HOME >資料 >『烈公と慶喜公』

『烈公と慶喜公』


   烈公と慶喜公
             宮 田 正 彦


 今年は、王政復古の大号令、すなわち、明治維新の始まりから数えてちょうど百二十年にあたります。
 本年常磐神社におかれましては、このことを記念して、先月お祭が行われ、名越時正先生から、幕末の未曾有の危機を突破して、国体の輝きを発揮することが出来たのは、ひとえに十五代将軍慶喜公の大政奉還という大英断による。我が国が、国家民族の大分裂大抗争という悲劇を回避し得て、近代国家としての道をすみやかに歩み始めることが出来たのは、慶喜公によって大義が明らかにされたからであり、しかもその混迷激動のなかにあって大義を明らかにし得たのは、義公以来の水戸の学問によって鍛えられた精神、代々にわたって伝えられた遺訓によるものであったという主旨の、きわめて明快なお話がありました。
 本日は、第二回目の講座でありますが、先月の名越先生の御話しを承けまして、慶喜公とそのお父さんである烈公との関係を探ってみたいと存じます。
 慶喜公は、天保八年九月二十九日、烈公(斉昭公)の七男として、江戸小石川の水戸藩邸に誕生されました。お母様は有栖川宮王女登美宮(貞芳院)、烈公の正夫人であります。幼名は七郎麻呂、名は昭致(アキムネ)、字は子邦、号を興山といい、また經綸堂と称しました。誕生の翌年、二歳で、父母の膝下を離れて水戸に移されました。
 それ以来一橋家に養子に行くまでの十年ほどの間、水戸で生活し水戸で教育を受けます。その教育の方針、烈公がどういう教育を子供達に与えようとしたか、また幼いころの慶喜公をどう見ていたか。
    烈公は都会軽佻の風俗が幼稚の心に浸染するを恐れ、且つ文武の修行も思ふに任せず、附人又は著服等までも、封地に比して無益の失費少からざるを慮り、幕府に請ひて、諸公子は悉く水戸に下さるゝ事と定められき。されば公も誕生の翌年、天保九年四月を以て小石川の邸を発して水戸城中に移られ、爾来数年の間一度も江戸には入らせ給はざりき。公稍長じて文武の修行にいそしまるゝに及びては、日々弘道館に通学あり、文学は会澤恒蔵・青山量太郎の二人之を教授し、武術は福地政次郎鉄砲神発流、佐野四郎右衛門弓術大和流 雑賀八次郎剣術水府流、久木直次郎馬術、当流等、各其長ずる所を以て師たり。烈公甞て公の傅役井上甚三郎に、諸公子教育の要を諭されし書の中に、庶子は嫡子と異なりて、養子に望む家あらば直ちに遣はすべきものなれば、永く我が膝下に教育し難し。されば文武共に怠らしむべからず、若し他家に出し遣る時、柔弱にして文武の心得なくば、我が水戸家の名を辱しむる事あるべし。 水術・弓術・馬術の三科は并に修業せしむべし。中にも馬術は馬場にて乗るのみにては何の用にも立たず、山坂を乗り廻らん為に、度々好文亭の邊、仙波のあたりを廻るべし。湊などへも、手輕に附の者どもと遠馬に出づるやう扱ふべし。但し子供始め腰辧當たるべし。後年公が馬術の非凡にして、所謂大名藝にあらざるは此に本づけり。
付け加えれば、水戸家の若君は、普段の食事も一汁一菜というのが原則でありました。服装も、毎月一日と十五日と二十八日は式日で、この日は黒木綿の紋服に麻裃であったのですが、平日は手織りの木綿の服に小倉の一重の袴を着した。夜着も布団も全て麻や木綿であった。当時絹が上等なものですけれども絹製品は一切用いなかった。お米も白米ではありません。一汁一菜といいましたが、魚や肉が出てくるのは月に三回、そういうふうな質素な生活でありました。烈公もそうでありました。烈公の伝記を見ますと、若い時代には冬も素足であった。足袋は履かなかった。冬はアカギレが切れて血がにじんで痛かったけれども、そのまま我慢した。袴も木綿の一重の袴で通した。いつも履いているものだから裾がほつれて糸屑がぶら下がっている状態であった。秋や冬に庭を歩くと、それに落ち葉がからんで、くっついて来る。とあります。非常に水戸家は生活面において質素を旨としたのでありました。その質素の中で体を鍛え心を養うということを眼目にしたのであります。
一寸付け加えます。最後の部分に、公が馬術の名手である、とありますが、これはお世辞ではありません。後に、禁門の変(蛤御門の変)の折りには、砲声の轟く中、馬を縦横に走らせて指揮したということです。その他、鉄砲、弓など大概のものは修練したようですが、水泳だけはどういうものか駄目であった、ということです。
    公は體力強健にして、武技をば喜び給へども、文学の道は懶くおぼされて読書を好まず、近侍の諫めをも用ゐ給はず、されど天資明敏、殊に剛健の気質に富まれしかば、自ら同胞の公達とは異なりて一際秀でさせられたり。天保十三年公六歳の頃は、烈公就封の際なりしが、諸公子を品評せる詞に、「五郎(後の池田慶徳)は堂上風にて品よく、少しく柔和に過ぎ、俗にいふ養子向きなり。七郎即ち公は天晴名将とならん、されどよくせずば手に餘るべし、八郎(後の松平直候)は七郎に似、九郎(後の池田茂政)は五郎に似たり、十郎(後の松平武聡)はは未だ分からず」と仰せられ(晩香堂雑纂所収・藤田東湖書簡)また七郎と八郎とは御用にも立つべき者とも仰せられ(新伊勢物語及烈公親書・類纂補遺所収烈公書簡)同じ頃紀州家(藩主徳川斉順)にて養子選択の聞こえあり、 側用人藤田虎之介など、密に諸公子の中より之に擬せんとて、烈公の内旨を伺へるに「尾紀の両家ならば養子に遣るもよろしからん、さど七郎は世子の控えに残し置きたければ、五郎を出すべし、然らば世子(慶篤卿)の次は七郎となりて便宜なり」といはれしが(晩香堂雑纂所収・藤田東湖書翰)翌十四年また諸公子の中を尾州家(藩主徳川斉荘)へ遣はさるべきかなど内議ありし時にも「七郎と八郎とは教育が大切なり、十五六までは手放し難し、善悪に大害なき五郎を遣るべし」と申されたり。(尾紀両家へ養子の事は遂に行われざりき・烈公親書類纂補遺所収烈公書翰)
 弘道館における烈公のお子さんたちの毎日はどういうふうであつたか、「慶喜公伝」は次のように伝えています。
 朝は早く起きて顔を洗います。衣服を着替えて着座する。家来のものが見台を置きます。そこに四書五経を持って来ます。前の日に教わった書物です。それを声を出して読む。一巻の半分くらいを読みます。その間に家来が後ろで髪の毛をすいて支度をします。間違うと後ろからその家来が指摘します。このように、朝起きてからすぐ勉強です。終わりますと朝ご飯を食べます。それから十時頃までは習字、そして皆んな揃って弘道館に行きます。午前中は本の読み方などの講義を聞きます。昼はお城に帰って来ます。食後は一定の時間の休憩をしますが、午後は武芸です。夕飯までやりまして、夕飯後は朝読み残したところ、朝ごはんまでにやり残した所を復習致します。そしてようやく寝ることが許されます。これは皆、五郎も七郎も八郎も同じです。そういう生活でありました。ところが慶喜公はやんちゃで、意地張りなところがありまして、勇ましい事は大好き、本を読むのはどうも好きでない。いろいろ回りの家来たちが言いますが聞かない。これは罰を与えなければならないということで、指と指の間にモグサを置いて灸をすえる。「右の食指にすえ奉り」と書いてあります。それでも頑として読まない。何遍もそれをやられるものだから、しまいには灸をやった所が爛れてくる。腫れ上がる。それでも読むと言わない。灸を我慢していたほうがよっぽどよい。というところです。「公はなほ悔悟の状もなく、これをだに忍びをほせば、陰気なる書物を読むに及ばねば却って心やすしと平然としておわしぬ」と書いてある。結局家来も持て余して、烈公に申し上げます。烈公も、それはいかん、そこまでやって聞かないのであれば、というので、座敷牢をこしらえまして、閉じ込めてしまう。ご飯も食べさせてはいけない。そういう処分を受けてしまいます。これでようやく懲りて反省したということです。また、朝の、髪を結いながらの読書の時、たまたま供のものが座を外しますと、パパッと二三枚めくってしまう。ところがこれが烈公に見つかってしまう。また座敷牢に入れられる。このようにあんまり本を読むのが好きではなかった。しかし、読んだものは覚えておりまして、読むのも早かったようです。そのことは烈公の書簡(県立歴史館蔵自筆書翰)にあります。
 この書翰は新井源八に宛てたもので、八郎が十才の時、那珂川を泳ぎ渡った事について報告があったので、さらに教育に力を入れてくれるように、と
    水術は勿論外文武とも国元とちがい江戸へ入れ候へば当人の損に相なることにて、七郎義はこの方に居り候節は史記十三冊五郎丸に先んじ候ところ、一橋に行き候ひては大いに怠り、いまは五郎丸義、史記をあげ貞観政要に相成り、これも近日上げ申べきところ、いまに一橋にては史記も上がり申さざる由、云々、

と述べています。一橋に行きましても、川路聖謨が、一橋様は武七文三というふうにお見受けするが文武共に五分五分になるように努力されたい、といっておりますから、十代の頃まではどちらかと言いますと、読書というよりは、馬術とか剣撃とかいうものが好きだったようです。 弘道館に毎朝五郎や八郎と行く訳ですけれども、七才八才というのは腕白ざかりです。石蹴りをしながら行くのですね。供のものは具合が悪いから、お止めください、と言うのですが、肯かない。家来があまりやかましいので、ある日の帰り道に、七郎丸は一計を案じ、四人の兄弟が前と後ろと右と左に離れ離れに分かれて、みんな石を蹴りはじめました。それで供のものが、右を止めていると左が留守になる、前を止めていると後ろが留守になる、供は二人ですから全部を同時に止める事ができない。誰かが蹴っている・・・。この事の張本人は七郎であることが忽ち露見しまして、烈公の耳に達します。これも七郎あれも七郎と過失は多く七郎に帰したということです。いろんな逸話がありますが、これは慶喜公伝の逸話篇の中に出ています。ただ、わがままとといいましょうか、ちゃめといいましょうか、強情といいましょうか、そういうところがありましたけれども、筋の通った教訓というものは、ピタッと守っています。これが慶喜公の特徴ですね。その一つをあげますと、供の者から、武士には利き腕というものがある。つまり右の手です。刀を使う手です。これを失ってはいけない、と言うことを教えられます。
 凡そ武士は利腕といふ事あり、利腕とは右の手を申すなり、されば武士たる者は片寝するにも必ず右を下にすべきなり、若し左を下にして熟睡したらん時に、敵不意に襲い来たりて、右の利腕を執らんには如何すべき、此事よくよく御心得ありて、かりそめにも右を上にして寝させ給ふな昔夢會筆記 こう聞かされると、 幼心にも尤もな事であると、納得された。老後に至るまで右を下にして寝ることを習慣とされたということです。
 書物を読まないということを言いましたが、二十二、三才の頃にはもうどんな書物もよく読んでおられます。愛読の書物は「資治通鑑」「孫子」などであった。また、自分の不得手な事については徹底して直そうとする気迫のあった方であります。小さいときの話として、慶喜公は雷が大嫌いでありました。雷が鳴ると顔色が変わるというぐらいに怖がっていたのですが、供のものたちが、雷というのは決して怖いものではないと、励まします。
    近侍の人々雷鳴の理由を説き、恐るべきものにあらざる由を告げければ、公は之に励まされ給ひてや、或日空俄に雲立ちて、雷鳴烈しく、風雨さへ加はりて、物凄きまでに荒れすさびたるに、公は平日には似ず、恐れ驚き給ふ気色もなく「いでや此雷雨の中にて徒歩打毬せん、疾く用意せよ」と仰せらる。余りの事に近侍の人々は互いに顔を見合せて、「迅雷・風烈には必ず変ずと申す聖語も候へば、思ひ止まらせ給ふべし」と申しければ、公は打笑はせ給ひて、「卿等が日頃の言葉は何事ぞ、軍の大将たらん者が、合戦に臨み、雷雨なればとて鎗を合はさで止む法やある、いざ来よ」とて、真先に庭に下り立ち、篠つく雨をも、はためく雷をも物ともせず、人々を相手に打毬の勝負を争はせ給へり、公時に十歳なり。其幼時より克己の気象を具へさせたる、此一事にても窺ひ知られたり。久木久敬談話
 この逸話などは、公の意志の強さを示す一つの例になりましょう。一橋に行ってからですけれども、将軍家の狩猟のお供を致します事が決まったとき、毎日のように屋敷の中の馬場に、猪に見立てた豚を追い出しまして、馬に乗って豚を追っかけ回す練習を致しました。それを繰り返している内に、馬も豚の動きに慣れまして、これならば猪も仕留める事ができるというふうに練習をした。これは実際の場面で遅れを取らないようにしようということでしょう。
 概略、少年期の性格・性質というものは、このようなものであったようであります。一口で言えば、非常に頭の切れる聡明であるが元気のよい、勇ましいことが好きで、多分に自己主張も強いが、これはいかんという時には素直に改めようと努力する、意志も強い。こういう子供は親にとっては頼もしくもあるが、心配でもある。烈公が七郎と八郎は教育が大切なり。十五六までは手放し難し、と言われた気持ちが分かります。こういった慶喜公の様子を見てみますと、東湖先生がある程度似ていることに気づきます。本当に大事をなし得る人は少年の時から桁外れのところがあるのかも知れません。烈公もいろいろと末頼もしくもあり、心配でもあつたのであります。
 さらに公は、十一歳で一橋の養子になります。その後の烈公との関係でありますが、十五歳くらいまではお付きの者が慶喜公を戒める時には、水戸の御両親様からこのようなお話しがございましたというふうにいいますと、そうであったか、ということで、素直に聞いたということでありますが、初めはさすがに水戸、水戸というような事でなにかと水戸振りが目立ったようであります。これが一橋の家来にとっては面白くない面がある。そのことに気が付いた慶喜公はすぐに改めまして一橋家の仕来り、家風というものを勉強して、努めてそれに添うようにしたということです。
 一橋家は大名の格式はもっていますが、大名ではなく、将軍家の身内なんです。言わば部屋住と同じようなものなんです。こうした立場が、後の将軍後見職になったり、京都守護になったりしてからの、さまざまの対応の仕方に通うものがあったと思います。世の中には慶喜公が将軍になりまして、新しい政治体制を自分がリードする、徳川王朝を建設しようとしたんだ、と言うことを言う人がおります。また慶喜公折々の行動の中に、その決断が矛盾している、権力主義である、いう人がいます。慶喜公を信頼した松平春嶽公なども、前に言ったことと違うではないか、といって喧嘩する事があります。これは慶喜公がその場主義であったということとは違うと思います。その立場に立てば、抱えているところの問題が、すぐに分かる方であったのであろうと思います。そういう立場に立てば、かくあるべし、ということが分かる。一橋家に入ってから、一橋家の人々の心を捕らえて行く様子や、水戸家の風を一橋にいれるという事をしないで家風にならうというような態度の所に既に現れている。慶喜公の大政奉還に至るまでの行動と云うものを、細かく追って行くときに、慶喜公の性格として、強情ではあるけれども立場というものに非常に敏感な性格であったのではないかと考えて見ますと、つじつまが合うように思えます。
 一寸脱線しましたが、慶喜公の性質が見所があるだけに、烈公もいろいろと心配であったようでありますし、慶喜公のほうでも一橋はそういう家でありますから、子飼いの家来がいない。ほとんど幕府から派遣された人々でありまして、一橋家の家老は幕臣であります。ですから親身になって慶喜公を教訓する人物はいなかった。嘉永六年、十七歳。松平春嶽などを初めとして将軍家の跡継ぎに慶喜公をという運動の起こった時期でありますが、水戸から誰か然るべき人物を推薦してほしい、どうも当一橋家には思い切ってものを言ってくれる人がいない。左様、然らば、ごもっとも、が多すぎる。どうかものを真っすぐに言ってくれる人間がほしいということを水戸に申し送ります。この時に藤田東湖の推薦によって慶喜公の側近に仕えたのが平岡圓四郎という非常な無骨な男であります。まさに水戸っぽそのものというような人物であります。この人はだんだんに慶喜公の信頼を得まして、活躍するのですが、やがて暗殺されてしまいます。元治元年の六月の事であります。そのあと慶喜公に仕えて懐刀になったのが、原市之進であります。こういったことを通して水戸家とのつながりは続いております。
 嘉永六年十月、烈公は一橋の屋敷を訪問します。その時に慶喜公に、烈公の紺糸威しの鎧を譲ることを約束されますが、帰ってから烈公は、それよりも紅梅威しのほうがいいんじゃないか、これは自分は追鳥狩にもしばしば着たものであり、威し糸の痛んだところは貞芳院(慶喜公の生母)が手を加えて修理しているもので、小ぶりであって丁度いいだろう。下着類その他一切そろえて上げましょう、という手紙を烈公は書いておられます。こんなところにも、烈公の思いが伺われます。
 このように、一橋に行かれてからも、烈公は何くれと心を配っておられますが、年若い慶喜公に対する教育の中でも大きな一つは安政二年六月十九日(慶喜公十九歳)に著されました「銃術問答」であります。
    問て曰、拙者是迄某流の砲術を學び候得共、近来世上専ら西洋の砲術行ハれ候間、新ニ西洋流を學ひ候ハんと存候處、得失如何可有之哉
というように問を設け、それに対して答えていわく、というようにして、烈公が答えられる形式になっておりますが、具体的な銃術の問題とともに、この書物で大切なのは、西洋の技術の長じた所を取り入れるのはよろしいが、日本の本来の武士の精神いうものを忘れてはいけない。あくまでも自分が基本となって、日本の国が中心となって、西洋の優れたところを取り入れる。採長補短ですね。
    答て曰、我佛尊しとやらんいへる諺の如く、世の武芸を学び候者、己れが流儀のみ尊候て、他流の善を取候事をしらす、然るに貴殿既に某流を被學、又西洋の流をも被學候はんとの儀、近頃感心の至に候。西洋の術如何にも着実便利の事多候間、国体の本末、制度之異同、風俗之厚薄よくよく合点被致、其上にて彼が長ずる所を取りて我が短なる所を補ひ、我長ずる所をばますます是をふるひ候御志に候はゝ、西洋流御研究の儀至極御尤に存候。
独善を戒めると共に、「国体の本末」を忘れるな、と述べられています。
国体の本末については、左の通りです。
    問て曰、国体の本末とは如何。
    答て曰、申迄ハ候ハねども大日本国ハ天照大御神の詔のまにまに、御代々の天皇しろしめされ、天地日月と共ニ長久の御国ニ候得は、実ニ世界の大本ニて、海外萬国ハ皆末にて候。然るニ漢學ニなつみ候者ハ漢土を學ひ、蘭学ニなつみ候者ハ西洋を慕ひ、本末取失候もの不少、漢土も西洋も其君臣しはしは位をかへ候得共、我朝のみハ天地之初めより幾萬年歟經て今日ニ至る迄、神胤一本ニて皇位を續き給ふ事、決而外国に其例し無之、されハ三代将軍の御意ニも、御国内之戦争ハ、源平其外互ひニ勝負有之候迚も、其者限りニて日本の耻辱ニあらす、日本之土地人民、一寸壹人たりとも外国へ被奪候而ハ日本之耻と被仰候儀、誠ニ御尤之御事ニ候。されハかりそめニも御国ニ生れ候人々、家中々々ハ其国主・領主を守護し、国主・領主は大将軍を輔けまゐらせて、天皇を守護し奉り、大日本之威稜を六合ニ耀さんと志し候儀、即ち大和魂ニ候、別而武家心得之第一と存候。
 これが安政二年六月十九日なんですが、続けて、もう一つ銃術の外に、馬を養うこと、学問をすること、政治上の心得についても長い文章がありますが、この中でも、やはり国体の論、ということを繰り返しておられます。この書物の後書きに、一橋から問い合わせがあったので書いて送った、と書いてあります。そこのところは文字通り受け取っていいのか。私の思うのは、烈公が自分で質問の問題を出し、答えられた。慶喜公に問題をしっかり教えておかなければならない、という所を文章にしたのだと思います。この問答著述のきっかけは、六月十七日です。二日前です。山国兵部が、この人は水戸の兵学家ですが、この日の午後に一橋邸に上がって慶喜公と戦術や兵器のことを問答しているのですが、その時山国兵部は、慶喜公がよく物事の本質を見抜いておられて、質問も鋭く適切であった、と驚嘆しているのですが、おそらく帰って来て、烈公に復命したのであろうと思います。そのことが、銃術問答を烈公が書かれた動機になったのではないかと思います。水戸の弘道館での教育も十分でなかったので、慶喜公に伝えていない事もあると思われて、何らかの形でこれだけは伝えておきたい、と思われていたことが、たまたま兵部とのことを幸いとして、西洋の兵器・兵術を学ぶことに関連して、文章にして慶喜公に送られたのではないか。親として、水戸家の歴史を背負う烈公として、十九才の慶喜公に伝えておきたいことを初めて文章にされたのではないかと思います。
 その年の十二月に慶喜公は結婚します。十月には大地震で東湖先生が亡くなられますが、年表の翌安政三年三月十五日に川路聖謨より「嚶鳴館遺書」を呈す、と書いてあります。これは、尾張の学者で上杉鷹山候に仕えた細井平洲という人が書いた、政治、財政、教訓色んなものを含んでいまして、当時、大名が読んで役に立つ書物であったようであります。これを川路聖謨が献上しているのてす。その時に川路は書状を添えて、世情に通じてほしいとか、文字の学問の方もお願いしたい、などと言っているのですが、なぜ幕府の臣である川路が慶喜公に書物を送りその上に、意見や教訓を述べるようなことをしたのかといいますと、その手紙の初めに、書いてあります。前々から、藤田東湖を通して烈公からなんぞ慶喜の為になるような事があれば遠慮なく言ってやってほしいという言伝があったとあります。川路聖謨は当時幕府の勘定奉行で、幕府の中では十指に数えられる程の人であります。烈公は、この人物を高く評価しておられまして、川路が我が国を代表してロシアの使節プチャーチンと長崎での会談に出発するにあたって、歌を送ったりしておられます。烈公とは気持ちの通じていた人なんですが、烈公は自分が直接言われるだけでなく、これはという人物には、一橋を助けてやってほしいと、頼まれているのであります。それで、大地震などのため遅れてしまって申し訳無いがと、安政三年三月に川路は「嚶鳴館遺草」を呈上するのであります。烈公は、そういうふうに家を出て一橋を継いだ慶喜公にたいして、直接間接にさまざまな心遣いをしておられます。
 また一方、成長して来た慶喜公自身からも烈公に対していろいろ意見を言う事がございました。
 例えば、年表を見て下さい。七月二十八日書を文明夫人に呈して烈公の幕議参与辞退をすすむ。それから安政四年五月八日書を文明夫人に呈して斉昭の幕府参与辞退を促す。とあり、次の年には正月二日斉昭の京都への文通を諌止す。これはどう言うことかと言いますと、烈公は当時、幕府の閣老たちが因循姑息であるのを怒って、数百万人を引率してアメリカに渡航するとか、某老中はけしからんから腹を切らせろ、ハリスの首を刎ねてしまえ、とか暴言を吐かれた。一方で姻戚関係のある京都・鷹司家と文通して、幕府の弱腰を叩くために京都を動かそうとしたりされたので、幕府としては、大変に困る、いうことで老中辺りから、烈公のそういう動きを止めさせてくれないか、というような依頼があったらしいのであります。そこで、烈公に対して申し上げることになるのであります。この頃になりますと「徳川慶喜公伝(逸事)」によりますと、烈公について「その卓識高論の程は深く欽仰すれども、治国禦戎の術に至りては中を得たりとも思はれず、既に先年国家の大典に触れさせられたりとて、幕府のお咎めを被らせられ、その政は時勢に適当せざるものとなり」云々、実はなぜそのように言われたかといいますと、「老公すらかくのごとくなれば、ましてわれらがいかで軽率に国家の大局を議し得べきぞ」という為にそれを言ったわけであって烈公を批判したわけでない。烈公でさえもはや時勢に遅れている。まして自分はとても天下の大勢を云々する資格はない。という謙遜の言葉で言われた。大体これが二十くらいの時である。二十から三十くらいの時ですね、自分の親を批判するのは。十代のうちは大体親の言うとおりが普通である。慶喜公もその通りであったのでしょう。それなりの学問をし、一橋家の当主になり、廻りを見回してみますと、さらに幕府の優秀な人達と接触しますと、知見を広めて来ます。そういった所が、このあたりにも覗いているように思います。烈公の意見というものが、とかく物議を醸すのですね。それで「安政四年、烈公内願の通り政務並びに軍政改革の御用を免ぜられるに及びて、公はかえって辱きことに思し召し、ここに初めて心を安んじたりと悦ばせ給ひ」云々。非常に心配でもあった訳です。そのように、幕府の動き、烈公の立場などを冷静に見つめながら、烈公が再び将軍から譴責を承けるような事態にならないよう、案じ、心をくだいて来られたことがわかります。
 ところで、ここに一つの注目すべきことがあります。年表の五月五日に小石川邸に茶会というのは、私が新たに加えた項目です。これは、一橋家から県立歴史館に寄贈になった資料の中に一つの茶会記があります。安政四年五月五日潜龍閣の広座敷において、とありますから、小石川の水戸家ですね。慶喜公が主賓になり、登美宮と松姫が相客になって、烈公が主となられて茶会が開かれている。その記録があります。これがどういう茶会なのか、慶喜公は前の年から烈公の幕府の参与辞退をすすめており、茶会の三日後には、文明夫人にさらにお願いの手紙を出している。そういう時期です。この時は正式の茶事でありまして、掛け物が神祖(徳川家康)御筆御詠御短冊と書いてある。つまり家康の書いた短冊。茶入れには家康から戴いた〃新田肩衝〃が、花入れは常憲公(徳川綱吉・五代将軍)から戴いたものが使われています。 また、茶杓が蒲生氏郷の作で、合図のドラが武田信玄が持っていたという〃谷の戸〃というものを使っています。こういう取り合わせを見ますと、これは、すこぶる厳粛な茶会であったと考えられます。床の間の掛け物は、その茶会の性格を表しているものです。一体、この時に、何が話合われたのでしょうか。後に回想して言われていることに、 二十歳の頃に、烈公から、重大な教訓を受けたと言うことを回想しています。この安政四年は、慶喜公二十一歳です。ひょっとするとこの茶会に関係するのではないか、という考えが捨て切れません。慶喜公が、烈公から教えられた事は何であったか。これは極めて重大な史料でありますので読んでみます。
 明治三十四年の頃にや、著者栄一大磯より帰る時、ふと伊藤公博文と汽車に同乗せることあり、公爵余に語りて「足下は常によく慶喜公を称賛せるが、余は心に、さはいへど、大名中の鏘々たる者くらゐならんとのみ思ひ居たるに、今にして始めて其非凡なるを知れり」といひき。伊藤公は容易に人に許さざる者なるに、今此言ありければ「そは何故ぞ」と推返して問へるに「一昨夜有栖川宮にて、西班牙国の王族を饗応せられ、慶喜公も余も其相客に招かれたるが、客散じて後、余は公に向ひて、維新の初に公が尊王の大義を重んぜられしは、如何なる動機に出で給ひしかと問ひ試みたり。公は迷惑さうに答へけらく、そは改まりての御 尋ながら、余は何の見聞きたる事も候はず、唯庭訓を守りしに過ぎず、御承知の如く、水戸は義公以来尊王の大義に心を留めたれば、父たる人も同様の志にて、常々諭さるるやう、我等は三家・三卿の一として、公儀を輔翼すべきはいふにも及ばざる事ながら、此後朝廷と本家との間に何事の起りて、弓矢に及ぶやうの儀あらんも計り難し、斯かる際に、我等にありては、如何なる仕儀に至らんとも、朝廷に対し奉りて弓引くことあるべくもあらず、こは義公以来の遺訓なれば、ゆめゆめわするること勿れ、万一の為に諭し置くなりと教へられき、されど幼少の中には深き分別もなかりしが、齢二十に及びし時、小石川の邸に罷り出でしに、父は容を改めて、今や時勢は変化常なし、此末如何に成り行くらん心もとなし、御身は丁年にも達したれば、よくよく父祖の遺訓を忘るべからずといはれき、此言常に心に銘したれば、唯それに従ひたるのみなりきと申されき。如何に奥ゆかしき答ならずや、公は果して常人にあらざりけり」といへり。余は後に公に謁したる序に、此伊藤公の言を挙げて問ひ申ししに「成程さる事もありしよ」とて頷かせ給ひぬ。   (徳川慶喜公伝第四巻)
 これをほとんど無視し、重きを置かないのが、現在の学会の風潮でありますが、この烈公の教えと言いますのは、先年の水戸史学会でも名越時正先生からお話しもありましたように、義公以来ずっと伝えて来た、代々の水戸家の家訓でありまして、そのことは武公遺事の中にも出ておりまして、武公がわが子烈公に同じ意味の教訓を述べておられる事が載っております。慶喜公に対する烈公の期待からいっても、烈公の説諭は本当のことであると思います。
 ここに述べられた公の心境を証明するものとして、次に御紹介するのは、一幅の書であります。これは、県立歴史館に寄贈されました一橋家伝来の資料の中にありましたもので、「誠」というただ一文字がしるされております。大きなもので、本紙の絹は、縦一メートル五十五センチあります。これには、「お軸の記」という書付けが付属しており、徳信院様、一橋七代慶寿の奥様が、慶喜公が将軍になったらと、頼んで置いたもので、慶応三年三月二十日に此の書が大阪から届いた、と書かれている。此の書は線がすっきりとしていて若々しく立派な書であます。この書の話を致しますのは、これに押されている印が注目されるからであります。冠冒印は、「干時亮天功」とあります。そして左の上の印は「允武允文」下が「綱紀四方」とあります。どこにも慶喜と書いてない。しかし「お軸の記」があるために、これが慶喜の書であることがわかるのであります。
 この印の字句をみてすぐに弘道館記の「天功を草昧に亮け威霊を茲の土に留め」「允武允文以て太平の基を開く」を思い起こされると思います。「綱紀四方」というのも同じような意味であります。烈公は既に亡くなられています。
 万延元年八月十五日、烈公が亡くなられました時に慶喜公が作られた歌は、
    泣くなくもかりの別れと思ひしにながき別れとなるぞ悲しき

    しばしだに君がをしへや忘るべき我になおきそ露も心を

    けふよりはいづくの空にいますとも心はゆきて君に仕へん
 以上のように見てまいりますと、少年の日の弘道館の教育、一橋に行ってからの烈公の心くばり、二十の頃になって水戸家に代々伝わった重大な遺訓というものを伝えられた事の確認。これは、いろいろ問題があったにも拘わらず征夷大将軍を引き受けた慶喜公の心の中に、基本として弘道館の教えを軸としながら誠の心を持って行くんだ、という決意の表明がこの掛け軸ではないか。誠という字を「干時天功」「允武允文」「綱紀四方」という印が囲んで居るという、そこまで読むのは読み過ぎかも知れませんが、ほかならぬ、このような印をわざわざ作らせて「誠」と言う字を書いた。というのは深い意味があると思うのです。既に文久二年の段階で慶喜公は、幕府のやり方に問題がある、術策を弄し過ぎる、朝廷に対しても、これをないがしろにし過ぎる、もっと将軍以下誠心誠意真心を込めて事を行わなければ、事態を打開できない、と言うことを松平慶永に言っております(文久二年閏八月十六日書簡)。この誠の一字は、まさにその精神の継続であると思います。
 将軍職を継ぐかどうかという問題に悩んだ慶喜公は腹心の原市之進に計った。非常に難しい。徳川家をこれまでのように持ちこたえるのはおぼつかない。断然王政の御代に復してひたすら忠義をつくさんと思うが汝の所存如何に、と原市之進に密かに王政復古の意志を述べた。市之進はそれはごもっともであるけれども、いまそれをやったらどうなるか、後を継ぐ人が居ない。よほど慎重にやらなければならない。間違ったら大変な事になる。外国も入って来ています。むしろ、あなたしか居ないんだから、もうひと踏ん張り頑張って、幕府・将軍の立場で、日本の将来を構築する、そういう政治をしたほうが良いのではないか、いうことを言われたので、将軍職についた、と述べております。「東照公家康は日本国のために幕府を開き将軍職につかれたるが、余は日本国のために幕府を葬るの任に当たるべしと覚悟を定めて」、とありまして、もう将軍になるときに、自分が将軍になるのは徳川の家を守るためではない、日本国の為にできるだけの事はやる。情勢から見ても、もう幕府の時代ではない、幕府は終わりだ、だから自分は最後の将軍として幕府を葬る、しかしその道は公明正大誠の道である。これがこの掛け軸の意味するところであるというふうに思います。
 慶喜公という方は、少年の日になかなかのきかんぼうであって克己心の強い方でありました。一橋時代から将軍時代にかけまして、さまざまな批評があります。島津斉彬なども、安政四年の事ですが、烈公よりも優れて居る、としていますし、藤田東湖なども、恐れながら、烈公さまよりは一段上の人物であると、慶喜公が十七、八歳の頃にそういっております。よその人は、幕閣の人々は、一癖あるお方だ、場合によっては強情を通されるお方だ、と言っております。その前の将軍職後見時代には、諸国の大名たちから、強情公と言われていた。また政敵とも言うべき、京都の板倉などは、将軍になってからの慶喜公を、まさに家康に匹敵する。〃畏るべき勁敵〃と言っています。パークスは英雄の相を備えた、与し易い人物ではない、と評しています。
 将軍になってからの慶喜公は、多くの苦難の中で、京都やその他に対するばかりではなく、幕府の内部にあるところの、二百年来の因循姑息桎梏というものに雁字搦めになりながらも、とにかく新しい道を切り開こうと必死の努力をしたわけであります。しかしあまりにも時期が遅くなり過ぎました。国内の対立混乱は加速され、非常の英断によらなければどうにもならないところに来ておりました。ついに大政奉還を決意することになるのであります。その決断は、まさに烈公から教えられたものであり、また義公からの代々の遺訓を守った。結局いろんな悩みがあったと思いますが、最高権力の座にあってさまざまな工夫をし、幕政を維持しようとしたでありましょうが、ぎりぎりの所での決断に当たって、水戸の教え、つまり日本の歴史の骨髄というものが、慶喜公の行動を支配した、といえるのであります。一意恭順を決意した後の心境というものは、
    みちをだにまもらば神もまもるらんこころにかけじ人のいくすえ

    やまざくらさくもさかずもおおきみのはるのこころにわれはまかせん
 という歌に表されております。要するに慶喜公の一生というものは、烈公の暖かい教育の中で成長し、二十過ぎては独立の人間として、父の姿をある程度客観的に見ることもできるように成長していつたのでありますが、激烈な政治の動揺の中で三十才で将軍になり三十二才にして大政奉還をするまで、非常な混乱・対立の中で一貫して烈公の教えを守り、日本の危機を救う事ができたのでありました。この慶喜公の貫いた精神というものが明治日本の出発点となり独立国日本の近代の出発点となったのであります。
 最後に慶喜公が明治二十二年五月に瑞龍山に参られた帰りに、藤田東湖の墓にお参りになりました。
     明治二十二年五月、瑞龍山の先塋参拝の事あり、公は追慕の至情止め難く、御落涙の様子など、左右の人々も御供に堪へざるさまなりき。此時藤田健にも謁を賜はりて「東湖の子か」と仰せられ、其昔東湖に御逢ひ遊ばされし時の事ども、種々御物語ありて、懐旧の情に堪へ給はず、やがて東湖の墓前に至り、懇に御焼香ありて一拝し給へるさまは、児等が亡父の墓前にて拝跪するよりも鄭重なりしには、健を始めとして見奉る人々思はず感涙に咽びたり。此時水戸家の家令長谷川清作十郎の後の名お側にありたるが、東湖の外にも、戸田忠太夫等御信用ありし者の墓ある旨を言上せしに「東湖の外はよろし」とのみにて、一向に御構なくして済ませ給ひきと健の語りき。
                            渡井量蔵筆記
 結局このように見てまいりますと、今の学者たちが、徳川王朝の建設の為に天皇制絶対国家に反対して徳川絶対専制君主制を生み出そうとしたとか、結局武家同士の争いであるとか、権力維持のあがきであるとか、色んなことを言いますが、大政奉還についてもあれは一種の大博打である、徳川政権、自分が権力の中心に立つための博打である、と言う人が多いんですが、よくよく少年のころからの事、そして晩年というものを考えて見ますと、結局、渋沢栄一が伊藤博文公爵から聞いた処の大政奉還の真意は水戸の教えに従っただけであると言われた言葉が、一番真実に近い、根本の処はそれであろう、と思われます。特にこの藤田東湖の墓に参って「外はよろし」と言われた言葉の中に、それを証明するものがあると思います。以上をもちまして終わらせていただきます。