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大日本史諸蕃伝と北島志


   大日本史諸蕃伝と北島志
                  吉 澤 義 一


 本日は「大日本史諸蕃伝と北島志」と言うことでお話しさせていただきます。
 大日本史の中の諸蕃伝と後に幕末に編纂されました北島志、(これは大日本史の中に入る事はなかったのですが)大きな関連があると思われますので併せてお話しをさせていただきます。
 大日本史編纂で思います事は、誠に一人の義公の立志がこれ程後世に大きな影響を及ぼすものであるかという事です。一体その遺志を継ぐということはなかなかわが子でさえ難しい事であり、ましてや死後、故人の遺志を継いで営々二五〇年もの間大日本史の編纂を続けられたという事は、誠に世界史的に見ましても驚嘆すべき事業だと思います。またそれまでに多くの学者を集めて孜々として真実を追究してまとめ上げられた大日本史というものもまた驚嘆して余りあるものであります。義公は常々「学問の目的は身道徳を行うにあり」という事を話されております。道徳を行う、学問をすればするほど人間としても成長し立派になる、これが学問の本質であり目的である。そうわたしは考えております。そして、一時期衰退期はありましたが大日本史の編纂は続けられまして、幕末の国家的な危機の時に、水戸藩は非常に大きな力を発揮できるのです。それもその背景として学問の力があったと思います。

      大日本史諸蕃伝と快風丸の蝦夷地探検
 さて本論に入りますが、大日本史諸蕃伝と言いますのは『大日本史』の巻二百三十二から巻二百四十二までに載せられているもので、義公の時代に快風丸の蝦夷地探検がありまして、それとの関連でも考えておりましたものですから、調べて見ました実はこの諸蕃伝と言いますものは、当初は外国伝と呼ばれておりまして、これが明治二十七年に改定の議が決まりまして諸蕃伝に改められたようです。これは諸蕃伝が最初にできるころは、まだ蝦夷地の様子がほとんど分からず、文献上のみの考察でありまして、だんだん時代が下りまして明らかに蝦夷地というものは日本の領地だということが分かりまして、烈公の時代に烈公の意志として、外国伝と言うふうに書いては相成らず、となったようであります。其の意を受けて、水戸徳川家ご当主の篤敬公が時の宮内大臣土方久元に建言し、それが認められたようであります。当初は外国伝で、明治になって諸蕃伝になったのであります。
 この諸蕃伝の選者はだれかと言いますと、元の文を書きましたのは青野源左衛門叔元という方であります。かなりの学者であったようであります。諸蕃伝は青野という学者がほとんど書かれた。そしてそれを後に中島為貞通軒という学者が補訂をした。大体この二人の学者の功績と言ってもいいかと思います。この成立時期につきましては、年表を参考にしていただきますが、かなり広い範囲で考えて見ました。調べた結果、何年という事はできませんでした。貞享三年(1686)、これは青野叔元が彰考舘に入った年です。そして享保十一年(1726)、これは中島為貞が亡くなった年です。ですから最大限の幅として、四〇年ぐらいの間がありますが、この間につくられた事は間違いなかろうと思います。次に内容はどういうものかと言いますと、資料に諸蕃伝叙論を掲げておきました。本日は『北島志』との関係で、特に蝦夷地の問題に限って詳しくお話し申し上げます。この序論とも言うべき『諸蕃一』の所に、「蝦夷は東北に僻居して、屡々邊陲に寇せしが、日本武尊の東伐より、化に懐き、命に帰す。然れども其の俗のソコウ(鹿を3つの字と、ケモノ偏に廣の字)動もすれば騒擾を致す。鎮狄・征夷の職を置きて、跳梁を禁じ、暴発に備へ、帰化して内に嚮ふものは、迺ち一方に處きて其の性を遂げしめ、喧擾することを獲せしめず。」最後に「ああ神聖柔遠の制、膺懲の意、是に由りて賭るべし。今其の載籍の徴すべきもの竝に列ねて傳を作る。」とあります。
さらに諸蕃伝の構成は序文で明らかですが、具体的にみて参りますと、其の構成は、
    新羅(巻二三二、巻二三三)
    高句麗 高麗(巻二三四)
    百済(巻二三五、巻二三六)
    任那 耽羅(巻二三七)
    渤海(巻二三八、巻二三九)
    蝦夷 (上)(巻二四〇)
    蝦夷(下)粛慎 女真 琉球(巻二四一)
    随 唐(巻二四二)
    宗 元 遼 金 明 吐火羅 崑崙(巻二四三)
であります。ほとんど文献による考証であります。蝦夷に関しては、日本書紀であるとか、類聚国史、日本紀伝、日本後紀、続日本後紀、文徳実録、三代実録などであります。
 『諸蕃九 蝦夷上』に、
    「蝦夷は東北の夷也、(割註・日本紀)三種あり。都加留と曰ひ、ソ(鹿を3つの字)蝦夷と曰ひ、熟蝦夷と曰ふ。(割註・日本紀の註に引ける伊吉博徳の書)其の人勇悍強暴にして、射を能くし、常に矢を髻中に蔵め、好みて劫盗を為し●(走に喬の字)捷なること飛ぶが如し。君長なし。
    俗、皆文身椎髻して、冬は穴居を為し、夏は出でて樔に居り、五穀蠶桑無く、鳥獣を射て食と為し、其の羽皮を衣と為す。初め越・陸奥等の邊地に雑居す。」
このように本当に概略でありまして専ら文献による考証以外にはなかったのであります。年表でご覧になれば分かりますように、義公が蝦夷地へ快風丸を派遣したのは青野叔元が彰考舘に入りました年と同じでありまして、快風丸の蝦夷地探検は三回行われます。最初が貞享三年で、これは渡航できませんで引き返しております。大きな船そのものは、二十年前の寛文六年に作った事はあるようですが、実際に派遣したのはこれが初めてであります。以後、次の年の貞享四年の二回目、この時は松前まで行けたのですが、松前藩法によってそれ以上は許されませんでしたので、十分な調査はできなかったようです。三回目は元禄元年北海道の石狩川流域まで達します。そこで多くの調査を行っております。『快風丸蝦夷聞書』などによりましてどんなことを調べたのか内容が分かる訳であります。この探検の目的が、あるいは大日本史諸蕃伝の記述に関係があるのではないか、というような事も考えたのですが、快風丸による探検の内容が直接蝦夷の記述に生かされているという事はないように思います。この探検の目的として実は四つぐらい考えられています・名越会長は、第一の目的として蝦夷の反乱説をあげておられます。年表の最初に書いてあります寛文九年のシャクシャインの反乱、これは徒党を結びまして日本の商船十九艘を奪い松前の士人等二七三人を殺した反乱、このシャクシャインの反乱は翌々日江戸に急報され、ちょうどそのとき幕府の主要な閣僚は義公を含めまして日光の大猷院霊廟にお参りに行っていた。そこに急報があり、即刻松前泰広が蝦夷地に派遣されます。派遣されたのが急報が来てその日です。二月二十日です。極めて敏速な対応だと思います。
早速急行しまして、十月二十四日反乱を平定します。造るのに時間もかかったでしょうが、十七年くらい経って義公の快風丸の蝦夷地派遣があるわけです。
他に北辺防備説とかあるいは殖産交易説、探検説などがあります。佐藤次男さんの説によりますと北辺防備説、殖産交易説等も有力です。
 私は源義経の伝説、これが実はもうひとつの大きな理由、目的ではなかったかという気が致します。佐藤さんは成果として義経伝説を掲げられておりますが、成果としてではなくて、目的としてあったのではないか、という事を考えております。と言いますのは、大日本史に『将軍家族一,源義経』と言うのがございます。これができたのが宝永三年(1706)です。年表には書いておりませんが、やはり探検が終わってしばらく経ってからであります。選者は神代園衛門杢太夫で、中島平次書、安積覚検了だという。
      『将軍家族 一 源義経』五年、頼朝密に泰衡をして義経を圖らしむ。閏四月晦、泰衡兵を遣はして、衣川を襲ふ。東鑑。鷲尾経春等力戦して死す。是に於て、義経妻子を刺し殺して自殺す。時に年三十一。泰衡首を鎌倉に傳ふ。見るもの皆涙を堕せり。
      (割註)東鑑。源平盛衰記・八坂本平家物語を参取す。○世に義経記といふもの有りて、事迹最も詳に繋碎●(マダレに龍の字)駮傳會の説多しと雖も、而も未だ必ずしも皆虚誕ならず、然れども他に證すべきなく、眞偽辧じ難し。故に一切取らず。世に傳ふ、義経衣川館に死せずして、遁れて蝦夷に至ると。今東鑑を考ふるに、閏四月巳未、藤原泰衡義経を襲ひて之を殺す。五月辛巳、報至り、將に首を鎌倉に致さんとせしが、時に源頼朝、鶴岡の浮圖を慶したり。故に使を遣はして之を止む。六月辛丑、泰衡の使者首を齎して腰越に至り、漆函もて之を盛り、浸すに美酒を以てす。頼朝和田義盛・梶原景時をして之を検せしむと。己未より辛丑に至るまで、相距ること四十三日。天時に暑熱なり、函して酒に浸したりと雖も、焉ぞ壊爛腐敗せざることを得ん。執か能く其の眞偽を辧ぜんや。然らば則ち義経は偽り死して遁れ去りしか。今に至るまで夷人義経を崇奉し、祀りて之を神と為す。蓋し或は其の故あらん。
    義経兵を用ふること神速にして、人能く及ぶこと無し。故に義仲を剪(き)り、平民を殄(つく)すに、功效甚だ亟(すみやか) なり。而も頼朝の忌む所と為りて、終に躯を 喪(うしな)ふに至れり。世咸其の兵略を傳稱す。
この辺を探検によって確証を得たい、と言うことで派遣されたとも考えられます。史実に厳密な義公の立場として十分考えられる。この義経伝説につきましては諸説がありますが、蝦夷地にもたくさん義経伝説が残っております。それはともかくとして、快風丸は元禄十六年(1703)に取り壊されてしまう訳です。この辺の事情はよく分からないのですが、一応まとめますと大日本史諸蕃伝、特に蝦夷の問題に関しては、義公の快風丸による探検と言うものは、蝦夷そのものの記述のためになされたというよりも、源義経伝説のほうに十分に成果が生かされたと言うべきではないか、と言うことが考えられるのであります。

     木村謙次と間宮林蔵の探検
 その後、蝦夷地への関心はほとんど一〇〇年の間無かった訳ですが、だんだんその周辺がやかましくなって、と言いますのは、ロシアという国が、日本の年号で言いますと天正七年(1579)ウラル山脈を越えましてシベリアへ進出して、ついに一六三八年、鎖国令がでる前年にオホーツクの建設に着手する訳です。年表を参考にしていただきたいと思いますが、明和二年初めてロシア人がやって来て、安永のころからだんだん千島列島にロシア人が南下して参りまして、日本人は気付かなかったのですが、明和八年(1771)ハンガリー人ぺニョフスキーがロシア人に蝦夷地占領の企図が有ることを幕府に警告するという事件がありました。これは大変だ、と言うので天明六年林子平が『海国兵談』を著す、天明三年頃、工藤平助という仙台の碩学者が『赤蝦夷風説考』を著して警告を発しています。時に老中は田沼意次でありまして、幕府は天明五年に蝦夷地探検隊を派遣します。林子平の『海国兵談』の方は次の年、老中は松平定信に変わりまして、これは危険な本であるというので発禁処分になります。(これをなんとか読みたいと言うことで、水戸藩は後に木村謙次等を仙台まで行かせるのですが、とうとう買えないで帰ってくる訳です。しかし、その時林子平の墓に詣でた木村謙次はその志を継ごうと決意するのです。)そうこうしているうちに、寛政四年、いろいろ周囲の形勢、心配が現実になりまして、ロシアの使節ラクスマンが光太夫(伊勢の漂流民。モスクワにいきまして女王にまで謁見してきた)を送還してきましたが、それを口実に盛んに通商を請うたわけです。そのころ蝦夷地に関しまして最も心配をし憂慮していたのが水戸藩の木村謙次という人であります。医者であり儒者でありましたが、なんとかして蝦夷地に行きたい、わずかではあるが涓滴の忠を致したい、ラクスマンが来航の前年、先生である立原翠軒に歎願書を出しますがその時は許可されませんでした。寛政五年になってやっと願いがかなう訳です。水戸藩は木村謙次と武石民蔵を蝦夷地に遣わし、ロシアの兵勢などを探偵させるわけです。木村謙次はまた、江戸に行き光太夫やロシアの情報を集めます。謙次に『北行日録』という探検の報告書が有るわけですが、それによって目的は明らかです。ロシアの兵勢を調べて来い、ということであったわけですが、松前にわずか一週間ばかりの滞在で可能な限りの情報収集に努めました。『北行日録』には、その他に途中のいろんな風俗であるとか、特産であるとか、藩の様子であるとか、いろいろなことが記録されて貴重な報告書となっております。この報告書で今日我々の考えなければならないことがあります。
    木村謙次は『北行日録』に、こういう文章を残しています。
    窃ニ彼レカ諸国ヲ併呑スル術ヲ見ルニ、寛ナルトキハ●(木偏に寉)場互市辺要ノ地ニ盤拠シテ其巣窟トシ、或ハコレヲ懐タルニ慈恵ヲ施シ、或ハコレニ畏シムルニ威武ヲ示シ、貧者ニ啗シムルニ厚利ヲ以シ、愚者ヲ誘フニ妖教ヲ以ス、凡天下ノ民廉智ハ少ク貧愚ハ多シ、其害勝テ言フベケンヤ、急ナルトキ兵興攻殺シ、其勢猛烈ニシテ当ルヘカラス
 一体、当時これだけのロシアに対する認識をもっていた人は少なかったわけであります。林子平は立派な学者ですが、ここまでのロシア認識というものはありません。さらに謙次はこうした探検をもとに『海防下策』と言う海防論を書き上げます。
    『海防下策』
    今ハ昔、欧羅巴ノ赤人、船艦ヲ運シ、我北塞ニ来リ、甘言欺諛ヲ以テ、隙ヲ窺フトノ誣説ニ、上下紛擾ス、予モ亦以為ク、百王一姓、目出度キ、国風シテ、唐山ノ如ク、韃靼ノ正朔ヲ奉センナトハ、賎民我カ如ノモノト雖モ、口惜キコト限ナシ、若近ク来リテ、廃怠ノ主兵驕逸ノ客兵ニ当ラハ、勝敗ハカリカタシ、(中略)時ニヨリテ、海防ノコト、イカヾセント思出ル時ハ、寝食ヲ敗スルニ至事アリ
ロシアの進攻にたいして何を守るかという、しっかりした海防論を述べています。ここに大きな意味を見い出すわけであります。
 さらにもっと大事な探検がありました。謙次は寛政五年の探検が布石となり、幕府の蝦夷地巡察隊の近藤重蔵から特に水戸藩に嘱望が有りまして従者として推薦され、寛政十年の探検に加わりまして、択捉島にわたり「大日本恵登呂府」の標柱を建てて、日本領の証として来るわけであります。木村謙次『蝦夷日記』によれば、この標柱は木村謙次が書いております。書くに当たって非常に鄭重でありました。『蝦夷日記』を見ますと、
    木表ヲ書、嗽盥シ南嚮シテ、勢廟、天子、江戸、鹿島、我藩中納言君、三退シテ立原先生ト、七拝シテ書、

    「表面」    寛政十年戊午七月
        大日本恵登呂府 近藤重蔵 最上徳内
       

    「裏面」 従者下野源助 全助、金平、孝助、唐助、弟助,勘助
                武助、藤助、勇助、阿部助、只助、太郎助

    右ノ如ク刻サセ、夕方リコツフに建、立終又七拝シ、翰墨不朽、信可楽也
と書いてあります。裏に従者下野源助とあります。これが木村謙次であります。変名をしております。そしてアイヌですが、善助、金平、・・・・と日本名を与えられました。一行は命懸けで択捉島に渡りまして、択捉島南端のベルタルベの丘に、この標柱を建てて帰ってきたのであります。これは非常に大きな意義のある仕事でありました。(今は『北島志』につなぐために間の話をしているわけでありますが)寛政十一年には、幕府は東蝦夷地を直轄にします。
 文化元年、ロシア使節レザノフがラクスマンに与えた長崎入港の許可の信牌をもって長崎に来航し、通商を要求してくるわけであります。しかし、これはさんざん待たされたあげく、鎖国であるという法律が有るから通商は許すことができないという事でレザノフは、やむなく帰って行くわけであります。通商が許されなかったレザノフは部下フォストフに指示を致しまして樺太や択捉を襲わせる。これが非常に大事件でありました。当時蝦夷地全域が直轄地となった後でありましたから、幕府からも蝦夷地に派遣され経営にあたっています。間宮林蔵もその一人でありまして、択捉島のシャナというところに最初におりました。フォストフ一隊が襲って来た時、役人はあれは商船かもしれないからそんな警戒する必要はないと言ったのですが、林蔵はあれは間違いなく軍船でこちらに発砲してくると言うふうによみまして言い争いが有ったのです。結局林蔵が言った通り攻めて来る。この攻められた責任を取ってその役人は自殺をしてしまいますが、この林蔵の勇敢な防戦をあとで聞くのが、この様子等を調べに行った水戸藩の秋葉友衛門、奥谷新五郎です。これが水戸藩と間宮林蔵の接点であります。林蔵は、木村謙次と一緒に蝦夷地を探検した伊勢の村上島之允に見い出されたと言われています。林蔵が最初に蝦夷地に行ったのは村上島之允とです。後に間宮林蔵は烈公、藤田東湖と重要な関係をもつようになり、蝦夷地等の情報を提供するという間柄になって行くことになります。
 文化五年、松田伝十郎、間宮林蔵両人が樺太のラッカに達します。
この地図(114kb)は、
第二回目の探検の資料ですが、第一回目は松田伝十郎、間宮林蔵両人であります。カラフトの情勢をさぐる、特にロシア人の勢力、国境を探るのが第一の目的であります。ちなみに海峡かどうかを調べに行ったと言うのではなく、結果として海峡が見つかったのだと思います。第一回目の探検は宗谷から一緒に出るのですが、松田伝十郎は西海岸を北上致します。間宮林蔵は東海岸を調べることになります。林蔵はシラヌシから北上しましたが、北緯四八度線の近くにあるションコタンから先が行くのが困難であるということで、変更してマーヌイから西海岸に出、そこから北上して伝十郎の後を追うわけです。伝十郎は先にラッカに達しまして戻ってくるところでありました。後から行った林蔵は、どうしても目的を果たしたい、というので伝十郎はそれに付き合いまして、行くわけであります。海峡があると言うことを二人はほぼ確認して帰ってくるわけであります。地図をご覧になりますと分かりますように、完全な確認は無理のようであります。そこで、林蔵は第二回目の探検をするわけであります。一番大事なことは国境を探るという事であります。そのために行ったのです。その行程は文化六年の十一月二十七日、ほとんど真冬に近い寒さの厳しくなる時、北緯五〇度線のあたりまで行きますが、それ以上は無理だと断られていったん引き返します。トンナイから協力者を得まして、翌年再び北上し、最終的にナニオーまで参りまして、ここからの眺めと潮の流れによってカラフトは島に間違いないという判断を下します。さらに国境が分かりませんでしたので、満州のデレンまで行って仮府の役人に会い、満州の方から樺太を眺めて確信して帰ってくるのであります。当時は北へ行くほど恐ろしいという感覚があったようであります。この探検で、大陸へ渡っても国境がはっきりしない、どこの国、清か、ロシアか、どこの国がどの部族を支配しているかによって国境があるというような状態であることが分かった。それを報告したのが『東韃地方紀行』という訳なのです。実はこれ、豊田天功が『北島志』を編纂する上で最も実地見聞録として重要視した書物なのです。天功は実際に見て来た記録と言うものを重視しました。
 また文化五年六年以降、いろいろ外国との問題がありまして、それを憂うる人々も多く藤田幽谷がイギリス船フェートン号に関して『戊辰元旦詩』を詠んでいますが、これは、あるいは北地の憂いを読んだのであろうとも言われています。文政年間になりますと、いったんその北地の憂いがなくなったというような状態になりまして、幕府は直轄をやめるのです。しかし、これが後の心配事になってくるのであります。
 文政年間にはいろいろ事件がありました。文政四年には伊能忠敬が『大日本沿海輿地全図』を完成するわけですが、蝦夷地は東蝦夷地の東海岸を除きほとんど測量していません。林蔵がほとんど蝦夷地は測量したのですが、その協力があって測量図が完成するわけであります。文政七年には、あの有名な大津浜事件があり、次の年には會澤正志斎が『新論』を著します。文政、天保年間で蝦夷地に関して、あるいは日本の海辺に関しての第一人者は間宮林蔵であります。その情報を得るために、水戸藩士はいろいろ親密な交流をしたのであります。文政八年の異国船打払令の成立には、水戸藩と林蔵が大きく関わるわけであります。さらに文政十一年には御禁制の地図を流したということで、高橋景保が捕縛されるシーボルト事件がありました。

    烈公と豊田天功の「北島志」編纂
 やがて天保になります。天保はご承知のように烈公の藩主時代であります。烈公は若いころから「水戸藩は北国の押え」というような意識がありまして、特別な箱を作りまして蝦夷地関係の書物をたくさん集めていました。それを豊田天功に提供することをやっております。烈公は天保五年に幕府の老中大久保忠真に対して蝦夷地拝領願いを出しています。それはどんな内容のものであるかと言いますと、先程も申しましたが、(一)もともと水戸は北の押えである、北海は東北諸藩の横腹を衝くことでもある、という認識をもっていた。それから(二)北地に赴任するのに自分は隠居覚悟である。また(三)蝦夷地との往来の為に大船を建造する。これは豊田天功もこういう意見をもっております。(四)蝦夷地には武士である二男三男を土着させる。(五)蝦夷地開拓に対しては死罪者、遠島者で開拓する。また(六)日本宗にて開拓し徐々に鹿島明神をたてて人気を固めよう、といった内容です。これを老中に出します。そして天保十年に、蝦夷地経営策とも言うべき『北方未来考』を著します。その前年には、極秘裡に大内清衛門(那珂湊の人)を蝦夷地に派遣していろいろ探索させる、というようなこともありました。もちろんその間、間宮林蔵からの情報も、記録には十分ないのですが、かなりあったようであります。『北方未来考』の内容を申しますと、(一)吉成信貞又右衛門(郡奉行)と蝦夷地に行った大内清衛門、これを蝦夷地に派遣しまして経営させると言うような計画、それから(二)石狩川流域に城を築くと言うような計画、これは鮭と関係があるのかなという気もします。さらには(三)南部津軽より牛馬を多く移住させて農民は農兵にして警備は年番制にする、こういう計画をしています。あるいは(四)関所を設けるとか、(五)蝦夷人をならし、日本人に同化するとか、(六)育子館を設置するとか、そして蝦夷地を「日出国」と改めよ、こういう計画なんですね。非常に細かい所まで記した経営策であります。
 さらに注目すべきは『山海二策付図』の中で「松前蝦夷」西は樺太、東は色丹、北は千島よりカムサッカまでを北海道と定」と、こういう記録がある。今日、北海道という名は伊勢の探検家松浦武四郎が命名したとされておりますけれども、これは後に触れますが、実は、烈公は武四郎と『北島志』編纂を通じて大きな関係があるのです。私思うに、烈公の腹案というものが武四郎に伝わって、この武四郎が明治政府に建言して北海道と名付けられたのではなかろうか、という印象をもっているのです。
 嘉永年間になりますと、いよいよ外圧が高まって参ります。嘉永六年のペルリの来航、これは日本中を震撼させました。ペルリが浦賀に来航して通商を要求して来たのは六月三日であります。間もなく一カ月ほどして、七月三日に、幕府老中阿部正弘に乞われて、烈公が海防参与になりますが、これでたいへんな難渋をしている時に、ほどなく七月十八日、ロシア使節プチャーチンが長崎に来航します。これはますます大変な事であります。プチャーチンは何を要求してきたか、通商と北地の国境確定、これが二大要求です。そこで『北島志』編纂ということになるわけです。編纂命令がでるまでには若干時間がありまして、当面プチャーチンとの交渉に当たらなければならないということで、直接の応接係に任ぜられたのは、川路聖謨であります。もう一人高齢で七〇歳を越えていましたが、筒井政憲。水戸藩からは日下部伊三次であります。変名をして宮崎復太郎。さらに東湖の意向で原市之進が長崎に随行して行きます。川路は、国境に関してあるいはロシアとの交渉に関して、かつて間宮林蔵からかなり情報は得ていたようであります。書簡も残っております。しかし、ロシアの通商要求に対して烈公を訪れた時に考えていたことは、和戦といいますか、ぶらかし作戦であります。『新伊勢物語』によりますと、嘉永六年六月十四日、両人が烈公を訪れます。戦争になると困る、いかにしたらよいか、外交の交渉を進めるには備えが不十分である。「お備さえ手厚く候ヘハ、心丈夫ニ候へとも、如何ニも御手薄故俗ニぶらかす云如く云々」「嚴重ニ致し其の上ニてお斷ニ相成可然」。烈公はそれには必ずしも賛成ではありませんでした。「お備向忘れ候事さへ無之候ハゝぶらかすも時にとりての御計策ニ候へハ無巳候へ共少々たり共交易御濟セの義ハ 祖宗の御厳禁故拙者へ御相談ニてハ宜敷とハ不申上由申ス」祖宗のご厳禁である、わたしに相談あれば宜しいとは申し上げられない。その次が大事な文章です。この時対談が深夜に及んだと言うことなのですが、「相談相濟後兩人へ菓子薄茶一寸吸物遣し又我等拙作の拵付(常ニ帯候品)大小遣ス(割注・川路へ大・筒井へ小)刀の鍔へハ自詠金象眼(割注・立田川錦にまかふ紅葉はもちらすハいかて人の見へき)脇差の鍔ハ西行の道のへニ清水流るゝ柳かなの歌是亦自筆也つばハ角つば」と見えます。川路はこの刀を持って行く訳です、覚悟を決めて行く訳です。両人が烈公を訪れたのは、プチャーチン来航前のことですが、結局、川路と筒井はプチャーチンとの交渉に任命される訳です。出立の前日の資料があります。
嘉永六年十月二十九日の水戸藩史料の記述です。
        『水戸藩史料』上編巻四
    是の日斉昭は城中に於いて筒井政憲、川路聖謨及荒尾允成古賀増を延見して遠路出張の勞を慰し又特に政憲聖謨に贐するに薬品及び左の和歌を以てせり
      嘉永六年肥前守筒井政憲が七十餘りの齡にて長崎へ出立ける馬のはなむけに
     いにしへにまれなる老の坂こゑてよを長さきにいてたつか君

      同川路聖謨へ
     わか国の千島のはてハえそしらすさりとてよそにとらすべしやハ
     みちのくのちしまのはてはえそしらぬかそへてかへれわか君の為
       (参)是の時川路聖謨の和答せしもの左の如し

      御返し               川 路 聖 謨
     限りなき君が恵はゑそしらぬ千島のハてはよみ盡すとも
     誰れ餘所にとらすべきやは我國の千しまと君がおしへあふきて
 プチャーチンが二度目に下田に来た時、日露和親条約調印の日の川路の日記には、(嘉永七年十二月)
      川路聖謨『下田日記』
    廿一日  くもり、又雨、又晴
     きようは、日本・魯西亜永世の会盟とも申すべき訳にて書面の取替せ有り。
    着服は、御紋附の羽織、蜀江かたの野袴、花山桃林のまき絵太刀作の大小、これを用う。これは、前中納言殿并に左衛門尉の自詠を鍔に彫りたる大小也。
 この自詠というのはどの歌なのか、出立の前日に烈公が詠まれた歌なのか、または六月に詠まれた歌なのかわかりません。ともかく川路は烈公の刀を携え、覚悟を決めて長崎、下田に行ったのであります。
 実はこの十二月に、烈公は『北島志』編纂を豊田天功に命ずるのでありますが、これがまた、特に第二回の下田交渉において、非常に大きな、大事な役目を果たすわけです。
これは、『北島志』編纂の経過の資料です。
      嘉永六年十二月九日烈公親書
     ・・・同人は夷狄の事年来心を用候者・・・魯西亜の考并北蝦夷の考、千島の考、此三ヶ条取調出来次第指出候様・・・
 このころは長崎で川路、筒井がプチャーチンと応接をしている時期です。最初の命令は嘉永六年の十二月九日であります。
 そして、いろいろ烈公は資料を集めていたのでありますが、プチャーチン再来、これが次の年の十月十五日になる訳ですが、下田です。それよりも先三カ月前の嘉永七年七月十四日烈公の親書があります。
      嘉永七年七月十四日烈公親書
    ・・・手元に有之書并図共為見申候、蝦夷之儀は此節指かゝり御入用に候へは、何分早く取調へ指出し候様・・・此上魯西亜と申合候節もしかといたしたる證を見出し度事に候へ共何共安心不致候、何も右箱の●(金偏に曲の字)遣候・・
    (朱書にて)松浦竹四郎著述蝦夷三航日誌といふ物我等へ献候処・・・
 朱書の日誌はプチャーチン来航のすぐ後に献じられるのですが、書物に出て来るのはこれが最初であります。緊急に入用であるという意識は烈公にもあったようで、七月十七日の呈書には、
      同年七月十七日豊田天功呈書
    ・・・小臣も愚意に当今北地の儀頃刻も緩すへからす・・・先蝦夷地并久奈尻恵土呂府等の属島迄明白に相分り要領を得候様に御座候、只カラフトに至り候ては不分明の義甚多く・・・
 烈公が小さい時から蝦夷地に関心をもち、資料を集めてきた事は次の親書でわかります。
      同年七月二十四日烈公親書
    ・・・我等幼年の節より蝦夷の儀不安心に存候得は、追々彼地に拘候書を取集置候
 幼年というから相当小さい時からであることがわかります。
この集めていた資料を天功に提供する。そういう書面もあります。
     (月日欠)豊田天功呈書
    ・・・元来外国への関係之書籍少なく候上、第一蝦夷地方風土人情之儀書物計にては埒明かね、俗にいわゆる疊の上の水稽古と申様相成、実地の用をなさす候、尤前輩中にて羽田安藝守か休明光記、近藤重蔵か辺要分界図考、木村謙次か蝦夷日記、間宮林蔵か東韃紀行等皆実地を経歴し、まのあたり見聞し候儀を相記し、可取儀甚多く御座候へ共、地理はとかく不分明儀有之、是儀当節第一差支申候、仍て反覆熟慮仕候、当今蝦夷地へ渡り、頗其風土人情を審にし候は松浦健四郎と申者を第一と可仕、右健四郎伊勢之産にて至て奇人、三度迄蝦夷地へ渡り候・・・此者当今有用之人物とも可申・・・暫之内此地へ御頼被差置、蝦夷地風土人情等、私追々直談承合相定可申歟、只しは健四郎著述之三航蝦夷日誌と申者為差出、右を写し留追々校正之助に仕候
 この資料は月日が欠けておりますが、おそらくこの時期のものです。編纂の苦労が察せられます。ご承知かも知りませんが、松浦武四郎は、林蔵なき後、林蔵の行ったことのないような蝦夷地の隅々まで行った人で、蝦夷地のことは何でも知っている第一人者であります。この人は重要だから直接話を聞いて実際に役立てたいというような意見なのです。それがすぐできなければ『三航蝦夷日誌』を写したい、と言っています。
 武四郎の蝦夷日誌は、最初に行った『初航蝦夷日誌』、二度目の『再航蝦夷日誌』三度目の『三航蝦夷日誌』があります。烈公が見たのは『初航蝦夷日誌』のみだったようです。これは『北島志』引用書目にも挙げられています。ただ川路聖謨、阿部正弘に見せた草稿文の段階では、武四郎の著書は見られなかったようであります。
      嘉永七年九月四日豊田天功呈書
    ・・・蝦夷地一書出来申候間・・・九日御使に奉呈候・・魯西亜国内の儀は別に一書相認可奉呈高覧奉存候・・・
 これは草稿ができあがったという手紙です。七月に烈公から再度命があってから二カ月、九月四日の呈書です。とにかくプチャーチンが来て間に合わないので草稿の段階で見せた。
      同年九月十四日藤田東湖より豊田天功宛書簡
    拝啓、只今被為召太公御前へ罷出候処、御意に北島志成功誠に神速之事感心感心、偖早速阿閣(割注・閣老阿部伊勢守なり)へ廻し、幕有司の心得にいたし度候
東湖の評価である。
同日烈公からの親書がある。
      同年九月十四日烈公親書
    北島志成功早速一覧之処、乍毎度絶倫之見識気力実に令驚嘆候、地理物産等云々念入候儀、何も此外に別に申付候に不及候、右志我等より幕府へ指出可申存候所差支無之哉、為念承候、尤右様之書伝播候儀幕府にては甚忌候故、当今は先々草稿をも深く秘候様いたし度候也
 はなはだ烈公の意を体した、意にかなった草稿文ができた、『北島志』が完成した。このころ『北島志』と名付けられたと思われます。
 川路聖謨の返書の中に、これを早く見たかった、御用向きの御用に役立てたい、ことさらに渇望していた、そういう文面があります。川路はこれを熟読しまして、後には写させて座右に備えたといわれます。非常に大事にして、これを学問的よりどころとしてプチャーチンとの交渉に当たったのです。プチャーチンは十月十五日下田へ向かいました。川路聖謨も十月十九日江戸を出立して下田へ向かうわけです。
 問題は、川路がこの『北島志』を読んだ後と前とでどのような主張の違いがあるのかという事なのです。烈公に会って、いろいろ聞かされて、蝦夷地の大事な事を認識したであろうと思います。国境確定のための川路の交渉の変遷を見ますと、長崎での会談は六回あります。その主張のみを追って見ますと、第一回目の会談では、ウルップ島の中立とエトロフ島の日本領を主張しています。これは千島。樺太については、もうすでに既成事実を作っているロシアに対して、ロシアの守備隊を撤退させるよう、そしてその後実地見聞を行って国境を決定しようという提案であります。間宮林蔵のところの資料を見ていただきますと、どこにロシアの守備隊がいたかと言いますと、クシュンコタンにいたわけです。プチャーチンは、樺太はロシアのものだと強硬に主張してやまないわけです。それは最後まで続く訳です。二回目の会談では樺太の国境を北緯五十度に設定する、と川路が提案します。古記録に照らして千島全島日本領であると主張します。烈公はカムチャッカまで蝦夷アイヌがつけた名前であるから日本領であると言うのが水戸の主張です。そして五回目の交渉で覚書を交わすのです。樺太実地調査のための係員を派遣する。これは実際派遣されます。そして六回目の交渉、択捉島は日本領土である。プチャーチンは択捉までロシア領であると言い張りましたが、これは間違いなく了解されます。樺太の方は実地調査の上決める、こういう覚書がなされる。しかし、これは最終的にまとまりません。第二次下田での交渉になる訳です。
 川路は下田へ行く前に『北島志』を読んだ訳です。二回目の交渉ですが、川路は、択捉島が日本の所属であるのは勿論、樺太島もアニワより黒竜江付近まで日本領であると応酬しています。五十度線を撤回して黒竜江付近まで日本領である、こう頑として主張する訳です。多分にこの辺に『北島志』の影響があったと思います。四回目の交渉では樺太国境はプチャーチンの主張を考慮して、樺太島の議は嘉永五年まで日本人並びに蝦夷アイヌの住居した地は日本領であるべしとの一項を加えることで妥結しました。これは後に。この付加事項がはずされてしまってうやむやになってしまうのですけれど。プチャーチンの主張がさらに強硬でなかなかまとまらない。
 川路の交渉態度を日記から二、三見ますと、これはすごいなと思いますが、やはり外国との交渉は外国の本質、民族の本質、外交のやり方、こういうものをよく踏まえた上でしっかり交渉すべきで、それは昔も今も同じであろうと思います。
 そこで川路の交渉態度というものがどうであったか。『長崎日記』の中に、「魯人の機を見ること特に早く、実は人をばかにすると云うがごとき意あり、しかし正理をもって押し迫れば必ず無言に成る、別事を言うか日延べ申し出るかの二ツになる」とあり、川路は少なくともこういう気持ちでプチャーチンに接した。それから『下田日記』、だんだん交渉が難航して来る中にあって、「断然として今一度と言いて、申し争いて言いたるに、彼思いの外に屈して拾数カ条の条約悉くに決したり」、ということで、嘉永七年十二月二十一日、日露和親条約が結ばれる訳ですが、必ずしも烈公や天功の主張する樺太、千島全島、カムチャッカも日本領だという交渉にはなりませんでした。これは第一線に立つ交渉の難しさだと思いますが、少なくとも言えることは、烈公の意を体して、『北島志』を学問的よりどころとして、川路聖謨がプチャーチンとの交渉にあたったということです。
 最後に、松浦武四郎はこの後も水戸とは関わりがありまして『再航蝦夷日誌』『三航蝦夷日誌』を烈公に奉ります。幕府よりも早く、一年も早く水戸家に献上している。このことは一体何を意味するか。そして、天功は盛んに武四郎と接触を図り、話を聞き、文久三年には武四郎の来訪があり、知床を探検した時の著書、『知床日誌』と言うものの跋を頼まれたのです。それで認めた一文がこれです。
      豊田天功『書知床日誌後』
    北蝦夷、自我而拓之、則可以鳩集夷民、包括海陸、為恢復舊疆之基。眞千萬年無窮之利也。怠忽不理、為虜所奪、則後来大禍、有不可勝言者、蠶食狼呑、必及内地。在上君子、不可不深長思慮、經營措置、折虜人之衝也。伊勢松浦子重、●(尸に婁の字)經行蝦夷、跋渉探歴、窮谷險崖、莫所不至。頃日見訪、予叩北蝦夷事、則●●(亠に興の一なしハなしに宜の丶なしの字を二字)談論、明晰詳備、絶島荒涼景象、恍在目中。蹠實地者、與懸空論説不同。予甚感其用心焉。適其所著知床日誌、刻成、求跋尾。因題数言、道北方防備不可一日而懈也。
 武四郎は、天保年間、蝦夷地に行く前に會澤正志斎を訪うております。これが最初の水戸人との接触であります。その辺の事情はあまりよく分かりませんが、會澤正志斎の影響も強かったと言えます。また水戸と接触する、水戸家に『蝦夷日誌』を献上する動機になったのもその辺かもわかりません。以上『北島志』に関連して申し述べました。
 最後にまとめますと、天功は天保三年の『天功呈書』の中に、先君の偉業、義公の偉業を再び振起することの大切さを述べているのです。また『中興新書』の中で、其の一つとして「快風の船を造らせ給ひし類」と述べております。そういうことを思いますと、これは天功ばかりではなく幕末国事多難な時期にあって、快風丸の蝦夷地探検とか大日本史の編纂というものがいよいよ想起される。そしてそれが一つの展開となっていろいろな学問事業がなされる。義公修史の意義は、幕末期になって、特にこうした義公以来の学問の蓄積によって大きな力を発揮できたことにあると言い得るのではなかろうかと思います。
      (当時)茨城県立歴史館主任研究員