月六日に、常陸太田の西山荘で、数え年七十三歳の生涯を終えられましたので、いわばご命日ということになるわけでございます。
 そういう大変ご縁の深い日に、「明治維新と水戸学」というテーマで、お話をさせて頂くことになったわけですが、今年の水戸学講座の統一テーマも「明治維新と水戸学」でございました。
 振り返ってみますと、第一回の八月には、宮田正彦先生が「水戸藩と水戸家の家風」と題して、水戸藩の成立、および水戸家において初代の威公(頼房)、二代の義公(光圀)、そして九代の烈公(斉昭)などの方々が、どういう家風を作り上げられ、或いは学問というものを形成してこられたか、そういうお話がございましたる
 ついで第二回目には、木下英明先生から「水戸の学風--大日本史編纂を通して--」と題して、大日本史編纂事業の経過を中心としたくわしいお話と、その大日本史の編纂を通じて、水戸の学問が形成されていったことについて、お話がございました。
 第三回目には、安見隆雄先生から「後期水戸学と烈公の改革」と題して、特に水戸藩の後期において、学問がどういうふうに体系づけられ、またそれを実践に結びつけて、烈公によってどのように実施され、さらに天下に弘められていったか、ということについてのお話がございました。
 前回第四回目は、久野勝弥先生から「幕末志士の活躍」と題して、真木和泉守、吉田松陰、西郷隆盛、或いは海江田信義(かいえだのぶよし)、そして谷秦山(たにじんざん)の子孫谷干城(たにたてき)など、幕末から明治にかけて重要な働きをされた方々について紹介され、すべてそれらの方々は、水戸学・水戸の精神というものを、その学問の根本において研鑽され、またそれを実施実践されていった。言わばこれらの方々は水戸学によって鍛えられた方々であった。そういうお話がございました。
 そして本日の第五回目は、私の当番で「明治維新と水戸学」と題しまして、明治維新と水戸学がどういう関わりを持っているのであろうか。また、水戸学が、或いは水戸の精神というものが、明治においてどのように評価され、花開いていったのか。そうしたことにつきまして、特に明治天皇というお方を中心に、お話を申し上げたいと思います。


   2 日本史教科書と「水戸・水戸学」

 さて、これまで四人の先生方によって、水戸家・水戸学・水戸の精神などについて詳しくお話があったわけでありますが、では、現在の高等学校の歴史教育の中で「水戸」というものが、どんなふうに教えられているのであろうか。これにつきまして、少々お話し申し上げたいと思います。
 私も県立の高校に勤めておりまして、高校生に日本史を教えているわけですが、現在発行されている文部省検定済の日本史教科書は、数を調べてみますと九社二十種ほどあるんですね。その中で、全国的に進学校などで広く使用されている某出版社の日本史教科書の例を掲げてみました。水戸および水戸学というものを、どんなふうに教科書では扱っているか、ということをご紹介して話の糸口にしたいと思います。
 まず最初に出てきますのは、〔文治政治への転換〕というところです。それまでは水戸ということは全く出て参りません。教科書の本文には次のように書いてあります。
    「......いくつかの藩では藩主が、儒学思想にもとづいて家臣や領民を教化する政策を行ったり、儒学者を顧問にして藩政の刷新をはかったりした。保科正之(会津)・池田光政(岡山)・徳川光圀(水戸)・前田綱紀(加賀)らはその例である。(1)」
そして註が付いていまして、
    「註(1) 保科正之(将軍家光の弟)は山崎闇斎に朱子学を学び、多くの書物をあらわし...... (いろいろ書いてありますが、途中略します) ......また徳川光圀は江戸に彰考館を設け、『大日本史』の編纂をはじめ、............」
徳川光圀について書かれている記述は、これだけです。あとは別な人の記事なんです。それでも記述があるだけ良い方でしょう。
 それから後は、しばらく水戸に関する記事はありません。やがて後期以降になりましてから、[雄藩のおこり]というテーマのところに、藩政改革のことが出て参りますが、その藩政改革の例として、鹿児島(薩摩)藩、萩(長州)藩などの例が大変詳しく書いてありまして、その最後のところに、
    「いっぽう、水戸藩のように藩主徳川斉昭の努力にもかかわらず、藩内の保守派の反対で改革が成功をみなかった例もある。」
とだけ書かれています。烈公によるいろいろな藩政改革の細かいことは、何も触れられておりません。要するに失敗した例の扱いなんですね。
 次に、江戸時代後期の文化である化政文化の解説の中で、[政治・社会思想の発達]というテーマがありまして、
    「儒学のなかにある尊王思想は、水戸学・などで主張され、天皇を王者として尊ぶという観念的な形で発達した。(2)」
と書いてあります。そして註(1)には、
    「『大日本史』編纂事業を中心におこった学派で、朱子学を中心に国学・神道を総合し、皇室尊崇と封建的秩序の確立を説いた。後期には徳川斉昭を中心に藤田幽谷とその子東湖。幽谷に学んだ会沢正志斎らの学者が尊王攘夷論を説き、明治維新に大きな影響を与えた。」
と解説されています。この記述は、他の教科書とくらべて、かなり詳しいほうですね。ただ、どういうふうに明治維新に大きな影響を与えたのか、ということについては何も書いてありません。
 次の註(2)、これは大いに疑問を感ずる文章です。もちろん本文の「観念的な形で発達した。」という断定的な、一方的な書き方も同様です。
    「註(2) 朱子学の大義名分論には、徳をもっておさめる王者は、力をもって支配する覇者にまさるという尊王斥覇の考えがあり、それを日本にあてはめれば天皇を尊ぶべきであるということになる。」
 即ち、尊王思想というのは、天皇を王者として尊ぶという「観念的」な--頭の中で抽象的・空想的に考えた--もので、水戸学などで主張されたものだ。なぜ観念的かといえば、朱子学の大義名分論の中にある尊王斥覇(せきは)の考えに、日本の天皇を当てはめて、尊ぶべきだと主張するのが尊王思想なんだ、と説明しているわけです。要するに水戸学などの尊王思想は、朱子学の大義名分論に公式的に当てはめただけのものだということです。しかしこれでは、生徒達にとっても「尊王」の正しい意味を理解することは難しいでしょう。
 水戸学の尊王論は、単に朱子学の尊王斥覇論に当てはめて主張されたものではありません。大日本史の編纂という、深い歴史研究の中から、歴史の事実に則して確信されたものです。このことについては、後で申し上げる話のなかでも触れてゆきたいと思います。
 四番目の資料は、幕末、一挙に飛んでペリー来航のところに出て参ります。[開国]というテーマで、
    「......また幕府は、人材を登用するとともに、前水戸藩主徳川斉昭を幕政に参与させ、国防を充実する必要から江戸湾に台場(砲台)をきずき、大船建造の禁をとくなどの改革を行った。......」
と、ちょっとだけ記述があります。
そして次に、政局の転換ということで[安政の大獄]のことが書かれておりまして、
    「......このようなきびしい弾圧に憤激した水戸脱藩の志士たちは、一八六○(万延元)年、直弼を桜田門外で暗殺し(桜田門外の変)、その結果、幕府の独裁はくずれはじめた。」
次の六番目に[公武合体と尊攘運動]という項目で、老中安藤信正が公武合体運動というのを推進して、孝明天皇の妹宮和宮様を将軍家茂の夫人に迎えた、ということが書いてありまして、つづいて、
    「この政略結婚は尊王攘夷論者から非難され、信正は一八六二(文久二)年、坂下門外で水戸脱藩士らに傷つけられて失脚した(坂下門外の変)。」
その註に、
    「一八六○(万延元)、......ヒュースケンが......薩摩藩の浪士に殺され、さらに翌年、品川東禅寺のイギリス公使館が水戸藩浪士の襲撃をうけた(東禅寺事件)。」
さらに続く本文に、
    「......京都では下級藩士の主張する尊王攘夷論(1)を藩論とする長州藩の動きが活発になって政局の主導権を握り、......」
云々と書かれておりまして、尊王攘夷論の註に、
    「尊王攘夷論は、尊王論と攘夷論とをむすびつけた幕末の水戸学の思想で、藤田東湖・会沢正志斎らがその中心であったが、開港問題がおこると反幕論へと進んで、現実的な政治革新運動となり、これを主張する一派は尊攘派とよばれるようになった。」
という、記述があります。一応、事実的なことが書いてあるわけでありますが、その尊王論と攘夷論の詳しい内容についての記載はありません。
 そして、最後に[幕末の社会と変化]ということで、
    「開国にともなう経済の混乱と政局をめぐる抗争は、社会の不安を大きくし、世相を険悪にした。国学の尊王思想は農村にも広まって、世直しの声は農民の一揆でもさけばれ、......大阪や江戸でおこった打ちこわしには、為政者への不信がはっきりと示されていた。......教派神道とよばれる民衆宗教......このころ急激に普及、伊勢神宮への御蔭参りの流行、......一八六七(慶応三)年、京都一帯に熱狂的におこった「ええじゃないか」の乱舞は、宗教的形態をとった民衆運動として、討幕運動にも影響を与えていった。」
ということで、すぐこのあと、徳川慶喜公が大政奉還をして、やがて王政復古の大号令がだされ、江戸幕府が完全に滅んでいった、と記述され、教科書はもう明治維新に入ってしまいます。水戸に関しては、これだけです。
 私どもは、水戸あるいは水戸学の、歴史上における重要な役割、あるいは意義というものを、高く評価すべきだと考えますが、実際に高校日本史の授業で使われている、詳しいと言われる教科書でも、水戸に関してはこの程度なんですね。
 そして、特に後半の桜田門外の変以降は、坂下門外の変・東禅寺事件と、幕末の水戸藩は事件を起こし要人を襲撃する、というようなイメージだけが強調されているわけです。
 一方、最後に江戸幕府が倒れ、明治維新を迎えるにあたっても、世直し一揆とか、御蔭参りの流行とか、あるいは「ええじゃないか」--これは、京都・大坂などで起こった民衆の動きなんですが、「ええじゃないか!ええじゃないか!何をやってもええじゃないか!」と踊りながら、豪商の家を襲ったり、いろいろなものを潰してゆく、そういう無秩序な運動です。--などが、大きな要因になったように書かれております。
 たしかに、そういうことも幕府にとっては、政治をする者にとっては、非常に厄介な問題でありましたし、また当時の人々の不安定な精神状態の現われでもあったと思います。したがって、幕府崩壊の一つの要因となったとは考えられるでしょうが、しかしそれによって明治維新が達成されたとは、言えないと思います。あの明治の御代が、御蔭参りや「ええじゃないか」によって出来たわけではないのであります。
 明治維新は、長い間の学問・思想などが積み重ねられ、それによって培われた力によって、激動の中から築きあげられていった、と考えるわけであります。
 ですから、この教科書に記載されているような表面的な事実の羅列だけでは、歴史の本当の姿はわからないのではないか。またこうした文章からは、明治維新に対する感動も、まして水戸についての感激も、高校生の心に生まれてくるはずはない、と思います。
 ところで、これまで四回にわたる水戸学講座に登場してまいりました人物について、同じこの教科書には、どういうふうに書いてあるのか、ということを少し調べてみました。
資料の2--同上教科書における、水戸藩・水戸学と関係あった人物の扱い--をご覧ください。

     (1)久留米の真木和泉守保臣(まきいずみのかみやすおみ)
     この人は、有名な禁門(きんもん)=蛤御門(はまぐりごもん)=の変で、事こころざし破れまして、天王山で割腹された方でありますが、しかし明治維新の達成にあたって、大変重要な役割を果たしています。彼が練ったいろいろな構想の、かなりの部分が明治維新に実現されていると言われています。
    この人について、禁門の変のところに名前が出て来ません。長州藩が、京都の御所を襲撃して、薩摩・会津・桑名などの藩兵たちと戦った、という記述だけで真木和泉守の名は、どこにも出て来ないんですね。

     (2)長州の吉田松陰・越前の橋本左内
     この二人については、安政の大獄の註に、「とらえられて死刑となった」と、これだけしか書いてありません。あの二人の重要な人物が、死刑になった記事だけなんです。

     (3)薩摩の西郷隆盛
     西郷さんについては、イギリスの軍艦が薩摩鹿児島湾にやってきて、薩摩藩と戦った薩英戦争がありましたが、その記述のあとで、
     「西郷隆盛・大久保利通ら下級武士の革新派が藩政を指導していた。」と、書かれています。幕末においてはこれだけです。あとは明治になってからの記事です。

     (4)津和野藩の福羽美静
     この人は「フクバビセイ」「フクバヨシシズ」といいますが、もちろん名前は一切出てまいりません。
 以上のように、特に水戸と関係があり、重要な働きをしたと思われる人物が、教科書では、ほんの一行にも満たない記述か、または皆無か、でありまして、極めて軽く扱われております。
 ただし、発行されている日本史教科書の全てがそうだというわけではありません。中には、正しく評価し、きちんと記述されている教科書もあります。
 そこで、これらの五人の人物のうち、四人につきはしては、すでにこれまでの講座の中でご紹介がありましたので、今日は、のちほど津和野藩の福羽美静と、もう一人、水戸出身の香川敬三という、二人の人物を取り上げましてお話し申し上げたいと思います。


    3 民族主義運動と尊王攘夷論

 さて、先程は、教科書に書かれているような、表面的な動きだけでは、明治維新の運動・達成というものを理解することは出来ないと申し上げましたが、それでは、どういうふうに考えるべきなのか。その一つの見方として、明治維新に至る動きは、一種の民族主義運動だった、ということを申し上げたいと思います。 参考資料(その二)をご覧ください。
 まず、民族主義すなわちナショナリズムという用語について考えてみましょう。鹿島研究所出版会発行の『社会科学大事典』をみますと
    「人間社会のなかで、とくに国民国家(Nation State)のもつ意義を強調し、それへの愛着心と忠誠心との価値を重視する考え方である。」
というふうに書かれています。これはちょっと理解しにくい文章かとも思いますが、次の資料をご覧ください。
 これは、平貞蔵という人が、ある外国人の書きました書物を日本語に翻訳したもので『民族主義--其の生成と発展--』(昭和十七年東洋書館発行)という書物です。その訳者の序文に、民族主義運動の定義が大変わかりやすく書いてあります。
    「ある民族が、自民族の歴史と傳統に深い連繋(れんけい)を自覚し、そこに自民族の本来的なる現在及び未来に於ける自己表現を見出さうとする」運動である。
 すなわち、ある民族、例えば日本人・日本民族が自分の国の歴史と伝統に深い繋(つな)がりを自覚して、ひとりひとりの国民が、自分がそのまま日本の国の歴史と伝統に結びついているのだと自覚した時に、日本民族本来のあるべき姿をはっきりさせ、将来日本人はどう生きるべきか、日本という国家はどうあるべきかということを自らの力で表現してゆく。外国の圧力によって強制され、生き方を決めるのではなくて、日本人自身が「日本はこういうふうに生きて行きますよ!」ということを明確にする。これが民族主義運動だと説明されているわけであります。
 そうしますと、まさに明治維新は、民族主義運動なんですね。
 自民族の歴史と伝統に深い連繋を自覚して、そして自民族の本来的なる現在及び未来における自己表現を見出そう、としたのが明治維新です。
 すなわち明治維新というのは、日本人が日本人としての自覚に立った時、自国の歴史の中から確信した尊王思想と、欧米列強による東洋侵略の接近という危機感によって生まれた攘夷論、この尊王思想と攘夷論を中核として、それに徳川幕府二百数十年の間に生じてきた封建制の矛盾に対する国内体制の強化確立、そういう諸要素を包含して動いた民族主義運動であったと思います。
 そこでさらに、その尊王思想及び攘夷論、それを結びつけた尊王攘夷論について、少々お話し申し上げたいと思います。
 尊王、即ち皇室を尊び敬愛する心は、非常に古い時代から、日本民族の遠い昔からの伝統として存在しているんですね。皇室の衰微の甚だしかった戦国時代であっても、皇室に対する憧憬(どうけい)・敬愛の国民感情には非常に根強いものがありました。ですから、下剋上(げこくじょう)の風潮が盛んであった戦国時代においても、結局、戦国大名達は京都を目指しました。京都に上って、天皇の権威を頂かなければ、天下に号令することが出来ないのだ。天皇の権威を奉戴しなければ、国民感情を無視することになる。国民感情を無視しては天下に号令することは出来ないのだ、ということを武将達は自然的に自覚していったわけです。
 その代表的な例が織田信長でありましょう。
 従って、関ケ原の合戦後、天下を掌握した徳川氏においても、征夷大将軍という地位を天皇からいただいて、政権を委任されたという形で江戸幕府を開き、自分の全国支配を正当化したわけです。
 その徳川氏は、やがて朱子学を中心とする学問教育を盛んにしますけれども、それは、武家政権としての幕府を、理論的に思想的に補強しようとしたものである、という一面があります。
 一方、皇室・朝廷に対しては、徳川幕府は「陽尊陰抑策」(ようそんいんよくさく)をとります。表向きは皇室を尊びながら、実際には「禁中並公家諸法度」(きんちゅうならびにくげしょはっと)などによって、非常に厳しい規制を加え、抑圧しました。例えば、「天子御芸能の事、第一御学問也」、天皇は学問を第一として下さい、ということで政治から遠ざけてゆきます。また、いろいろな名誉を与える天皇の権限も徳川氏は取り上げてしまうんですね。紫の衣を徳のあるお坊さんに与える、というようなことも自由に出来ないようにしてしまう、こういう抑圧、押さえ付けるという政策をとってゆくわけであります。
 ところが、徳川幕府当局が、陽尊陰抑策により、どれほど皇室を抑圧し、政治と切り離そうとしても、皇室が厳然として存在することは事実です。とすれば、現実に於ける皇室・朝廷と幕府との関係について、当然、学者や知識人の間でも、いろいろと議論が出てくることになります。
 ことに、学問が興隆してきて、道義の究明、国史や神道の研究が盛んになってきますとますます皇室の尊厳、あるいは皇室と国民との関係、伝統的国民感情などが明らかにされるようになってきました。その第一が義公による『大日本史』の編纂、それを通じての日本の歴史の研究、そして道義・道徳の究明ということであったと思います。
 そしてそれは、現状に対する批判と反省を生み、やがて尊王論の形成と展開とをみることになります。
 そのことに、重要な役割を果たした学派・人物として、いろいろありますけれども、特に挙げられるのが三つでありましょう。
 一つは水戸学。これは水戸義公に始まるわけですが、その学問・精神を継承した藤田幽谷・東湖・会沢正志斎。こういう人達によって明確に形作られていったのが、水戸学による尊王思想でありました。
 二つ目は崎門学(きもんがく)これは山崎闇斎(あんさい)や浅見絅斎(けいさい)など、そして其の教えを受け、さらに水戸に仕えて活躍した鵜飼錬斎(うかいれんさい)・ 栗山潜鋒(くりやませんぽう)などの人達。
 そしてもう一つは国学でありましょう。 契冲(けいちゅう)に始まり、やがて本居宣長や平田篤胤(あつたね)によって大成されていった国学。
 この水戸学・崎門学・国学という三つの学問が、尊王思想を明確にし、やがてそれが明治維新という一本の大きな柱に結集されていったわけであります。
 そしてまた、崎門学も国学も、いずれも水戸と大きな繋がりがある、ということに注目しておきたいと思います。
 次に、文末に掲げた「義公を中心とした水戸の学問系譜」というのをご覧下さい。
 これは、私が独自にまとめてみたものですが、この水戸学講座等に特に名前が出てこなかった方々については、思い切って省きまして、重要と思われる人物だけをそこへ掲げました。
 まず義公を真ん中の一番左に掲げまして、その右の段にずーっと書かれておりますのは彰考館の学者でありますが、太字で書いてある人は、義公在世中に彰考館の総裁になった人です。人見傳(ひとみでん・懋斎 ぼうさい)から、吉弘元常(よしひろもとつね)・佐々宗淳(さっさむねきよ)・ 中村顧言(なかむらよしとき)・ 鵜飼眞昌(うかいさねまさ)・安積覚(あさかさとる)・ 大串元善(おおくしもとよし)・栗山愿(くりやますなお )・ 酒泉弘(さかいずみひろし)などは、総裁になった人達です。また、上の方に誰の弟子か、あるいは何処出身の人かということを書いておきました。先程申し上げました崎門学の出身者が、三名入っておりますね。
 一方、国学のほうでは、義公の依頼によって、契冲というお坊さんが万葉集を研究し、注釈書を書いています。『万葉集代匠記』がそれです。その契冲から国学が始まり、以後荷田春満(かだのあずままろ)・賀茂真淵(かものまぶち)・本居宣長(もとおりのりなが)・平田篤胤(ひらたあつたね)と伝わってゆくわけでありますから、この国学系もまた、義公から始まるといっても良いのであります。
 それから、前回久野先生からお話がありました、山崎闇斎のお弟子である土佐の谷秦山(重遠、しげとお)という方、この方も水戸の義公に対して強い尊敬の念を持っておりました。幕末から明治時代には、子孫の谷干城将軍が出てまいりますが、この谷秦山の家系における学問・精神も、ある意味では、義公から出ていると言っても良いでありましょう。
 従って水戸学・崎門学・国学と、三つ並べて掲げましたけれども、いわばその学問の頂点に立つのは、何といっても水戸の義公である、と言っても過言ではないと思います。
 そして、その義公の学問思想というものを、最も純粋なかたちで江戸時代の中期にこれを復興した人物、それが藤田一正(かずまさ)即ち藤田幽谷(ゆうこく)です。さらにそのお弟子の会沢正志斎・豊田天功などの学者。また水戸を訪れ、そういう学者達に直接学問を受けた真木和泉守や吉田松陰など。それから幽谷のお子さんである藤田東湖に教えを受けた人達が、西郷隆盛・橋本景岳・海江田信義、そして水戸の茅根寒緑(ちのねかんろく)、御前山(ごぜんやま)伊勢畑(いせはた)の香川敬三(かがわけいぞう)、旭村勝下(かつおり)の田口秀実などの人物でありました。
 なお、田口秀実はのちに大洗磯前神社の神官となった人でありますが、その秀実と深いつながりを持つのが、津和野藩出身であります福羽美静で、明治初期の水戸にとって、忘れられない重要な人物です。のちほどお話申し上げたいと思います。
 さて、ご覧いただきましたように、水戸の学問というのは、実に見事にいろいろな全国の方々と結びついています。今日は、わかりやすいように思い切って少人数だけ書き記しましたが、水戸学というのは単なる郷土の学問ではないんですね。水戸学或いは水戸の歴史を勉強することが、単に郷土史の勉強だと思ったら大変な間違いです。まさにこれは、日本の学です。全国の学問と考えて良いと思います。 私自身も、義公を中心としたこの学問系譜を書いてみまして、その広い全国的なつながりに驚いた次第です。皆さんも是非、この系譜にいろいろな方々を書き足していって下さい。きっと役に立つ表になると思います。
 それではまた先ほどの話しに戻りましょう。
 これまで尊王論ということをお話し致しましたか、やがて江戸時代の中ごろから攘夷論というものが生まれてきます。
 まず安永期から天明期の頃にしきりに、外国人が来るぞ、特にロシア人が蝦夷地方面にやって来るぞ、ということが言われまして、その頃から政治改革を含めて海防論というのが生まれてまいります。
 例えば、『赤蝦夷風説考』(あかえぞふうぞくせつこう)を書いた工藤平助(くどうへいすけ)、或いは『海国兵談』を著した林子平というような人達の考え方は、攘夷論というよりは、むしろ海防論、守るというほうなんですね。ところが、寛政四年(一七九二)にロシアのラックスマンが根室にやってまいりますと、そのころから、国家防衛のために外国勢力を排除しなければいけない、という攘夷論が生まれてきました。
 その最も早い時期に属するのが、水戸の藤田幽谷だと思います。やがて、文化五年(一八○八)頃になりますと、この藤田幽谷によって、尊王論と攘夷とを一つにし、これを統合した「尊王攘夷論」というものが形成されてゆくことになります。
 尊王攘夷論というものを形成していったのは、水戸の藤田幽谷なんです。
 しばらく前のことになりますが、水戸史学会の前の組織でありました藤田幽谷先生生誕二百年記念会から『藤田幽谷の研究』という書物が発行されております。それをご覧になれば、幽谷の尊王攘夷論についてよくご理解いただけると思います。
 ところで、この尊王攘夷論というものが、もし別々なものだったらどうなるか。または尊王論、攘夷論のそれぞれ一方のみであった場合は、どうであったか、ということを考えてみました。
 結論としては、尊王論あるいは攘夷論のそれぞれ一方のみでは、王政復古・明治維新は達成出来なかったであろう、ということです。仮にこれを「尊王攘夷論の二者不可分性」と称したいと思います。
 それは、学問の興隆により、歴史に対する自覚により醸成され発展した尊王論ではありましたが、もし、十八世紀末以来の対外的危機というものが無かったとしたら、どうであったでしょうか。おそらく幕府も、あのような窮地弱体化の状態にはならなかったでしょうし、尊王論者もまた、政治的現実策としての倒幕(討幕)論を打ち出すことは困難であったと思われます。従って幕府の存在は、なお長期にわたるものとなっていたでありましょう。
 一方、対外的危機にもとづく攘夷論のみであった場合はどうでしょうか。結果としては鎖国攘夷は困難となり、欧米列強の武力を恐れ開国を余儀なくされたでありましょうが、しかしその後において、日本が国家としての独立を保持し得たかどうかは疑問です。
 何故ならば、攘夷か開国かの争いは、やがて卓越した武力的権威を失った徳川氏と、対等の立場に立とうとする雄藩大名との武力抗争、いわば徳川氏と薩摩藩や長州藩などとの関ケ原の合戦の再現になってしまい、対外的危機、国家的非常時に対する民族主義的運動としての、また、理想達成を目的とする行動としての意味は、全く失われてしまうことになります。
 そうなれば、両勢力の武力抗争は、果てしなく繰り返されたでありましょうし、米(アメリカ)・英(イギリス)・露(ロシア)・仏(フランス)などの列強は、植民地争奪の恰好(かっこう)の餌食(えじき)としてこれに介入し、日本列島は分割され、王政復古・明治維新の大業も達成出来なかったばかりか、日本国家の滅亡という、最悪の事態も起こり得たということです。
 現実に、その危険性があったんですね。慶応四年正月慶喜公が、鳥羽伏見の戦いのあと大阪城から海路江戸へ戻られますね。そして上野の寛永寺に謹慎され、恭順の意を表されたわけなんですが、その少し前、江戸城においてフランス公使レオン・ロッシュが、慶喜公に軍艦・武器・戦費の提供を申し出て、熱心に再挙を勧めたのだそうです。
 これを聞いた慶喜公は、その好意には感謝しつつも、「日本国は他国に異なり、たとえいかなる事情ありとも、天子に向かいて弓を引くことあるべからず。」と、フランスの勧誘を断り、寛永寺大慈院に謹慎し、恭順の態度を貫きました。(『昔夢会筆記』)
もし、慶喜公がこのフランスの申し出を受け入れていたら、大変なことになっていたでしょうね。フランスが徳川氏を援助すれば、必ずイギリスは薩摩・長州を軍事援助するでしょう。日本列島において英仏戦争が始まるわけです。そしてイギリスが勝っても、フランスが勝っても、もう日本はどうでもいいんです。勝った方の国が日本を支配してゆくでしょう。その時、先程申し上げましたように、日本という国は無くなっているわけです。
 ですから、あの鳥羽伏見の戦い以後、大変な苦境に陥った慶喜公が、心からの恭順の意を表されたことは、実に大きな歴史的意義があると思います。
 しかも、その慶喜公の心の基盤になっていたものが、これまで何人かの先生からお話がありましたように、義公以来の水戸家の家訓であったわけですね。「いざ」という時には水戸家は徳川将軍家とともに滅んでいい、ということなんですね。この気持ち、この覚悟があって初めて、日本は救われたと言っても過言ではないと思います。
 要するに攘夷論だけでは、あの明治維新は達成出来なかったであろうということです。 一方、尊王論というだけでは、危機感に対する切実さが違いますから、あのように江戸幕府が倒れるいうことは無かったかも知れません。
 即ち、尊王論と攘夷論が一段高いところで合わさって、「尊王攘夷論」という、基本的な根本的な考え方が生み出されたところに、明治維新の達成ということを可能にさせた大きな理由があったのではないか、と考えるわけであります。
 その意味に於いて、水戸というものは、まさに明治維新達成の指導的立場にあったといって良いでありましょう。これは後ほどご紹介する、明治天皇の勅語のなかに明確に示されております。
 なお、一つ付け加えておきたいと思いますが、この「尊王攘夷論」というものを、水戸は、決して水戸だけのものとして唱えたわけではないということです。
 例えば、藤田幽谷の教えを受けた会沢正志斎は、尊王攘夷論を更に学問的に体系化し、『新論』という書物を著していますが、彼は、藩を超えて人々を目覚めさせようとしました。私はこれに「超藩覚醒論」(ちょうはんかくせいろん)という呼び名を付けてみました。
 次に、久留米から水戸に遊学して来ておりました村上量弘(かずひろ)という人に与えた「送村上生序」(村上生を送るの序)という会沢正志斎の文章ですが、その中に次のように書いてあります。
    「今夫(そ)れ国に仕ふる者、各忠を其の君に尽さば足らむ。然れども天下の士はもとより天下の士を友とす。苟(いやし)くも日域(にちいき)の民たらんには、則ちもとより日胤(にちいん)の照臨(しょうりん)を仰ぎ奉り、而して共に大将軍の政令を奉ず。(中略)
     蒼海(そうかい)は即ち天地、八洲は即ち一域。東西懸(か)くると雖も勢ひ同舟にひとし、大義を踏みて以て天祖に報ずるに、何ぞ彼此(かひ)を別たんや。」

 国は、この場合藩をさします。今現在、藩に仕えている者は、それぞれの藩主に忠義を尽くせば足りるでありましょう。しかしながら天下・国家に志を持つ者は、お互いにそういう同志の者を友とすべきです。そして同じ日本国民としては、日の御子である天皇を仰ぎ奉り、また実際の政治においては将軍の命令を奉じてゆかなければなりません。
 大きな青い海は天地であり、日本列島は一つの地域です。東の水戸と西の久留米とは、遠く離れていますが、日本列島という一つの船に同乗しているのと同じではありませんか。
 ですから、道義道徳の根本である大義を踏まえて、天祖天照太神様をはじめ御歴代の天皇の御恩に報いる為に、力を尽くさなければなりません。
 そのためには、自分は、九州の人間だ。自分は関東の常陸の人間だ。或いは江戸の者だとか、土佐の者だ。などと言って、それぞれの地域に固まっていてはいけない。皆、同じ日本という船の乗組員として、一緒に行動しなければならない。もう、藩などにこだわっている時期ではないぞ。ということを説いているわけですね。
 このような会沢正志斎の考え方が、やがて藩を超えた天下の指導原理として広まってゆくわけです。


   4 明治天皇の小梅邸行幸と福羽美静

 さて、この水戸でおこり、水戸によって形成され、学問の主流・思想の主流となっていった水戸の学問。その水戸学の形成と達成の為に、苦心の研鑽、命懸けの実践活動をした水戸義公以下の多くの人々。こうした水戸および水戸の人々に対し、明治維新以後どのような評価がなされたであろうか、ということについて見てみたいと思います。
 明治八年の四月四日に、明治天皇は隅田川の河畔にあります小梅の水戸家の屋敷に行幸になりました。
 明治八年(一八七五)といいますのは、どういう時代であったか。簡単に解説しておきましょう。
 まず、遡りまして、明治二年に版籍奉還(はんせきほうかん)がありました。明治四年には廃藩置県が行なわれました。そして明治六年には征韓論(せいかんろん)問題がおこりました。西郷隆盛が下野(げや)し、板垣・後藤らの人達も下野を致します。そして翌七年には、征韓論で下野した板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・ L副島種臣(そえじまたねおみ)らが、「民撰議院(みんせんぎいん)設立建白書」というのを政府に提出しました。そして、この同じ年に、江藤新平が佐賀に於いて反乱を起こしました。これが「佐賀の乱」といわれる事件です。
 その翌年が明治八年。まだ西南の役は起こっておりません。西南の役は明治十年です。西郷さんは鹿児島において健在です。
 この明治八年の四月四日に、明治天皇は正院というところへお出ましになります。明治四年の廃藩置県に伴いまして、明治政府が組織替えされました。そして政府の中枢部となる三つの組織ができました。それが、正院と左院と右院。そのうちの正院が太政官の最高の官庁で、天皇ご自身が親臨され、万機、即ち全てのことを総覧されるという、重要な役所でありました。その正院にお出ましになりましたお帰りに、水戸家の小梅邸を親しく訪ねられたわけです。
 当時の記録を見ますと、午前十一時五十分に本所小梅村の徳川昭武邸にお立寄りになられました。本所小梅村は、現在の墨田区向島一丁目で、隅田公園になっているところが、小梅邸です。当時の水戸家の当主は、第十一代藩主をつとめた徳川昭武で、廃藩置県後この小梅に一時住んでおりました。
 さて、明治天皇が行幸になりますと、徳川昭武はじめ一門十五人の方々が心をこめてお迎えし、それぞれ拝謁を許されました。次いで明治天皇は、義公や烈公の遺墨・遺品などをいろいろご覧になり、そして御昼食後、高殿(高楼)から隅田川を眺められました。その日は、春爛漫の四月、隅田川の川岸は桜が満開だったそうですが、明治天皇が小梅邸に行幸になられるというので、漁師たちが六十艘ほどの船を集めまして、一斉に隅田川に投網を投げて、ご覧に入れたのだそうです。これは壮観だったと思いますが、明治天皇は大変お喜びになられたそうです。この時、明治天皇は二十四歳であられました。
 満開の桜の花に囲まれて、隅田川をご覧になっていらっしゃる、その時の情景を木村武山画伯が描かれました絵が、有名な『明治天皇小梅邸行幸の図』(明治神宮絵画館蔵)です。
 そして、その時に昭武公に賜わった勅語が、資料(その四)に掲げました勅語です。
    「朕親臨シ光圀齊昭等ノ遺書ヲ觀テ其功業ヲ思フ
     汝昭武其能ク遺志ヲ継ギ益勉励セヨ」


    (私は、親しくこの小梅邸を訪ね、光圀や斉昭などの遺書をみて、その素晴らしい業績を深く感じた次第である。昭武よ、出来るかぎりその遺志を継いで、ますます勉め励むように)
という、有り難い勅語を戴いたのでありました。
 ところで、明治天皇が義公や烈公の遺書をご覧になった時に、未だ封をしたままの烈公の手紙が三通ほどありました。明治天皇のご希望もありましたので、御前で昭武公がその封を切りました。その中の一通に極めて重要なことが書かれていたんですね。ただ急いで書いた手紙らしく大変読みにくいところもありましたので、お側におりました福羽美静に読むようにと、ご命令がありましたので、福羽が読んでさしあげました。
 その内容は、烈公がアメリカ・ヨーロッパへ渡りたいという、老中堀田備中守に宛てた願い書の案文(あんもん)で、中には、幕府から出していただきたい公費はこれこれだ、私費として自分はこれだけのお金を出す。というような計画まで書いてあったそうです。
 このことは『水戸藩史料』にも詳しく記されておりますが、烈公の考えは、日本へ外国人がやってきて、日本の港で貿易をするのではなくて、日本から出ていって外国で貿易をする。いわゆる「出交易論」(でこうえきろん)でありました。そのためには、まず自分がアメリカ・ヨーロッパを視察してこよう、という計画で、実際に幕府へ欧米派遣の申請書を提言したのはペリー来航以後四回位あったようですね。 藤田東湖の子孫の方がのちに語っておられるところでは、そのうち藤田東湖も一緒にアメリカへ連れて行くから、その準備をしておくようにと烈公から言われていた、というんですね。
 しかし、これは全部幕府によって潰されてしまいました。若し、このことが実現していたら、水戸はよほど変わっていたでしょうね。水戸藩の幕末の悲劇はなかったかもしれません。烈公が藤田東湖と並んでアメリカへ渡り、ヨーロッパを視察して、水戸に帰ってきて、新しい時代を築き上げていたら、水戸は全く違った姿になっていたことでしょう。
 それをさせてくれなかったところに、幕府の大きな間違いがあり、それがやがては、大変な苦境の中に水戸藩が追い込まれて行く原因ともなった、と考えられます。
 要するに、福羽美静が読んでさしあげた烈公の手紙には、欧米視察派遣要請のことが書かれてあったわけです。一説によりますと、この時大久保利通も陪席しておりまして、この手紙のことを知り、大いに感嘆して、
    「攘夷の事は、天下の人がみな、水戸烈公が主張者であることを知っている。ところが、なんと開国論の首唱者が、反って烈公であったとは知らなかった。その議論の卓絶していることは、驚くべきことである。
と語ったと伝えられています。
 さて、小梅邸では以上のようなことがありまして、午後三時二十分に出御され、それから浅草瓦町の尾張邸に行幸になられた、というのが、明治八年四月四日の日程でありました。
 その後、明治天皇は五月十五日に、昭武公に対し短冊を下賜されました。其の短冊には一首の和歌が認められておりました。
    「花くはし櫻もあれと此やとの世々のこゝろを我はとひけり」

    (「くはし」といいますのは、美しいという意味です。「此やと」は、此の宿で水戸家のことです。小梅邸の満開の桜の花は実に美しかった。しかし、桜の花を鑑賞するのが目的ではなかった。私は、この水戸家に代々伝わった、桜の花以上に美しい、水戸の心というものをたずねたのだ。)
 では、この「世々のこころ」とは何であるか。これは後程、最後に申し上げたいと思います。
 このように、明治天皇が明治八年に臣下であります徳川昭武邸に親しく行幸になられ、勅語を賜り、御歌までも下されたということは、明治天皇というお方が、お若くしてすでに水戸という存在、水戸の学問というものを、明確に認識しておられたということであります。
 では、どういう方々が、御教育申し上げ、御補導申し上げたのでありましょうか。
 早い時期には、山岡鉄舟や西郷隆盛など、いろいろな方々がお側に仕え、若き明治天皇を御教育申し上げております。
 その中の一人に、福羽美静という人があります。参考資料(その三)をご覧ください。
 侍講(じこう)として明治天皇の信頼も篤かった方でありますし、また、義公および水戸学を高く評価しておられた方であります。
 福羽美静は、天保二年に津和野(つわの)藩に生まれました。長じて藩校養老館に入学して岡熊臣(おかくまおみ)に学び、大国隆正(おおくにたかまさ)の教えを受けました。特にこの大国隆正は、水戸の烈公とも大変深いつながりがあった方だと言われております。このことにつきましては、福羽美静のことも含めまして、水戸史学会の名越時正会長が、先般発刊されました『水戸学の達成と展開』(錦正社発行)という書物の中に「津和野学派と水戸学派--福羽美静と田口秀実の交遊を通じて--」と題する論文を書いておられますので、是非お読み頂きたいと思います。
 ところで、福羽美静はその後、幕末期に尊攘の志士として各地で活躍をしましたが、やがて明治維新を迎えますと、明治政府に出仕するようになりました。
 まず、明治元年三十八歳の時に神祇(じんぎ)事務所権(ごん)判事になり、また御即位新式取調御用掛を命ぜられました。この御用掛は、新しい御代を迎えて、新しい形での御即位式を考えたいということで置かれましたが、福羽美静がほとんど一人でこれを調査し、検討したといわれています。
 なお、この年の四月十七日には、京都の東本願寺に明治天皇が行幸になりまして、福羽美静は命ぜられて『古事記』の読書講義を、御進講申し上げました。これは、諸藩士が明治天皇に御進講申上げた最初の例であると言われておりまして、以後何度か御進講を命ぜられおりますが、のちほど、また触れることに致しましょう。
 さて、明治元年八月二十七日、明治天皇の御即位式が取り行なわれました。
 従来の御即位式のやり方は、古くから所謂シナ(中国)風の儀式が取り入れられて来ておりまして、例えば、紫宸殿に火炉(香炉)を設けて、焼香をする儀式があるのだそうです。この時、この火炉をやめて別なものを置いては、という意見が出てきました。そこで福羽美静の発案で置かれたのが、大きな、直径一メートルもある地球儀でありました。
 その地球儀といいますのが、かつて嘉永五年(一八五二)に水戸の烈公が孝明天皇に献上申し上げた地球儀であったわけです。新時代を迎え、世界に飛躍して行く時の御即位式に、まことに相応しいものであるというので、その大地球儀が置かれたのだそうです。(置かれた場所につきましては、紫宸殿の正面にあります承明門(じょうめいもん)のところに置かれた、というふうに書いてある書物も多いのですが、明治天皇の御即位式絵図という、記録の絵図を見ますと、紫宸殿の前に、南階という「きざはし」(階段)がありまして、その「きざはし」をおりたところに、「大地球儀」の、絵と文字が書かれているんですね。ですから、承明門の前とはいっても、門の近くではなくて「きざはし」に近い方に置かれたのではないでしょうか。)
 御即位式に、新時代の象徴として置かれた大地球儀をとおして、烈公の心というものを、福羽美静は明治天皇にお伝えしたことになるんですね。
 翌明治二年になりますと、福羽美静は正式に侍講となり、いろいろな書物を御進講申し上げました。記録に残っているものとしては、『日本書紀』・『皇朝史略』・『神皇正統記』など、こういう重要な書物を講義されているわけでありますが、当然そうした講義の中で、水戸に関するいろいろなお話も、明治天皇にお話し申し上げたことでしょう。
 明治二年といいますと、明治天皇は御年十八歳であります。多感な青年天皇に対しまして、福羽美静たちは心を込めて御進講申し上げたことと思います。
 その後、福羽美静は宮内省出仕の侍講となり、また元老院議官・文部省御用掛、そして子爵・貴族院議員などを経まして、明治四十年八月十四日に七十七歳で亡くなっております。
 先程申し上げましたが、明治八年に、明治天皇が小梅邸に行幸された際にも、福羽美静がお側に控え、烈公の手紙を読んで差し上げております。
 さらに、こちらの常磐神社のご本殿の裏に、三つの石碑が並んでおりますが、向かって右側の石碑は『仰景碑』(こうけいひ・ぎょうけいひ)といいまして、水戸の常磐村の人達が、烈公から頂いた書を掛け軸に表装して、それを拝み、飢饉を忘れないようにと「御蔭講」(みかげこう)という講を続けていたことを、栗田寛博士が明治三十三年に顕彰された文章が刻まれております。その『仰景碑』という題字が、福羽美静の書なんですね。ここにも、水戸と福羽美静との深い縁をうかがうことができます。
 そしてまた、時期は少し前にさかのぼりますが、福羽美静は明治十四年に水戸を訪れています。まず常磐神社に参拝し、ついで大洗に行きまして、大洗磯前神社の祀官、のちに宮司となった田口秀実に親しく面会しました。田口秀実は藤田東湖から大変可愛がられた門人です。この時の二人の会合のことも、先にご紹介しました名越会長の書物の中に、詳しく説かれておりますので、ご参照ください。
 この津和野出身の福羽美静は、まさに明治天皇に直接お仕えして、水戸の学問思想、水戸の精神というものを、折りに触れて明治天皇に伝えてくださった人物の一人であろうと思います。
 一方、明治天皇の皇后、即ち昭憲(しょうけん)皇后(のちの昭憲皇太后)様にお仕えした方が、香川敬三という人物です。


   5 皇后宮大夫香川敬三

 香川敬三は、天保十二年(一説には、天保十年)に、常陸国の下伊勢畑(しもいせはた)村(現在の東茨城郡御前山村下伊勢畑)の郷士蓮田(はすだ)孝定の三男に生まれました。はじめの名を、蓮田了介広安といいました。
 幼くして、同じ村の吉田神社の神官鯉沼意信(おきのぶ)という人の養子になりまして、鯉沼伊織(いおり)広安と称するようになりました。さらに、勤王の志士として活動している間に、香川敬三と改名しました。ですから、蓮田了介から鯉沼伊織となり、香川敬三に変わったことになります。
 彼は十四歳頃に、お兄さんの蓮田東三(安政四年米使襲撃未遂・自訴・牢死)とともに水戸に出てきまして、藤田東湖の門人となりました。以後、ほぼ東湖門下の人達と同じような行動をとり、安政の密勅返納の問題でも、返納反対派として活動しておりましたが、どうも水戸藩の中にいては十分な活動が出来ないということで、一時脱藩しまして、江戸の薩摩藩邸に行って攘夷運動を続けていたようです。しかし捕らえられて、水戸藩の駒込邸に送られ、しばらくそこに幽閉されておりました。
 その後、文久三年(一八六三)に釈放され、第十代藩主の順公(慶篤・よしあつ)に従って京都に上り、一度帰りますが、秋にまた、徳川昭武公について再上洛しています。
 しかしやがて、再び脱藩しまして、非常に広い範囲にわたって、各地での活動を続けておりましたが、そのうち京都に戻った香川敬三は、当時、京都洛北に退隠中でありました岩倉具視(ともみ)を訪ねました。そして岩倉具視から認められて、仕えることになるわけです。
 香川敬三という人物が、明治維新において新政府に出仕してゆく、一つの大きなきっかけとなりました。王政復古計画などにも、彼はかかわっていたと考えられます。
 慶応四年(一八六八)、官軍が江戸に向かって進撃をしました時、四月一日に香川敬三は東山道先鋒総督兼鎮撫使(とうさんどうせんぽうそうとくけんちんぶし)大軍監(だいぐんかん)に任ぜられました。この時彼は二十八歳。以後関東地方各地に転戦しましたが、下総(しもふさ)の流山(ながれやま)(現在の千葉県流山市)で新選組の隊長近藤勇を捕らえて、これを斬ったと伝えられています。ただこれには異説もありまして、薩摩藩士の有馬藤太という人物が「俺がやったんだ。」と言った、という聞き書もあるものですから、どちらが本当の話なのかは、はっきりしませんが、昔から、香川敬三が流山で近藤勇を捕らえ、処刑したと言い伝えられているんですね。
 さて、明治二年になりますと、香川敬三は兵部(ひょうぶ)権大丞(ごんだいじょう)に任ぜられますが、翌三年には、宮内(くない)権大丞兼内舎人長(うどねりのちょう)となり、軍事的な役職から転じて、宮中での仕事をするようになりました。
 そして、明治十四年四十一歳の時には、皇后宮大夫(こうごうぐうのだいぶ)兼宮内大書記官になりまして、昭憲皇太后宮(こうたいごうぐう)の大夫(だいぶ)職に就き、のちには貞明皇后宮の大夫も合わせて、両方を兼ねた時期もありました。さらにその後、主殿頭(とのものかみ)・枢密(すうみつ)顧問官などを勤めて、華族に列せられ、明治四十年には伯爵を授けられました。
 その間、明治二十三年十月、近衛師団秋季小機動演習統藍のため明治天皇・昭憲皇后両陛下が水戸に行幸啓になりました時、香川敬三も皇后宮大夫として皇后様に供奉(ぐぶ)し、水戸にやってまいりました。
 十月二十八日の夜、皇后様は旧藩校弘道館に行啓になりまして、「是非、弘道館記を見たい」と仰せになりました。そこで暗闇の中、明かりを灯して八卦堂(はっけどう)の中にお入りになられまして、皇后様はじっくりと弘道館記をお読みになりました。
 そして非常に感動されて、その夜、香川敬三と山口正定(水戸出身)を御間に召され、
   「斉昭の忠誠は勿論、水戸藩代々の勤皇の実蹟誠に感じ入る。」
とお伝えになったそうであります。
 香川敬三は、主として皇后様にお仕えしましたが、勿論、いろいろな形で、明治天皇にも大きな影響力をもった人であったと思います。
 福羽美静は明治天皇にお仕えし、香川敬三は皇后様にお仕えしました。天皇皇后両陛下にお仕えした二人の重要な人物が、どちらも水戸の学問を学んだ人物であったということは、非常に重要なことであろうと思います。
 さて、もう時間がなくなってまいりました。最後のまとめに入りたいと思います。


   6 義公・烈公に対する御贈位

 義公も烈公も亡くなりました時には、従三位権中納言(じゅさんみごんちゅうなごん)でありました。
 まず、天保三年(一八三二)当時は烈公が藩主の時代でありましたが、五月七日に仁孝(にんこう)天皇が、義公に対して、従二位権大納言を御追贈になりました。このことにつきまして、『水戸藩史料』(別記上巻五)には、次のように書いてあります。
    「武家の叙任(じょにん)は、總(すべ)て幕府より奏請し朝廷之(これ)を認可するを例とす。然るに今や之に反し直ちに朝旨(ちょうし)を下したるなり。」
 これは、大変なことですね。従二位権大納言を追贈する、幕府を介さずに、こういう命令が直接朝廷から出るようになった。時代の大きな転換を意味するものです。これは仁孝天皇と光格(こうかく)上皇という方が、偉い方だったんですね。
 このお二人の御力によりまして、義公の業績が認められ、天保三年の御贈位となったわけです。 そこで、烈公はその御礼として、上皇がお住まいになる仙洞御所(せんとうごしょ)即ち大宮御所(おおみやごしょ)のお庭に水戸領産の石で作った雪見灯籠を献上申し上げたのでありました。
 文久二年(一八六二)に、今度は孝明天皇の勅語によって、烈公に対して従二位権大納言が追贈されました。こうして義公・烈公共に、従二位権大納言となりました。
 そして、維新後の明治二年(一八六九)、早くも明治天皇から義公・烈公への、贈位の御沙汰がありました。この時明治天皇は、御年十八歳。『太政官日誌』を見ますと、同年版籍奉還により藩主をやめ、知藩事となった徳川昭武公に対し、十二月二十日付御沙汰書で、
    ......徳川従四位昭武......
    「其先贈従二位大納言義公、兵革始息(へいかくしそく)
    (長い間の合戦が、初めて止んで)文教未明之時ニ方(あた)リ(まだ学問教育が盛んでない時に)、首(はじめ)ニ尊王之大義ヲ唱(とな)ヘ、君臣ノ名分ヲ正シ (一番最初に尊王の大義を唱え、君臣のあるべき姿を正し)、殊ニ心ヲ修史ニ尽シ以テ千古ノ廃典ヲ興(おこ)ス(大日本史の編纂に心を尽くし、朽ち果てそうになって隠れていたいろいろな史料・書物を発見し、継ぎ興しました)、其の功績深ク御追感(ついかん)被為遊(あそばせられ)(義公の功績を深く感じになられまして)、依之(これによりて)贈従一位宣下候事(せんげそうろうこと)(従一位を贈られることになりました。)」
とありまして、続いて、
    「祖父贈従二位大納言齊昭(この祖父といいますのは、実は昭武公は、烈公の十八番目のお子さんなんですが、長兄の十代藩主順公(慶篤)にお子さんがいなかった為、その養子になりました。十代が順公、十一代が昭武公という順序になるわけです。従って、形の上では、烈公はお祖父さんということになります。)、祖先義公之遺志ヲ継ギ、専ラ心ヲ皇室ニ存シ、内ハ綱紀ノ衰退ヲ憂ヒ(道義道徳の衰退を憂いまして)、外ハ辺備ノ怠弛(たいし)ヲ患(うれ)ヒ自ラ奮テ国家ヲ維持セントス(対外的な防備が不十分なのを心配し、自ら奮励して国家の安全を維持しようとつとめました)、其忠志(ちゅうし)、深ク御追感被為遊、依之贈従一位宣下候事。」
と、義公・烈公に対し、共に従一位を贈られたのでありました。
 さらに明治六年には、義公・烈公の神霊をお祭りする社に、『常磐神社』という社号が認められました。そして、翌七年十一月には、御祭神に対し、
 義公には、「高譲味道根命(たかゆずるうましみちねのみこと)」
 烈公には、「押健男国之御楯命(おしたけおくにのみたてのみこと)」
という、神号を賜りました。
 もちろん、常磐神社の社号および神号の御下賜につきましては、栗田寛博士という方の大変な尽力がありました。本日は特には触れませんけれども、この辺の事情は、このたび常磐神社から発行になりました『常磐神社史』に、詳細に記されております。この『常磐神社史』は、常磐神社の歴史とともに、水戸の幕末から明治・大正・昭和の歴史を知る上でも基本になる書物であると思います。是非ご一読をお薦めいたします。
 さて、暫く日月を経まして、明治二十三年(一八九○)十月に、近衛諸兵演習御親閲の為に、天皇・皇后両陛下が水戸に行幸啓になりました。行在所(あんざいしょ)は茨城県師範学校。ここで両陛下は、義公・烈公その他の忠臣の遺墨・遺品を御覧になり、御沙汰書を賜りました。
    「夙(つと)二尊王ノ大義ヲ唱ヘ(早くから、尊王の大義を唱え)、力ヲ国事ニ尽シ候段、御追想被為在(あらせられ)今般行幸ニ際シ思召ヲ以テ、祭粢料(さいしりょう)トシテ二百円下賜(かし)候事。」
ということで、藤田幽谷・東湖・会沢正志斎・戸田忠太夫などの遺族に、それぞれ祭粢料二百円を下賜されたのだそうです。
 この時に昭憲皇后様が、藤田東湖夫人が在世していることを聞かれ、是非会いたいということを、お子さんの藤田健さんに伝えられました。ところが、東湖夫人は高齢で、しかも中風に罹っておりましたので、御無礼になるといけないのでご遠慮申し上げたい、ということでした。そのため直接お会いになることは出来ませんでしたので、皇后様は大変残念がられて、藤田健さんに白絹一匹と金百円を下賜されたそうです。東湖夫人と子息健さんは、光栄に感泣して言葉もなかったといいます。
 なお、先程の弘道館記をご覧になったお話も、この行啓の時のことです。
 このような、水戸に対する明治天皇・皇后両陛下の暖かいお気持ちというものが、どれほど当時の水戸の人々の心を救ったか、計り知れないものがあったと思います。
 それから十年後、重ねて義公に対する御贈位がありました。
 明治三十三年(一九○○)十一月十五日、近衛師団小機動演習統監のため、当時の西茨城郡笠間町に明治天皇が行幸になりました。行在所(あんざいしょ)は西茨城第一高等小学校でした。そして翌十六日に東茨城郡杉崎村(現在の和尚塚付近)で演習を御覧になりましたが、この日に、特旨をもって侍従の北条氏恭(うじやす)という人を、常陸太田の瑞龍山水戸家墓所へ御派遣になり、義公に対する御贈位の勅語を賜りました。
    「贈従一位徳川義公、夙「つと)二皇道ノ隠晦(いんかい)ヲ慨(うれ)ヒ(早くから、天皇が日本の国を治めるという正しい道が隠れて見えなくなっていることを、非常に慨嘆し)、深ク武門ノ驕盈(きょうえい)ヲ恐レ(深く武家の驕り高ぶることを恐れて)、名分ヲ明ニシテ(君臣の間の道義というものを明らかにして)、志ヲ筆削(ひっさく)ニ託シ(書くべきことは書き、削るべきことは削る。具体的には『大日本史』編修のことを指しているのでしょう)、正邪ヲ弁(べん)シテ意ヲ勧懲(かんちょう)ニ致セリ(何が正しい、何が間違っているかを、明確に区別をして、善を勧め悪を懲らすということに、心を尽くしました。まさにこれは、梅里先生の碑文の中に「皇統を正閏し人臣を是非す」と書かれておりますことと、軌を一にする御言葉であると思います)、洵(まこと)ニ是(こ)レ勤王ノ倡首(しょうしゅ)ニシテ、実ニ復古ノ指南(しなん)タリ(初めて勤王のことを唱えたものであり、王政復古を教え導いた指南役である。「指南」といいますのは「指南車」のことで、昔シナにおいて、方向を知るために、車上に磁針を応用した木偶(でく)を装置し、その手指が常に南を指すようにして、道に迷わないようにしたものを言います。転じて教え示し、導くことを「指南」と言うようになりました。従って王政復古の正しい方向を指し示したのが水戸の義公である、ということです。)、朕適々(たまたま)常陸ニ幸シ、追念転(うたた)切ナリ(追慕の心は、ますます切実なものがある)、更ニ正一位ヲ贈リ以テ朕カ意ヲ昭(あきらか)ニス。」
こうして、ついに義公は、明治天皇によって正一位を贈られたわけであります。更に、明治三十六年(一九○三)六月には、烈公への御贈位の宣命(せんみょう)が、瑞龍山に伝えられました。
    「汝命(いましみこと)遠祖(とおつおや)義公の遺志を紹(つ)ぎ、心を大朝廷(おおみかど)に効(いた)し、文の道を修め、武の道を講(と)き、当時王(きみ)に勤(いそ)しみ国を愛(め)づる大義を倡(とな)ふるに当り、天下の安(やす)きも危(あやう)きも一向(ひたすら)に、其が身に負ひ持て仕奉りし勲功(いさおし)を愛(めで)給ひ、往年(ゆくとし)従一位を贈らせ給ひ、位記を授賜ひき、頃日(このごろ)曾孫圀順(くにゆき)(十三代当主徳川圀順氏のこと)仰せを奉(うけたまわ)りて、水戸藩史料を奏進(すすめたてまつ)れり(明治二十一年七月明治天皇の編修の命により着手、明治三十六年完成献上)、其が中に齊昭が国の為め、大朝廷の為め、左(さ)さま右(う)さまに仕奉のりし事蹟の多在る事を(いろいろと烈公が仕えた、その事蹟がよく示されているので)、褒給(ほめたま)ひ感(かま)け給ひ(これを褒められ、感動されて)今度更に正一位を贈らせ給ひ、位記を授賜ふ。」
X ここに、烈公もまた、正一位御贈位の恩典に浴したのでありました。


    7 おわりに

 いろいろお話してまいりましたが、確かに幕末の水戸藩というのは、いろいろな困難にぶつかりました。ある人の書きました書物には「水戸藩の崩壊」という名称が使われております。藩は文字通り崩壊したでありましょう。しかしながら、それは水戸藩としては、ある意味では覚悟の上であったはずです。すでに義公の遺訓の中にも、そうした意味のことが述べられておりますし、また烈公も、一橋家に養子に行かれた慶喜公に対し、
    「もし一朝事起りて、朝廷と幕府と弓矢に及ばるるがごときことかあらんか、我等はたとえ幕府には反くとも、朝廷に向かいて弓ひくことあるべからず。これ義公以来の家訓なり。」
と、その覚悟を説かれております。
 水戸が、義公以来の尊王の根本精神を貫いてゆけば、幕府とともに崩壊せざるを得ないわけであります。徳川幕府が滅ぶ時、それは水戸家が滅ぶ時なんです。
 「身を滅ぼして善をなす」という言葉がありますけれども、水戸の崩壊は、決して人間的な欲望の張り合いとか、あるいはつまらない争いごとによって、崩壊したのではありません。そこには、二百数十年を通じて、ずーっと伝えられて来た一つの理想があり、その理想実現のために、幕末の民族主義運動の中で、水戸藩はいろいろな悲劇に遭遇したのでありました。いわば、最も大きな悲劇を味わったのが、水戸藩であったと言ってもよいでしょう。
 しかし、その水戸の悲劇に御心を痛められ、同時に水戸の心を誰よりも明確に把握され、顕彰されたのは、実は明治天皇でありました。明治八年の御製には、
   「花くはし櫻もあれと此やとの世々のこゝろを我はとひけり」
と、歌われておりますが、では、「此やとの世々のこゝろ」即ち「水戸家の心」「水戸の心」とは、何であったか。
 これまでご紹介してきました、各勅語や宣命をもう一度思い返してください。みな同じように「首(はじめ)ニ尊王之大義ヲ唱へ」「夙(つと)ニ尊王ノ大義ヲ唱へ」「勤王ノ倡首(しょうしゅ)ニシテ」というお言葉が書かれております。 その明治天皇のお言葉に関連して、ご注目いただきたいのが、藤田東湖の『回天詩史』の、詩の最後の四句です。
 藤田東湖は、三十九歳の時に小梅邸に幽閉されましたが、その幽閉中に、自分のこれまでの生涯を「三たび死を決して而して死せず。二十五回刀水を渡る。......」と詩に託して振り返り、更に詳しい解説を加えられたものでありますが、その最後の詩に、
     苟 明 大 義 正 人 心 (苟も大義を明らかにし人心を正さば)
     皇 道 奚 患 不 興 起 (皇道奚(なん)ぞ興起せざるを患(うれ)へん)
     斯 心 奮 発 誓 神 明 (斯の心奮発神明に誓ふ)
     古 人 云 斃 而 後 已 (古人云ふ斃(たお)れて後(のち)已(や)むと)
という一節があります。まさにこれではないでしょうか。
 すなわち明治天皇が、此の宿の世々のこころをとわれた、「その世々のこころ」とは、「大義を明らかにして、人心を正す」ことであり、そうすれば、必ず皇道(日本の正しい道)というものを再び興起することができると、藤田東湖自身が神々に誓った、その心でありましょう。義公以来の、「大義を明らかにして、人心を正す」、正しい道義・道徳というものを明確にし、そしてそれを人々に伝えて行く、という学問・精神が、「水戸の心」であり、明治天皇がたずねられた「世々のこころ」であったと思います。
 弘化甲辰(こうしん)の国難以来、わけても安政の大獄から、明治初年に至る間、水戸にとりましては誠に不幸な出来事が続きました。輝かしい御一新も、悲しみの内に、多くの水戸の人々は迎えなければならなかったわけであります。その水戸に対して賜った、明治二年以後の明治天皇の勅語、御製、お言葉の数々は、水戸の人々の最大の慰めになりました。大きな勇気と、自信を与えてくださったと思います。
 水戸は、明治維新達成の為に、多くの人々が命をかけ、藩をつぶして、ご奉仕申し上げた。それを最もよく、的確に、温かく理解され、そしてその後の、水戸の人々に大きな心の支えを与えてくださったのが、明治天皇という御方であろうと思います。
  「洵ニ是レ勤王ノ倡首ニシテ、実ニ復古ノ指南タリ。」
まさに、これは天の声でありましょう。


 明治天皇の御生誕から、今年で百四十年。明治四十五年七月三十日に崩御になりましてから、今年で八十年。そして今日十二月六日は、徳川光圀公水戸義公の御命日という、ご縁の深い日でございました。 五回にわたる、平成四年度の水戸学講座の最終回と致しましては、大変まとまりのないお話になりましたが、これをもって終わらせて頂きます。どうも失礼を致しました。

            茨城県立茨城東高等学校教諭  但 野 正 弘





義公を中心とした水戸の学問系譜  数字は水戸藩主の代数

      林 羅山...┌人見卜幽(林塘)
     林 羅山...├人見 傳(懋斎)
    (周防の人)├吉弘元常(菊潭)
    (京都の人)├佐々宗淳(十竹)
     林 鵞峰...├中村顧言(篁渓)
(崎門学)山崎闇斎...├鵜飼真昌(錬斎)
     朱 舜水...├安積 覚(澹泊)
     人見 傳...├大串元善(雪瀾)          15代将軍
(崎門学)桑名松雲...├栗山 愿(潛鋒) ┏慶喜
          ┝━━粛公━━文公━━武公━━烈公━┫
義公(光圀)────┤ (綱条)(治保)(治紀)(斉昭)┗節公
2         │  3   6   7   9:  11(昭武)
          │               └‥‥‥‥‥‥‥‥‥┐
          │                   久留米   :
          │                  ┌真木保臣  :
          │                  │(和泉守) :
          │            ┌会沢 安 ┤長州萩   :
          │     │(正志斎)└吉田矩方  :
          │  │ (松陰) :
          │  │ 薩摩     :
          ├┬─────┬藤田一正─┼─藤田 彪┬西郷隆盛  :
          │:     :(幽谷) │ (東湖)│(南州)  :
          │: 立原 萬┘     │     │越前    :
          │: (翠軒) │ ├橋本左内  :
          │:           │     │(景岳)  :
          │└‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥┐│     │薩摩    :
          │  :│ ├海江田信義 :
    (福岡の人)├酒泉 弘(竹軒)   :│     │(有村俊斎):
伊藤仁斎...├大井貞広(松隣)   :│     │水戸    :
(崎門学)浅見絅斎...├三宅緝明(観瀾)   :│     ├茅根 泰  :
    (江戸儒医)├板垣宗憺(聊爾)   :│     │(寒緑)  :
          ├今井有順(桐軒)   :│     │伊勢畑   :
  朱 舜水...├今井弘濟(魯斎)   :│     ├香川啓三  :
福住道祐...├森 尚謙(儼塾)   :│     │(鯉沼伊織):
     松永昌秀 │           :│     │勝下    :
(伏見宮家)├安藤為実(抱琴)   :│     └田口秀実┐ :
(伏見宮家)└安藤為章(年山)   :│          │ :
:│          │ :
                      :│  岡 熊臣──┐ │ :
:│ 大国隆正──└┐│ :
:│  :┌────┘│ :
   :│ :└ 福羽美静 ┘ :
                      :│   :  :
                      :│   └‥‥‥‥‥‥‥‥┘
:│
:│
:└豊田 亮────┐
     :  (天功・松岡)│
:   ┌─────┘
┌‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ ┘ └栗田寛──┐
: (栗里)│
:  ┌───┘
: └栗田勤
: (晦屋)
:     (国学系)
├僧契冲──荷田春満──賀茂馬淵──本居宣長──平田篤胤

: (土佐・山崎闇斎門下)
└谷 重遠─────谷 干城
(泰山)