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水戸藩と水戸徳川家の家風

                  宮 田 正 彦

 今、名越先生からお話し(総題について)がありましたように、明治維新の性格というものを考えます場合には、どうしても義公(光圀公)の存在が非常に大きく、これを無視することは出来ません。ただいまのお話しの中村秋香の、「常磐の蔭」にも歌われておりますように、少なくとも明治三十年、四十年のころにはそれが日本人の常識でありました、義公がどういう学問をして、どういう判断を得、どういう事をなされたのか、ということについては以前から、この講座でも、だんだんとお話しがありましたが、義公のなさってきたことが、どういう形で明治維新という大いなる政治改革につながっていくのか、ということを五回に分けて、あらためて考えてみたいということが、今回の講座の主旨であろうかと思います。
 第一回は、水戸藩と水戸徳川家の家風という題になっておりますが、これは義公が生まれた水戸家、水戸藩というものには、何か特別な事情があるのかどうか、そういう中で義公は何を残していかれたのだろうか、ということが課題になろうかと思います。水戸藩、水戸家は、どういう藩であったろうか。
 徳川幕府の時代は将軍家の下に、二百七・八十の、一口に三百諸候といいますが、大名がおりました。これらは皆、封建国家でありますから、半ば独立国家であります。日本に大小合わせて二百七・八十の小さな国が分散していた。それが江戸時代であります。もちろんこれは強大な武力と経済力を持つ徳川本家の力によって抑えつけられておりました。従って日本全体としては、一つのまとりを持ったように見えますが、実際にはそれぞれの小さな国に分かれていたと考えていいわけです。水戸徳川家も、そういった小さな独立国の一つであります。
 水戸藩成立の事情につきましては、すでに水戸市史などで非常に詳しく分析検討されておりまして、付け加えることは何もありませんが、簡単に復習してみますと、家康には多くの子供がおりました。主だった子供はお頒ちした資料の最初にあります系図に書いてある通りです。二代将軍秀忠が三男、長男は早く自刃させられております。二男が結城秀康。後に松平姓にかえって福井六十七万石。五男坊が信吉。尾張の義直が九男。それから十男がのちの紀伊の頼宣。水戸の頼房公は十一男です。水戸はご存知の通りに戦国時代、佐竹によって支配されておりました。その前は江戸氏がおりましたし、その前は常陸大椽氏の勢力が及んでいたのですが、江戸氏に代わって佐竹氏が進出してきていました。しかし、その佐竹氏は関ケ原の合戦への参加の態度が悪いということで、秋田へ移されました。その空いた所へ家康は、自分の子供の信吉を大名として水戸へ入れた。この時水戸は十五万石です。慶長七年(一六○二)関ケ原の戦いの二年後になります。武田信吉といっておりますけれども、家康の実の子供でありまして、特に甲斐の名族武田氏の名跡を惜しんで武田の名跡を継がせ、そしてその武田の遺臣達、武田家に仕えていた武将たちを、その信吉に附属させた。ところがこの人は病身でもありまして、一年もたたないうちに死んでしまいます。二十一才でした。資料の下の所に善法寺浄鑑院-真光寺-瑞竜山と書いてありますが、これは亡くなった後、水戸市根本町の善法寺という所に埋められて、浄鑑院という建物が作られたそうですが、それが頼房公の時に真光寺と改められて、その遺骸はやがて義公によって瑞竜山歴代の墓に加えられて、瑞竜山に葬られた。水戸家歴代と同等の待遇を受けた、ということです。のちこの真光寺は那珂町の向山に移されまして瓜連の常福寺と合体しまして、ずっと続いていたんですが、天保年間、烈公が常福寺を今の場所(瓜連)に移したということで、そのあと天狗諸生の兵乱で、この向山の浄鑑院は焼けてしまうのですが、義公の一面として、これはちょっと余談になりますが、自分の伯父ではあるが、ほとんど関係の無かった、そういう人の菩提も弔っておる。義公という方が先人や自分の先生などに対して心配りの篤かった一つの例として取り上げておいていいことであろうと思い、ちょっとそこへ付け加えておきました。
 話を水戸藩へ戻します。信吉が亡くなりまして、翌慶長八年に家康の十男坊であった長福丸、この時まだ二才です。わずか二才で水戸二十万石、翌年二十五万石に増えます。段々加増しているんですね。この人は八才まで、いわゆる水戸の殿様であった訳ですが、一度も水戸へ来ておりません。この人はやがて紀州に移りまして紀州頼宣となるわけです。武田信吉は水戸の殿様になって、一応二十一才ですけれども病身であった。それから長福丸、これは二才で藩主になって八才までであった。藩主としての仕事はほとんど出来ない状態、そういう時には、どういう状態であったかと言いますと、慶長七年の検地のところに書いておきました。伊奈忠次、これはあの備前堀で有名な伊奈備前守忠次、それから島田重次、それから慶長八年のところにある芦沢信重とかいう人々が実務を担当しておりました。伊奈忠次は関東郡代をかねております。こういった家康の息のかかった人たちが実際の水戸藩の財政、政治の実権を握っていた訳です。水戸藩とはいっても、いわゆる水戸徳川家が水戸藩の本格的な領主になるまでは、ある意味では家康の直轄地みたいなものであったわけです。実際に残っている古文書の中に、この芦沢などの勘定帳、年貢の計算帳みたいなものがありまして、そういったものが家康あてに送られていたんです。
 水戸という場所は古く律令の昔から東北との境になっておりまして、関東防衛の最前線の位置を占めておりました。ですからここに家康が自分の子供達を配置したということは納得出来る訳ですし、藩として非常に重要な使命を持った藩であったということが出来ると思います。慶長十四年の十二月になりまして、結局頼房(のちに諡して威公)が水戸藩の藩主に任命されます。それが七才の時ですが、この時石高は二十五万石、家康はこの七才の頼房に中山信吉を附家老として附けました。頼房は元和五年十七才の時はじめて水戸に来ました。元和八年九月には三万石加増になりまして、二十八万石。寛永十八年に総検地が行なわれております。こうして、いわゆる水戸徳川家というものが始まりました。慶長十四年ですから関ケ原の戦いが終わってから九年程ですか、まだ大阪夏の陣はおこっていない。いわば戦国の時代がようやく終わりを告げようとしている、家康の覇権がほぼ確立した時期、そのころ水戸徳川家、水戸藩も、その基礎を置くことが出来た。
 この出来上がった水戸藩、威公以後の水戸藩の特色を箇条書きにしてみますと、第一に新規取り立ての藩であること、つまり戦国時代以来の大名ではない。ある意味では家康によって人工的に作り出された藩である。これはしかし、水戸家だけの特色ではありません。尾張も紀伊もいわゆる御三家というものは皆そうです。その他にもたくさん新規の大名がありました。二つ目に常府であること。これは水戸藩の大きな特徴でありまして、ご承知の通りに大名というものは、三代将軍家光の時代から制度化される参勤交代という義務があった。つまり、一年間は江戸で一年間は自分の領国で過ごす。一年置きに江戸に将軍のご機嫌伺いに出てこなければならない。これは紀伊も尾張も例外なく参勤交代の義務がある。「てんてんてまりてんてまり紀州の殿様お国入り」という歌がありますね。ところが三家の中で水戸だけは参勤交代の義務がないんです。常に江戸にいるというのが原則なんですね。水戸に行くときには、お暇をもらって水戸に行くということになります。つまり江戸にいるのが常態であって水戸に行くのは将軍からお暇をもらって行くことになっていました。つまりどうしてそうなったのかはよくわからないのですが、水戸藩だけは他の藩と違った特別な扱いをされていたのであります。そういう所や初代威公の気性が当時非常に有名であったこともあって、というのは、威公という方は、なかなか凡庸ではなかったようでして、親の家康は、「頼房は懐刀にいい」と、非常に役に立つ、将軍のためには役に立つけれども「鞘走らせぬようにしなければいけない」といったという話が残っておりますし、それからこれも逸話でしょうけれども、家康が子供達と駿府だかどこかの天守閣に居た時に、「誰かここから飛び下りてみる者はいないか。もし飛び降りる者がいたらば何でも望みのものをやる」といった。子供達は皆「ここから飛び下りたら死んでしまうから何をもらっても仕方がない」というようなことでしたが、威公一人が「飛び下ります」と言ったそうです。家康はびっくりして、「おまえ飛び下りるか、何がほしいんだ」「天下が欲しい」といったというんですね。「天下をここでくれてやってもすぐ死んでしまうじゃないか、それでもいいか」と言ったところが「たとえ一時であっても天下を取ったという名は永久に後世に残る。だから自分はここから飛び下ります」といった、という話があるんです。これも家康がそれぞれの子供達の器量を試そうとしたことの一つであるかも知れません。真実かどうか分かりませんけれども、そういう気性の激しい所もあった方で、こういった気性の激しさ強さというものは、義公がそっくり受け継いでいるようです。これは皆さんよく御存じの通りですけれども、六才か七才かの時に処刑した人間の首を桜の馬場から引きずって持ってこさせたという風な、威公も威公ですけれども、重くて持てないもんですから手に毛を巻きつけて引きずって持ってきた、義公もなかなか剛気だと思います。そういう性格的なものは割合、威公から受け継いでいるような気がします。威公という方については私もまだあまり勉強していないんでよくわからないんですけれども、剛気果断というだけではなくて、学問というものにも、やはり非常に心を向けた人です。そこに書いておきましたように人見林(ト幽)とか辻端亭(了的)、これは儒学者です。こういった人を藩に登用してやがてこれは義公のお相手にもなるわけですし、それから萩原兼従、これは神道家でありまして、威公は神道にも深く心を寄せたようです。この人を呼んで色々と勉強をしています。ただ具体的にどのような勉強をしたか、どういう成果を残したかということは分かっていないようです。しかしそういった学問への取り組みというものは次の義公へも伝えられていきます。威公はよくわかりませんけれども、ある意味では、この親にしてこの子あり、というようなところがあったんではないかという気がしています。
 それはともかくとしまして、水戸藩が定府であるということ、それから威公の気性ということなどから、いつの間にか水戸は副将軍だというようなことが言われるようになったようです。確かに三代将軍家光は、水戸の威公を頼りにしていたらしい。家光という人は参勤交代を制度化したり、鎖国を断行したり、ということでも分かるように、なかなか政治的な能力のあった人です。この人が将軍に就任した時に諸大名みんな挨拶に行きますね。お祝いを述べに。それを皆集めて、こう言ったんだそうです。「今日集まって来た大名達は皆、自分の父秀忠や、祖父家康とは同格の同僚だった人たちである。」戦国時代共に大名の一人として協力したり連合したりして皆段々まとまってきて家康が征夷大将軍に任命されたことによって、その下に服属するようになってきた、だから同僚という意識があるかもしれないが「余は生まれながらの将軍である。以後左様心得よ」と言ったそうですから、家光という人もなかなか大変なものですね。しかしそれだけに又、やはり、諸大名の反乱というところにも気を使わなければならなかったでしょう。これは家康、秀忠の時代に巧妙な大名の配置によって、その危険は随分押さえられたわけですが、まだ三代目のころにはそういう危険がないとは言えなかったんでしょう。そういう時に威公を非常に頼りにしたということもあったようです。これは具体的にはっきりしませんが、そういう風な関係から副将軍ということが段々言われるようになったようです。
 実は幕府の制度としては副将軍ということはないんです。全くありません。将軍が全権を握っていて副将軍というと、これを助ける政治的な実力がなければならないわけですが、水戸は御三家の一つでありますから、政治的には直接かかわらないんです。良く御三家だから政治的な発言権が強かったのではないか、ということが言われますが、それはある点では誤解であります。幕府の制度と申しますのは、将軍のもとに老中というのが頑張っておりまして、これは譜代の大名であります。その下に三奉行とか色々の組織がありまして、いわゆる天下を監視し徳川家の家臣団を統率している。御三家というのは家康の子供達が分家したものであって、幕府の政治機構の中で一定の役職を与えられたものではありません。もちろん例えば将軍の跡取りをどうするかというような問題の時には御三家が呼び出されて意見を聞かれます。そういう時の意見は重視されたようです。綱吉が将軍になった時などは義公の意見が取り入れられた。それからもっと後になりますけれども、例えば寛政の改革、松平定信を登用するというような時に、御三家の協力、推薦があったようです。この時には水戸家が中心になったという説もありますけれども、松平定信の場合には一橋治済が、最もよく動いたようです。それはともかくとしまして、将軍家の家政面に関しては発言権があります。親戚の代表としての発言権です。しかし通常の幕政の運営については、くちばしはあまり入れない。言い出せば少しは力になるんでしょうが直接的にはそういう役割はなかった。ですから副将軍というのは事実の上からも、また役職の上からも、有り得ないことであります。けれども世間の一種の見方として、それからまた水戸藩主の意識としても、この副将軍的な水戸家というものは他の御三家とは少々ちがうんだ、いざという時には将軍をお助けする、一番身近にいて将軍をお助けするのは水戸なんだ、という意識はずっとあったようです、ですから事実ではないけれども一種の雰囲気というか、観念として水戸藩というのは御三家の中でも特別なんだ、ということはあっような気がします。同じ御三家といいましても水戸は石高もずっと低い。それから極官と言いまして、生きている間に朝廷から頂く官位も低いんです。尾張と紀伊は権大納言ですが、水戸は権中納言、これが極官です。従三位権中納言。とかく三家の中では、三家といいながら水戸家だけがちょっと下がっているんです。けれども重要な役割があるんだという雰囲気がずっと続いていたらしい。つまり水戸藩が他の藩と違う所というのは、一つは常府であるという事、もう一つはもろもろの条件の中から副将軍という仇名を頂だいするような意識がそこにあった。そのような事がその後の水戸藩というものに、ずっと様々な形で影響しているように思います。
 よく幕末の対立闘争が、なぜ起こったんだろうか、ということを聞かれる事があります。これをお話すると長いことになってしまいますから、今日は止しますが、ああいった激しい争いが水戸藩の内部で起こってしまった底には、水戸藩が持つ一つの性質と言うか意識と言うかが底に流れているかも知れない。これはこれからあとの何回かの講義の中でさらに色々な角度から論議されることになろうかと思います。
 そういう風に見て来ますと、水戸家、水戸徳川家というものは他の大名から比べて特にずば抜けた武力、経済力を持つ藩ではない。御三家の中でも一つだけちょっと石高も少ないし身分もちょっと低いというふうな不思議な立場に置かれている訳です。しかしながら副将軍的な意味あい、意識、あるいは世間の目というようなものが藩にはある。いつごろそれが生まれてきたのかは分りませんけれども、これは一つ、前提としてあって良いと思います。
 ところで水戸の二代目の藩主は義公でありますが、この威公が義公を育てる過程でのエピソードは幾つかしか伝わっていませんが、どちらかと言うと鍛練、武将としての鍛練を重視した教育であったような気がします。義公はそれに対して、勿論武将としての鍛練は怠りません。自分でもお亡くなりになる年まで輿や駕籠には乗られなかった。歩くか馬である。それから雪の日にわざと旅をして部下を鍛練するというような事もしています。あらゆる機会に武将としての鍛練というものを重視しておりますけれども、さらに義公は学問というものを非常に重視された。そこに実は水戸藩の独特の気風というものが育っていく大きな要素が有るのではないか、という気がします。
 そこでお頒けした資料の「水戸の家風」とあるところの1の資料を御覧下さい。これは義公が隠居を許されまして江戸から水戸へ帰って来ました。その時に水戸城で訓話した内容であります。「水府備考」という書物にあるそうで、これは名越先生が見付けられた文章ですが、ちょうど義公が話されたような口調で書いてある。同じ内容のことは「桃源遺事」などに出ておりますが、義公が話されたような口調がそのまま残っているので読んで見たいと思います。
    「さて、おれは思う子細これあり、早くはあれど、我らは知るまいが、少将(綱條)儀、(第三代目のことです)兼々御願申上候所に」(将軍家に家督相続を願い上げておいた)早速隠居も仰せ付けられ」(自分の隠居が仰せ付けられ家督相続が許された)「その上有難い御意共もこれあり」(これは辞めるにあたって権中納言という極官に叙せられた。『位山登るも苦し老いの身はふもとの里そ住みよかりける』という歌をその時に詠んで、隠居されたということですが、このあたりのいきさつについても色々な事がありますが省略します。)「家督も相違なく本家へゆづり」(これはご承知の通り自分のお兄さんの子供を養子にして、それが綱條ですが、そこへ戻った、お兄さんの血筋に戻った、本家へ譲った、ということは讃岐の高松の頼重公の子供に後を譲ったということを、いろんな所で、非常にこれは満足だ、うれしいと義公は言っておられます。これはもちろん義公の学問実践の具体的な一つの例になる訳です。いずれにしても)「是ほど満足することはない、おれは是までじゃ、皆若いだが少将へよふ奉公をせい」(おれはもう隠居した、あとは綱條に奉公するように、宜しく頼む)さて、(その次です)「是は若いものじゃによって、心入れを言う。或は万一馬の先で君の為に討死をせふといふは皆人の知ていふ事だ、それは珍敷もない」(いざという時に君公の馬前で討死をする、これはもう武士として当たり前の事で皆が知っていて珍しくもない、しかしそうでない様々な問題がある)「死すまじき所にて死すというは本意というものでない」(しかしいつ人は不慮の死にかかるか知らん、場合によってはケンカ口論で命のやりとりというのもあることで、結構殺伐な気風は残っていたようです。君公の馬前で死ぬ、戦争の時に君の為に死ぬ、これはもう当然の事で誰でも分かるけれども、いつもいつも戦争がある訳じゃない。そこで死ぬ。それだけではだめだという訳ですね。結局どういう所で死んだらいいのか、何に命をかけたらいいのか、ここは死ぬ時なのか、死ぬ時でないのか、此の判断をしておかなくちゃいけない。つまり、)「ただ人は、人たる所以を知って、人の道を尽くすというのが大切じゃ。皆も学問なりとして、忠孝をはげめ、君、君たり、臣、臣たる道を知らず、死すまじくして死するは犬死にというものだ。ほめたことではない」(戦国時代の武将は、武士というものは、槍一筋で天下を目差す。武勇に秀でるということは大きな理想であった。いざという時には、君公の馬前に討ち死にをする。葉隠という書物には、武士道とは死ぬことと見付けたり、とあります。そういうことは一般的な意識としてあったでありましょう。しかし義公は死を全道に守るためには学問が大事だと言うことをここに説いておられるんです。つまり死すまじくして死するは犬死、逆に死すべき所に死し、生きるべき所に生きるためには道を知らなければならない。)「唯学問をして、道をも知らぬは人の本意ではない。皆若いじゃ程によふ学問を勤めて、少将へ奉公をせい」武芸を励む、これは当たり前の事だ、しかしそれだけじゃない、学問をしなさい、学問によって何が分かるのか、君々たり、臣々たる道が分かってくる。死すべき時に死し。生きるべき時に生きるけじめが分かってくる。それが学問なんだ。)
 もちろん、もうご承知の通り、ここでいう学問と言うのは、単なる知識の学問ではありません。現在いわゆる学校教育などで言うところの勉強とはいささか性質と目的を異にするわけですね。義公はそういう意味で、城下の若い人たちに学問をしろということをこの時言われたのであります。もちろんその前から諸国の学者を集めて、大日本史の編さん事業を進めております。また同時に史館(彰考館)では月毎に日を決めて講釈というのをやっております。大学とか孝経とかそういったものを史館の学徒たちに講義をさせて、武士たちに聴かせているんです。太田に隠居されてからは、馬場講釈として太田の馬場で、やはり月に何回かずつ講釈をしております。これは義公が亡くなってからも、しばらく続いていました。水戸では舜水祠堂、朱舜水をお祀りした堂があり、ここでやはり定期的な講義を続けています。これはずっとかなり続いております。寛政年間の「往復書案」を見てみますと、毎年のように舜水祠堂での講義の記録が届いておることが載っておりますので、これはずっと続いていたようです。そういう風に多くの人が勉強する機会、学問する機会というものを、ただ学問をせよというだけでなくて、そういう機会を作ってやっています。これは非常に大きなことだと思います。義公は学校を作るという考えもあったんではないかと言われています。というのは朱舜水に命じて、支那の学校の制度を調べさせたり、色々な建物や道具の模型を作らせております。その模型が幕府側の聖堂を建て直す時に参考にされた。しかし義公自身は学校というものを特に造らずに、史館、馬場、舜水祠堂の講釈ということで、ずっと通して来た。それを学校組織というものに発展させてきたのは烈公の時代なんです。烈公の弘道館というのはそういった義公の気持ちというものをさらに制度化し、拡大し、発展させたものであります。
 その次の資料は文公・武公・烈公の教育と題をつけておきましたが、義公のあと、しばらくはちょっとよくわからないんですが、文公のあたりになりますと再び学問が栄えてくる。立原翠軒という人が出てきて、史館総裁になって大日本史編さん事業を再び盛んにする。その門に小宮山楓軒とか藤田幽谷とかあるいはエトロフ探検の木村謙次とか、いろんな人が出てきます。水戸藩の文芸復興とでもいって良い時期が文公の時代でありますが、本日のテーマの中に水戸家の家風ということもありますので、ここには「水戸藩史料」の烈公の書簡を引いておきました。
    「我ら(烈公)抔は三ッ四ッの節より文公御供にて毎朝々々面白くも無之寒きに御庭の御供いたし武公の御代にも同様毎寒中御鷹に相成候へば御灯燈にて入らせられ、夜もまた御灯燈にてお帰りになる」、朝暗い内から明かりをつけて鷹狩りに出掛ける、夜も真っ暗になってから帰ってくる、それに年中御供をおおせつけられた。そのために烈公は「手も足も皆ひびにて血流れ申候」ひびが出来て血が流れてくる、それでは足を洗わなければと「足洗い候節にあかすりにてむしり取り候へば」、ひびあかぎれをあかすりでごしごしこすっちゃうんですから大変な事ですね。大名だからといって映画のバカ殿様みたいに、いつもあんなにテレッコテレッコしているわけではないんです。そういうのもいたかもしれませんが、水戸家というのは代々こういうふうに非常に厳しい教育が続いたんです。耳抔は霜やけにて不絶血のみ出候へき」、候へきと書いてありますが候ひきの茨城弁だろうと思います。烈公は武公のお子さんですから文公は御祖父さんになるわけです。御祖父さんやお父さんの教育と言うものは厳しかった。袴などもヨレヨレボロボロになる迄同じ木綿の袴を履いていた。ですから庭を歩くと袴のすそに落ち葉やなんかが一杯くっついてくる。そういうことも別な処で回想しております。質素な生活と言うもの、そして幼児から艱苦に慣れる、苦しみに耐える、そういう訓練が続けられていたようです。だから鶴千代、つまり烈公の長子、慶篤公(順公)に対して「鶴千代抔も寒く相成候はば朝は七ッ頃より起候て」日の出る前ですね、明け六つと言います。江戸時代は不定時法ですから今の何時ということは出来ませんが、日の出から日の入りまでを昼、また日の入りから日の出までを夜と分けますので、十二時間づつではない。冬は少し日中の時間が短くなりますが、真夜中が九ッ。九ッ、八ッ、七ッ、六ッときて、日の出る時を明け六ッといい、その約二時間前が七ッです。夜の明ける一・二時間前に起きて「水にて顔洗い」水です。お湯ではないんですよ。「入側の障子抔あけ」つまり外へ向かった側の障子なんかを明け放って「顔へ風のつんつんと当たり候所にて大声にて四書にても読み」風に負けないように大学とか孝経とか大きな声で読みなさい。「少々空しらみかかり候はば直ちに鷹に出」少々夜が明けて来たならば鷹狩りに出掛けなさい。「縦ひ鷹合不申日たりとも」鷹狩に出ない日であっても、「一廻り庭を廻り帰候て食事にても致し」庭と言っても我々の家庭のような猫の額のような庭じゃありません。小石川の後楽園を考えて下さい。当時はあれよりもっと広かったのです。「書物成剣術なり致し候がよろしく候こたつ抔へくぐり込居り候様にては迚も用に立候人には相成がたく候」。
 これは水戸家のあとを次ぐ慶篤公に対して心がまえを訓したものですが、もちろん他の子供達にも同様です。食事も絶対ぜい沢をさせない。『徳川慶喜公伝』を読んでみるとわかります。子供の時の服は全て木綿、寒中でも烈公は足袋などろくにはかなかったんですね。水戸家の気風の一端というものはそういうことで知られますが、結局、学問をするということは人の人たる道を知ることであります。知ったならば人としてなさねばならぬことがあるわけです。それを藩主として先に立って行わなければならない。だから真剣に考えれば考える程普段の鍛練が大事になって来る訳であります。決していわゆるスパルタ教育と言うような意味だけでは無くて、その藩主自身のあり方の中にすでに学問というものが陰を落としているのであります。
 文公という方は非常に義公を慕ったというか、義公の時代に為されたことを、考えた事を、復活しよう、あるいは威公、義公の時代のような時代に戻そう、と考えられたようです。この前見付けた資料の「往復書案」。これは江戸と水戸の両方の彰考館の総裁がやり取りした手紙の控えがとってあって、往復した書状の控えということで「往復書案」と名前がついております。これは膨大な量があるんですが、次の資料の享和三年の一文は藤田幽谷が自筆で控えて置いたものでありまして、文公の御心をよく明らかにした一文と思われますのでここに引用し、御一緒に読みたいと思ったのですが、時間もありませんので省略させていただきます。以下ちょっと省略致しまして、資料の三枚目の「往復書案」の方を御覧下さい。
 これは正徳二年の一文です。これは大日本史編さん上に出て来た問題について、江戸史館の総裁であった、酒泉竹軒と佐治竹暉の両名が相談して、その意見を水戸に送った文の中の部分を抜き出したものでありますが、意味を取りますと、二人で相談した、知力を尽くさざるところなく、真剣に討議した、とありまして、その次に「西山侍議之心地、乍恐奉感愴候」とあります。酒泉も佐治も、義公の生前に史館に挙げられておりますから、実際に義公の面前でいろいろな協議に与ったこともあったのでしょう。それを、折しも義公命日に思い出しているのです。正徳二年は、義公薨後十二年経っております。こういう気持ちがずっと史館の総裁や編修達の間に維持されている。これが彰考館の存在のもう一つの大きな意義だと思います。そしてこういった精神の中で、では義公は何を願ってこの仕事を始められたんだろうか、義公の大日本史編さんというものの本当のねらいは何だったのか、ということを真剣に考えて、そしてこうだということを見出だしていったのは藤田幽谷であります。そして幽谷によって明らかにされた義公の願い、これを承けて復活させて行こうとしたのが水戸藩の天保の改革なのであります。烈公時代に義公の理想が一つの大きな花を開くことになるわけです。
 それからもう一つ水戸の気風とか学風というものを支える大きな柱に、水戸家代々が純粋な血統を保ったということを無視出来ないように思います。義公がお兄さんの血筋に本家を戻した。これを非常に喜んでおられる。その気持ちが代々ずっと受け継がれて行くわけです。それは水戸家では幸いにして男の子がだんだんに続きましたのでほとんど問題にならなかったんですが、高松では非常に苦心があったようです。これは名越先生が論文に書いておられますから、ご興味のある方は今度出ました『水戸学の達成と展開』という中に収められている論文を読んで下さい。ずいぶん水戸家や水戸家の支流から養子をもらって高松は水戸との血のつながりを維持しようと努力していますが、それでも最後に井伊直弼の娘をお嫁にもらった為に非常な苦心があったということのようです。
 家の継続とか、血統とか、長男が跡を取るとかいうことについて、若いうちはあまり重要な意味を感じなかったんですが、最近になってこの義公の問題を考えていく中で、やはりこれは無視出来ない大きな意味があることだということが何か薄々分かって来たような気がします。この血統の問題で、水戸藩で大きな問題となったのは哀公が亡くなって烈公が跡をつぐ、この継嗣問題の時です。水戸藩士は競って江戸に出て、そして弟君の烈公を跡継ぎにということを運動しました。しかし水戸藩の重臣の中には清水家から養子をもらおうとする意見があった。養子をもらえば持参金もついてくる、という風な打算もあったんでしょうし、あるいは烈公が非常に英明な人ですから自分達の権力がそがれるのを恐れたのかも知れません。そういう陰謀が一時あった。それに対して威公・義公以来の純粋の血筋というものを守れという運動が起こってきています。水戸藩で問題になったのはその時ぐらいなんですが、しかし次に史料として引いてあります義公の遺訓というものが代々語り伝えられて行ったということは、やはり血のつながりがないと難しい問題だという気がします。
 それは詳しいことは省きますけれど、例えば尾張では尾張の敬公(義直公)は水戸の義公と同じように朝廷を尊敬しておって、幕府と朝廷とが対立した場合、武力抗争になった場合、朝廷に味方せよ、幕府の敵になってよいということを考えていたらしいということがわかっていますが、そういう意味では水戸家と尾張家とはおなじような土台を持っていた、といって良いのです。朝廷あるいは幕府に対しての考え方は、初めはしっかりしていたのです。ところが尾張はそれがいつの間にか消えてしまうんです。これは将軍家から養子が入ったりして結局ごちゃごちゃになってしまうんです。しかし水戸家ではずっと代々遺訓として承け伝えられておりました。いわゆる義公の遺訓といわれるもの、先の「学問をようせい」というのも一つの遺訓といえば言えるでしょうが、特に代々の藩主にとって非常に重要な守るべき遺訓は、綱條に与えた次の遺訓なのであります。
     元禄庚午冬、遁跡東海浜、致仕解印綬、縦作葛天民、盤施広莫野、一洗栄辱塵、昔延首陽蕨、今羮呉江蓴、三十有年来、夙志於焉伸、予去又何処、不知再開辰、鳴呼汝欽哉、治国必依仁、禍始自閨門、慎勿乱五倫、朋友尽礼儀、旦暮慮忠純、古謂、君雖以不君、臣不可臣」
 ここで一番問題なのは最後の文句、とにかく一藩の大名であり、封建領国の君主なんです。確かに将軍家との関係は有りますが藩主は一国の主ですから、家臣に対しては君の立場にあるはずです。しかるに、その君たる藩主綱條に対して何故「君以て君たらずと雖も臣以て臣たらざるべからず。」という言葉を遺したか。考えてみればまことに不思議な話であります。この疑問を解く鍵は、義公が君というものをどう考えていたかということを考えて見れば良い。つまりそれは『桃源遺事』に出てくる「我が主君は天子也」と、この言葉ですね。「将軍は我が宗室」である、取り違えてはいかんぞ、とこの君臣の道というものを変えることは出来ない、変えることの出来ない君臣の関係......誰を君とすべきか、ということは大きな問題です。そこの判断が明確でないために、世の中が大いに混乱し悲劇が起こったのは、これが承久の変であり、あるいは南北朝の内乱なんです。だから義公は南朝正統論というものを非常に重視された訳です。こういうことが明確になっていれば承久や元弘の変や南北朝の内乱というものは、おこりうるはずがないんです。それを明確にすることによって承久や南北朝の内乱のような悲劇を日本で再び繰り返してはならんということを人々に悟らせる、それが義公の悲願であったんだろうと思います。
 次の武公遺事を御覧いただきますと、ここにはっきりと、書かれておりまして、我らは幕府、つまり将軍家と天子様と、もし軋轢がおこった時には「天子に向かい弓を引かせられなば将軍家がいかほどごもっとものことにても」、どんなに将軍家が、例えば理非曲直をいえば将軍家が正しいということであっても「天子に御向かい弓を引かせられなば、少しも将軍家にしたがいたてまつる事はせぬ心得なり」「何ほど将軍家理のある事なりとも天子を敵と遊ばされ候ては不義の事なれば」と、これは武公がはっきりとそういっているわけです。そうして烈公に対して、この事を明確に心得よ。譜代大名というのはあくまでも徳川の家来ですから将軍を君と仰がなければならない。将軍と天子が戦いになった時には、京都と江戸が戦いになった時には、江戸の味方をしなければならないのが譜代ですから、水戸家からそういう譜代には養子を出してはならん、そこまで徹底していたわけですね。そういう義公の願い、あるいは、ひいおじいさんであるところの文公、おじいさんであるところの武公、お父さんであるところの烈公の、そういう思いというものを受け継いで、あの非常な日本国の危機混乱の最中に、大政奉還、一意恭順という未曽有の決断をもって、日本の危機を救い、そして日本の近代化の出発点を作ったのは十五代将軍の慶喜公でありました。慶喜公がどういうつもりで大政奉還、そしてそのあと、一意恭順という態度を貫かれたのか、ということについて、ここに『徳川慶喜公伝』を引いておきました。
 これは伊藤博文が直接慶喜公から聞いた話しとして渋沢栄一子爵に伝えた話しなんです。明治三十四年のころにや、著者栄一大磯より帰るとき、ふと伊藤公(博文)と汽車に同乗せることあり、公爵余に語りて『足下は常によく慶喜公を称賛せるが、余は心にさはいへど大名中の鏘々たるものくらいならんとのみ思いいたるに、今にして始めて其の非凡なるを知れり』」、なかなか優れた大名の一人というような感じでおったが今日になって、そうじゃない非凡な人だということがわかった、といっておるのであります。
    「伊藤公は容易に人に許さざる者なるに、今此言ありければ、そは何故ぞ、と推して問へるに『一昨夜有栖川宮にて西班牙国の王族を饗応せられ、慶喜公も余も其相客に招かれたるが、客散じて後、余は公に向かいて維新の初めに公が尊王の大義を重んぜられしは如何なる動機に出で給ひしかと、問い試みたり、公は迷惑そうに答えけらく、そは改まりての御尋ねながら、余は何の見聞きたる事も候はず、唯庭訓を守りしに過ぎず、御承知の如く水戸は義公以来尊王の大義に心を留めたれば、父なる人も同様の志しにて常々諭さるるやう、我らは三家・三卿の一として公儀を輔翼すべきはいふにも及ばざる事ながら此後朝廷と本家との間に何事の起こりて弓矢に及ぶやうの儀あらんも計り難し、かかる際に我らにありては如何なる仕儀に至らんとも、朝廷に対し奉りて弓引くことあるべからず。こは義公以来の遺訓なれば、ゆめゆめ忘るることなかれ、万一の為に諭し置くなりと教えられき、されど幼少の中には深き分別もなかりしが齢二十に及びし時(安政三・四年ころ)小石川の邸に罷出でしに、父 (烈公)は容を改めて、今や時勢は変化常なし、此末如何に成り行くらん、心もとなし、御身は丁年にも達したれば、よくよく父祖の遺訓を忘るるべからず、といわれき。此言常に心に銘したれば唯それに従ひたるのみなりと、申されき、如何に奥ゆかしき答えならずや、公は果たして常人にあらざりけり』といへり。」
 伊藤博文が感嘆したということですね。まあそう聞けば、親の教えに従ったのか、結構な事でありました、というようなことになるかも知れませんが、慶喜公がこの決断に至るまでの胸中の事はほとんど計り知る事が出来ない。三百年近くの絶大な権力を誇った徳川家の当主であります。徳川家によって扶持されている人間は非常な数にのぼります。例えば旗本という、一口に旗本八万騎といいます。家族やその家来を合わせれば、それくらいはいるかもしれません。そういった人たちの一切の生活や命を預かって尚且つ日本の国の政治の運命というものを双肩に担っている立場で、この宗家を投げ出す、この徳川家を滅ぼして一切を朝廷にお任せする、これはちょっと考えただけでも、そう簡単にできる結論ではありません。我々のようなちっぽけな家であれば、いつつぶれてもかまいませんけれどもね。父祖代々のことを思い、また多くの家来達の事を思えばこれは簡単な事ではない。心は千々にみだれたであろうと思います。ああもしたい、こうもしたい、ああならないだろうか、こうならないだろうか、さまざまな手だてを考えては実行し、実行してはまた修正する、そういう苦悶の中でやはり、どうしてもこの混乱を救って日本の統一を維持しながら、民族としての統一を維持しながら、新しい時代に向かって行くためには、これしかない、という、その最後の一点をやはり義公の遺訓に求めた。「君、君たらずとも臣、臣たらざるべからず。朝廷に弓を引いてはならん、再び承久・南北朝の内乱をおこしてはならない、という考え、この一点を守り抜いた。徳川氏がもし、本式に薩摩・長州に対抗すれば、南北朝の内乱どころではなかったかも知れない。箱根の関を境に日本が分裂し、フランスとイギリスの植民地になったかも知れない。歴史に"若しも"はありませんが、相当な危機的状況に立ち至った事でしょう。そういう事態を避けるための唯一の拠り処は、歴史の中から導き出された、ただ一言だったんですね。つまり義公の若き日の感動に発して、生涯をかけて明らかにし、そしてこれをもって二度とあの悲劇を繰り返さないように、という願いが遂にその子孫の慶喜公によって、見事に達成されたわけです。
 非常に不思議に思うんですが、どうしてこんな時に慶喜公のような人が出て来て、そしてどうして、うまい具合に最後の将軍になったか。何か日本の歴史というのは、大いなるはからいのようなものによって導かれているんではないだろうか、という感じがします。史記の伯夷伝の中で司馬遷は、いろいろな例をあげて、伯夷、叔斉のような清らかで純粋な人で悲劇的人生を送った人はたくさんいる。反対に大盗賊の親分で生命永らえて畳の上で大往生するやつもいる。悪いやつほどよく眠るということもあります。一体、天道は正しいか否かということを問い掛けていますが、もう一つ長い歴史のスパンで眺めると、その人の一生を越えた歴史のスパンで眺めれば、正に天道というものがあるという気がします。一つの例をここに見ることができると思います。だからこそ、明治天皇は先程、名越先生がいわれたように御贈位の詔の中で「勤皇ノ倡首ニシテ復古ノ指南タリ」と義公の立場を位置付けられたわけですし、水戸邸を訪ねられた時に「花ぐわし桜もあれど此やどの世々のこころを我はとひけり」、桜を見に来たんじゃない、水戸家代々の頼房公(威公)以来の水戸家の心というものを自分は訪ねて来たんだ、ということを歌われておる。正に義公の悲願・本願というものは慶喜公によって一つの見事な結実を迎え、明治天皇によって承認せられ、嘉せられたということが言えると思います。
 水戸家の家風というテーマを与えられ、どんなお話しをしようかと思ったのですが、結局一番大事なのは、水戸家の歴史的な役割は、義公にその本源があって、それがよく守られて来た、守るための一つのシステムとして彰考館というものがあった、それと、血筋の純粋さというようなものが、これを助けたんではないだろうか、と考えます。
 非常にあっちこっちした話しになって申しわけありませんでした。特に後半の本論とでもいうところを大急ぎで話してしまい大変失礼致しました。

                (平成4年8月講座)
             茨城県立歴史館史料部長・・当時・・