HOME >資料 >義公修史の目的と構想

義公修史の目的と構想

名 越 時 正

    はじめに 

 今年は大日本史の完成から丁度八十年にあたりますのでそれを記念しまして大日本史についていろいろな方面から考えて参りたいとということでございますが、本日の私の課題は義公修史の目的と構想という題目でございます。
 大日本史が二百五十年かかって明治三十九年にようやく出来たということ、このことにはいろいろな問題、あるいは疑問をお持ちになるかと思います。一体どうしてそんなに長くかかったか、もっと早く出来なかったのか、あるいは途中で一度止めたのではないのか、といろいろと想像致しますれば、不思議な事もあるかと思います。たしかに不思議なことでして、こういうことは世界の歴史に比類のないことだと思います。一つの書物を作るのに、二百五十年かかつた、しかもその二百五十年の間を見ますと、徳川幕府は崩壊して明治天皇による王政復古が行われて明治政府が誕生します。そういう大きな変革が間にあったにもかかわらず、大日本史は前々からの志をついで最初に志した義公光圀公の精神が一貫して、近世・近代という二つの時代を貫いて完成した。考えて見ますと誠に日本人の仕事としてこれほど大きな編纂事業はなかったのではないか、と思います。そういうことにつきまして、はじめ光圀公がこの大日本史の編纂を企てられたのは、どういう事情であり、最初はどういう構想であったか、ということを考えたいと思います。しかしよく調べてみますと、この構想は義公の生涯において何回か変わっています。しかも大きく飛躍しております。そうしたことと義公の命令によって編集員である彰考舘の史臣の間にもいろいろな変化がありました。そういうことを考え、段階をわけて義公の亡くなられますまでをお話ししてみたいと思います。

     一、義公修史の動機について
 初めに修史の発起とその構想の拡大でありますが、光圀公が、いつどのような気持ちから大日本史の編纂を計画されたかということは、周知のように正保二年十八才の時に史記の伯夷伝を読まれた事であります。初めてその時自分の大きな過ちを発見されて、これはいけなかった、こういうことでは自分は申し訳無い、慚愧に耐えないという気持ちをお持ちになって、それからの第一歩を踏み出されたのであります。その大きな反省とは何であったか、史記の伯夷伝を読んだ場合、どういうことが考えられるのか。第一に父から相続を命ぜられた叔斉が、兄伯夷を気の毒に思って家出すると、伯夷もまた父命を重んじて家出するという、兄弟の思いやりの問題でありました。義公自身にとりましては兄の頼重が居るのに六歳の時跡継に決められて居り、しかも、これまでわがままな少年であって、学問を進められても関心を持たない少年であったから兄さんの気持ちも考えず、自分の態度を悪いとは思いませんでした。これをはじめて自分で反省された。史記の伯夷伝という本を読むことによって、今までの自分は大きな過ちを犯していると言うことに気づかれたのであります。光圀公の偉大さは、これに気づいて志を立て、それを一生貫き通された事であります。そのときから学問を始めて、正しい人間の在り方、つまり人倫ということをどこまでも追求しよう。こういう学問を生涯続けられるのであります。これはなかなか容易な事ではないはずですが、さらに義公は史記をよく読み直して、こういう書物があったからこそ私は、これだけの自覚をすることが出来た。この史記は私にとって大変にありがたい書物である。しかしそういうものは今まで日本に出来ていたかというと残念ながら出来ていない。中国には史記あり漢書があり宋書がある。日本には古事記・日本書紀・続日本紀など朝廷の編纂した歴史はあるけれどもすべて編年体で、しかも途中でそれは絶えてしまっている。十世紀ころから歴史の編纂は行われなくなった。行われないばかりでなく、資料はどんどん兵火にあって焼けてしまい、いま残っているのは非常に少ない。こういうことを考えて、日本の史記を造るということには、非常な困難があることを知りながら、決意されたと思います。これは義公薨後五十年(寛延三年に河合正修編)に『史館旧話』という書物が編集されています。それに次のように記されています。
    義公様御十八歳之時(正保二年)伯夷伝を御読み被遊、深く御心に感じさせ給御事有て、慨然として本朝の史記御編述之事を思ひ立、神武天皇以下人皇百代二千余年の君臣の得失、士庶の賢否、悉御判断被遊、日本史を御作り可被遊との思召を卜幽・了的に御相談被遊候処、両人此儀ハ本朝第一の美事、権現様以来御当代之御規模に御座候.得共、本朝にハ七史の外、可考拠書籍も無之、当時学者共の内にも史筆の才無御座候間、上の御威勢にても日本の史記御成就の事、無覚束被存候由申上候得共、一向に御志を被寄、諸記録を御集、年代、事蹟、人物等に至るまで細かに御付札被遊、御部屋にて御近習名々御書抜せ被遊、御平生ノ日本史成就の御工夫被遊候由ニ御座候粛公様御序。田中理介開彰考館記。中島平治口伝。安積老牛口話。
卜幽・了的というのは頼房公の時に召し抱えられた儒者、人見卜幽・辻了的であります。両人は水戸藩最初の儒者であります。当代は家光のこと、御規模というのは、その時代の幕府の体勢を言う意味と思われます。七史は古事記を含めた六国史のこと。お部屋とは、当時はまだ部屋住でありますから小石川の本邸には住んておられない、駒込の別邸です。今の農学部の辺りにあったのです。
註に見える肅公様御序と言うのは、大日本史の序のことで、大井松隣が代作したものであります。それは義公の薨後に作られたものでありますが、後に述べる開彰考舘記や中島平治、安積老牛の話によってわかります。
 ことに十八才の時に修史の志を持ったということは、元禄八年十月二十九日日付の遣迎院応空に宛てた手紙で、義公自身が書いておられます。
    下官十八才の時分より少々書物を読み聞き申し候その時分より存じ寄り候は、本朝に六部の国史古来これあり候へどもみなみな編 集の体にて史記の体にて書き申し候書無之候 
編年体のものはあるけれども、紀伝体は無い。と言っておられます。紀伝体というのは、史記・漢書その他少し違いはありますが、本紀、列伝という項目で記した史書であります。大日本史では一番先に「本紀」、これは天皇ご一代ごとの御事蹟(この中では年代順になっています)「列伝」といいますのは、后妃伝、皇子伝、皇女伝、それから臣下の伝記、となりまして、二千五百人ほどの伝記をならべております。ただこれは分類がありまして、王臣の他に将軍伝、将軍家族伝から学者・文人の伝、或いは叛臣伝・逆臣伝、それに諸蕃伝という外国の歴史もあります。この分類は義公が亡くなった後、安積澹泊などが分類して行きます。そういう伝記、それから「志」というのは史記では「書」といっております。これは古代から後世までの時代を貫いた文化史、例えば神道の歴史、国郡志、職官志、兵事志、仏事志などの十項目に分かれます。最後の「表」というのは、いわば年表のようなもので、例えば太政大臣にはどういう人がなって何年に罷めたか、検非違使は誰が何年から何年までなって誰に変わったか。というようなものです。史記の方ですと、このほかに「世家」というがあって孔子世家というように、特別大きな家を入れてありますが、大日本史はこれは除きました。こういうふうな体裁のものは古来日本にはなかつた。中国においては、非常に古い時代から編年体よりもこの紀伝体のほうが盛んであったのに日本においてはなかった、これは非常に残念な事です。大事なのは紀伝体である。私が非常に人倫-人の道を深く考えるようになったのは、紀伝体のお陰です。こういう訳で、日本の史記を作ろうというのが義公の修史の出発点であります。
 次に前に述べました粛公の御序は義公没後十五年目に書かれた大日本史序、実際は総裁の大井松隣が書いたものですが、文章も立派であり内容も吟味したものであります。綱条公をはじめ多くの学者がいろいろ検討して作った文章であります。この中に、「載籍有らずんば虞夏の文得て見るべからず」(書籍があればこそ堯舜の治績がわかる)これは史記の中にある詞なのです。史記の中で義公が非常に感銘されたと思われる第二の点は、古来歴史の書物があったから昔の時代の政治の善し悪しが良く分かる。またその歴史の中にはっきりと書いてある。どういう人物がいてどういう事をしたかが書いてある。これがあるために歴史は人間にとって欠くことの出来ない大事なものである。第三に、もうひとつ史記の中には、伯夷叔斉が兄弟譲りあったあと、ともに家出をしてしまったが、山の中で偶然にその兄弟は出会います。そしてこれから一緒に住もうと、周の文王を慕って出掛けます。ところが行ってみると文王は亡くなっていて、子供の武王は親の葬式も出さない内に兵隊を集めて殷の紂王を討伐しようとしている。これを見て伯夷叔斉はわたしはこういうところへ来るつもりでは無かった。また紂王はいくら暴君であっても武王にとっては主君である。これを討つのは臣たるもののすることではないと、諌めて止めますが武王はついに紂王を殺して新王朝を立ててしまいます。この様子を見て二人は山に入り蕨を食べて餓死したのであります。この伯夷叔斉の革命否定の事蹟がどうして大事な事として伝わったか、それも歴史書のお陰である。ことに孔子が、伯夷叔斉は立派な人だ、「仁を求めて仁を得たり」として讃えて居ます。孔子がこのような文章を残して居る故に後世に伝わり、義公という方を世に顕したのであります。義公ほど、これに深く影響された方は外に無いのではないでしょうか史記によって得るところは、一つは家の問題であります。第二は歴史の価値、第三は、その中に示された処の君臣の大義ということ、革命はこれを破るものであるから君臣の関係というものは絶対でなければならない、こういうことを義公は深く考えられたに相違ない。これは大日本史の序文にも見えますし、後世ずっと言い伝えられて行きます。後世ばかりでなく、義公の行動に現れて居ります。

     二、修史事業の開始と彰考舘
  ところで、修史の志を立てられた義公は何時から事業を始められたか、暫く本を読んで勉強されていたようにも書かれていますが実際はそうではなく、もう直ぐに史料蒐集を始めておられます。それは人見卜幽が京都の人でありましたが、京都へ帰りたいと言うので、卜幽に京都には沢山の本が公家の家にあるから、いい本を持っている人を探し、借りるなりして写してほしいと頼みました。卜幽は早速それに応えて、冷泉為景に義公の志を伝えたところ、全面的な協力を得られることになったのであります。こうして翌年から史料の蒐集を始めています。しかし借りた書物の中には、どうも完全ではない、一部分が欠けている処もあることに気付いて、その欠けている部分を探す事を卜幽に命じます。そして各地・各家にある書物を集めてその欠を補うことを始められました。史料の蒐集と吟味・復元を始められました。それから約十二年、明暦三年大体基本的な史料が集まったということで、編纂所を作って編集を始めたのであります。これについては栗山潜鋒の「史館事跡」(原漢文・彰考舘蔵)に次のように見えます。
    明暦三年丁酉二月二十七日駒込御茶屋に於て事始有り。後火事小屋御殿に移る。文庫、其の傍に在り。寛文十二年壬子迄此に勤む。御徒目付武井九太夫一人付切。万事之を司る。館奴二人之に付く、儒生衆三番勤也。菓子酒麺類交々之を賜はる。辰の半より未の刻に至る。
    此の時海野外記・蔭山造酒之介、佐藤彦三郎、藤井紋太夫御書物奉行たり。御用の時は則ち九并館人駒込に在る者立会て之を出納す。
 三番勤というのは三日に一日出仕すればよい、ということですが、歴史の編纂というものは、史料をじっくりと読み、慎重に考えて行かなければならない。それで勤務は午前九時半から午後二時・三時迄とし、その他は自宅にいて、ゆっくりと考える時間を取っていたのであります。義公三十才の時です。
 その編集の状態は、はっきりとは分かっていません。たまたま明暦三年以後、丁度同じころ江戸で林家が幕府の命令で日本の歴史を編纂しています。義公が史記の伯夷伝を読んだころ、林羅山が「本朝編年史」という日本の歴史を書いています。ところが平安時代の半ばころ、六国史の最後までは書けたけれども、とてもこれからは書けない。と言うことで中絶してしまいます。それは結局、史料がなかったからです。しかも明暦三年江戸の火事があります。其の火事で林羅山の集めた書物はほとんど焼けてしまい、羅山は絶望の余り亡くなりました。そこで寛文四年に幕府は林鵞峰にそのあとを書くように命じました。これが「本朝通鑑」です。寛文十年には後陽成天皇まで書き終わりました。義公はそれを見ておられます。林鵞峰とは何回も会っておられ、歴史上のいろいろな問題点を話あっておられます。そういう林家とのやりとりの記録が残っております。これを見ますと、水戸家の日本の史記(まだ大日本史とは言いません)は、寛文十一年には、桓武天皇まで二十六冊ができたというように書かれています。
やがて寛文十二年に史館を小石川の本邸に移して彰考舘と命名します。義公四十五才の時です。
    小石川靖伯世子旧殿寛文十二年壬子春、之に移る。彰考舘と改め、始めて御額を掲ぐ。儒生衆三番、次座隔日、夕飯を賜ひ、酒有り。間々濃茶を賜ふ。夏月浴湯。四月朔より七月晦に至る。昼酒菓子を賜ひ、夕飯常の如し。此の時より九太夫免ぜられ、館坊主二人寺島三悦、瀬尾宗圓館丁四人之を附す。目夫日日交々之を勤む。文庫は館の傍に有り。富田玄悦宅、館門の左に在り。暫出納御用を勤む。
      此の時より御書物は儒生衆支配たり。藤井氏入りて史館に勤むるに及び、再び儒生を加へ暫らく之を司る。館中に於て毎月六箇日、諸儒をして経書を講ぜしめ、諸士聴聞す。(同前)
彰考舘とは彰往考来(古を明らかにして未来を考える)の事で、これで義公の修史の目標がはっきりいたします。
また田中犀が作った、「彰考舘を開くの記」には次のように記されています。
    夫れ史は治乱を記し善悪を述べ、もって勧懲の典に備ふる所以の者なり。故に異朝に在りては、則ち班馬(班固と司馬遷、漢書と史記の著者)以来、作者世に乏しからず。世縄々として歴史成堆す。本邦は上古より中葉に及び、猶正史実録有り、而るに昌泰(醍醐天皇の初の年号、西暦八九八-九〇〇)以 後、寥々として聞く無し。以って憾むべし焉。我が相公嘗て之を嘆じたまひ、館を別荘に構へ、諸儒臣に命じ、広く載籍を稽へ、上は神武より下は近世にいたるまで、紀を作り傳を立て、班馬の遺風に倣ひ、以て倭史を撰すること茲 に年あり。其の治乱を記し善悪を陳べ、もって勧懲の典に備へんと欲するの志以って見るべし焉。是の歳彌其の志を遂げ、其の功を成さんと欲し、史館を本邸に移し、自ら館名を擇んで彰考と曰ひ、且 つ自ら之を筆して扁額と為したまふ。傳・常・矩・帆・仙・効・順・隆・犀及び筆生十許輩をして、間日館に入り、以って其の事を勤めしめ、加ふるに警辞を以ってそう諍論を止め、囂談を禁じ、書策を敬し、怠惰を起さしむ。又屋形を守る者有り、館事を監する者有り、使令に供する者有り、厮養に役する者有り、書庫を前にして以て出納に便し、湯室を後にして以て沐浴を設け、行厨を運らして以て飲食を賜ふ。一月に六日別に講筵を設け、群臣をして貴賎となく来聴せしむ。厳にして恵あり、養ひて且つ教ふと謂ふべし。相公の如きは則ち君師の道其れ庶幾からんか。嗚呼史を修むる者勤めて懈なければ則ち以て編を終ふべく、講を聴く者信じて倦まざれば則ち以て徳に入るべし。然らば則ち勧懲の典世に伝へて相公の名声無窮に及び、聖賢の道一家に溢れて群臣の風俗以て化すべきも亦可ならずや。是に於て相公傳等に命じ、吉日を涓(えら)びて新館を開き、盛饌を賜へり。曰はく、日已に吉なり、館も亦新なり。汝等各飲燕歓を盡し、以て操觚の初有るを賀し、以て絶筆の終有るを祝へと。僉(みな)拝謝舞蹈して曰く、詩に曰く、既に酔ふに酒を以てし、既に飽くに徳を以てすとは吾儕の謂か、書に曰く、山為るや九仭の功を一簣に虧くと、今自の後、彌精力を謁し、其の功を虧くなければ、則ち今日開館の雅会は、他年竟宴の清遊たるは必せりと。時に寛文壬子仲夏初三日、備員史臣田犀再拝稽首敬んで記す(原漢文) (彰考舘蔵文苑雑纂第二十巻)

       ◇寛文壬子・・寛文十二年五月三日
       ◇田犀・・田中理介犀、号は止丘
       ◇傳・・人見又左衛門傳、号懋斎、人見卜幽の甥で養子 
       ◇常・・吉弘左介元常、号磬斎
       ◇矩・・板垣宗憺矩(幼名中村真庵・医師)
       ◇帆・・中村信八顧言、号篁渓、春帆と号した。
       ◇仙・・岡部忠平以直、初名道仙。
       ◇效・・松田效、如閑と号す。
       ◇順・・小宅生順、号処斎。
       ◇隆・・辻好庵、隆、辻了的の甥で養子。
文中に『加ふるに警辞を以て』とありますが、「史館警」と言うのを作りました。
        史館警
    一、館に會する者は辰の半に入り未の刻に退くべし。
    一、書策は謹んで汚壊紛失す可からず。
    一、囂談諍論宜しく最も之を戒むべし。
    一、文を論じ事を考ふるには各當に力を竭し、若し他の駁する所あらば則ち虚心之を議し獨見を執る勿れ。
    一、席に在りて怠惰放肆する勿れ。
                    (「年山紀聞」巻五、原漢文)
 このようにして、彰考舘は開かれたのでありますが、ここに初めてこれまでの修史事業に完全な環境が整ったのであります。目標が明らかになったと言えます。

     三、史臣の採用 
 このころから義公は学者をどんどん採用して行かれます。その学者も、これまでの人々は林家の関係の学者、幕府の学問の影響を受けた学者でありましたが、このころから採用する学者は、林家の学問と関係のない人が多く集まります。佐々宗淳は元は武士でありましたが、僧になって京都で修行していました。しかしまた、仏教を批判して浪人になって江戸に来ていました。その評判を聴いて義公は水戸藩に呼ばれたのであります。そして元禄十一年に亡くなるまで非常な活躍を致します。京都の公家の家々は勿論、縦横無尽に全国に資料の収集をして九州の南の果てまで行きました。湊川の楠公の墓も佐々宗淳が建てました。その他に山崎闇斎の弟子である鵜飼錬斎、この人もまた明快な思想をもった人です。面白いことは、義公は十二・三歳の子供で、これは将来有望であると言うようなものを発見しては、藩から二人扶持を与えてこれらの学者の弟子につけてやる。やがて二十才になった頃に藩士にして彰考舘に採用致しました。例を挙げますと大串雪蘭などは京都の町人の子供で、十三才の時に江戸に出て勉強していました。それを聞いて義公が人見傳の門人にしました。この雪蘭は後に彰考舘総裁になります。彼は彰考舘文庫の蔵書の分類を致しました。和書は子丑寅の十二支で分類し、漢書は甲乙丙丁の十干で別けました。日本の図書館分類学の草分けと言える事を致しております。その他に打越樸斎と言う人は、元は米川という姓ですが、十四才のとき義公に認められて三宅観瀾に預けられます。やがて打越家に養子に入り後に総裁になります。延宝四年二月に、それまで彰考舘の館員の儒者は頭を剃ったり、髪をのばしたりしていて刀も差していません。武士と違う姿をしていました。その為自分は武士と違うという意識ももっていました。そこで義公(四十九才)は儒者を廃止して館員の身分・待遇を変更し武士として藩士に列し、束髪・改名を命じ、藩に対する責任を持たせました。これを断行したのは水戸藩だけであります。

     四、易稿重修 
  やがて構想の転換をする時期になります。天和二年であります。義公が水戸へ帰られて、それまでに出来た後醍醐天皇迄の本紀の原稿に目を通されますと、どうも気に入らない事がある。ちょうど其のころ学者の中でもいろいろ問題が起こって来ていました。
史館中より藤井紋太夫に宛てた改革意見の具申(天和三年十一月十四日)(往復書案二〇五)に次のようなことが見えています。
    先年より出来候紀伝只今細々吟味仕候得者、重複脱略等相見へ、取捨不宜御座候。其上只今迄は編集之儀并史館之雑事等迄何も寄合致相談候故、各辞譲仕、一決難成はか取不申儀も有之、編集之隙費へ申候。依之何も相談仕候ハ誰ニても壱人紀伝之始終をとくと致合点、何も相談之上を委細吟味仕、其壱人より面々へ申聞手廻はか取申候様ニ専致、総裁史館之諸事引請、御前又ハ御自分様迄相伺申儀も埓明ケ申候様ニ仕度奉存候間、史館之内にて総裁仕候者壱人被仰付被下候様ニ何も奉願候

                           史館中
       癸亥十一月十四日
        藤井紋太夫様
要するにこれまでの原稿に重複脱落があって不統一なのは、まとめ役が無かった為だから総裁を一人決めてほしい、ということであります。これがきっかけになって、義公は今までの原稿を全て廃棄して、(これを旧稿本という)初めから書き直させます。これを『易稿重修』といいます。その要点は次のような事でした。
 一、時代と範囲をはっきりとする。始まりは神武天皇から終わりは後小松天皇で打ち切る。
  一、文章の中に出典を割り註にして明記する。これは後世、歴史を考える人がなぜ大日本史はこう書いているのか、ということがわかるようにということであります。つまり研究の過程を後世に明らかにするためであります。
 一、史料の蒐集が足らない。実際は前から集めていますけれども、もっと徹底して行わなければならない。このあと九州から東北の果てまで史料採集を行うことになります。そしてこの年十一月二十七日人見伝を彰考舘総裁に任命されます。義公五十六歳の時であります。
この易稿重修、なお三大特筆(すなわち神功皇后を皇妃伝に、大友皇子の即位を認め、南朝を正統としたこと)が大体決まったのが、この頃であります。重修の最後の仕上げとして、史館の造営をされます。
    貞享元年甲子五月七日邸中天神坂上ニ史館御造営被遊、始而文昌星を御安置被遊候、御額并館警御掲被遊候、義公様史館へ被為成御意被遊候は紀伝編輯の面々、日々之気詰を思召、御屋敷内にて第一好景之地を御目論、此処ニ史館を御移し被遊候。西富士之絶勝を仰、南大城之廓廓を望、館邸の楼台、後楽園の緑樹、聊面々の労役を可慰との思召之由、難有上意ニて史館一同ニ猶更精力を尽し相勤申候 (史館旧話)
現在では天神坂というのがはっきりしませんが、得仁堂があるところが一番高いようです。次に掲げる義公の詩の「乾隅構館」の文字からもこの辺りだと思います。文昌星というのは現在、徳川博物館にあり、時々展示されます。鬼のような顔をした中国の学問の神様です。義公が七歳の時、将軍家光に初めて謁見され、そのときに将軍から戴かれたものです。
この日に祝宴を開いた時に館員たちが作った詩歌の内いくつかを掲げます。史臣たちの意気込みが端的に表現されています。

       新館酌史       常山(義公)
  乾隅構館祝堅牢 考古彰今厳貶褒 集会史臣文字飲 酌来既酔薫狐糟
       又          良峯宗淳(佐々介三郎号は十竹)
  維斯新館卜高岡 索隠剖微記百王 盛挙非唯彰治乱 煥乎文彩照扶桑
       又          鵜館真昌(金平、号は錬斎)
  華館鼎新修史編 闡幽微顕二千年 至公参酌百家記 姦賊難逃直筆権
       又          林 正香(文衛門)
  めくみあれは人のこころもあらたなるうてなに見るやいにしへの文
     (彰考舘蔵「文苑雑纂」三十二、二十六名の詩歌あり)

 処遇も褒賞も行き届いていたようで、他の藩士から見れば羨ましいものでありました。しかし反面、責任も重大で、義公に代わって修史に携わるわけであります。その文章は後世に大きな影響をもたらします。間違った事は書けない。人を誤らせるような判断をしてはならない。そういう責任が在るから義公は学者を大事にされた。そういう気持がこの彰考舘にあふれ、ほどばしってあの文章になつたのであります。
元禄三年十月十四日義公は藩主を兄頼重の子、綱條公(粛公)に譲られます。

五、西山隠居後の修史
元禄四年二月十一日粛公綱條公は編輯の促進について配慮され次のように定められました。
    史館出勤之儀、已来ハ一ヶ月に六ヶ日之 休暇ヲ立、其餘ハ日々可相勤由、今日被仰渡、則両史館番割相極、一六二七之休暇ニ相定、出番之人半分ツゝ休申筈也、紀伝編述御急ニ付右之通被仰出候(下略)

    (同日)
    史館毎日勤ニ罷成候ニ付、向後史館へ夕飯被下候由、是又今日藤井紋太夫被申渡
                              (江戸史館雑事記)
つまり粛公は義公の老齢を考えて完成を急ぎ、休日を月六日としました。ところがこれに対して、義公は同年十一月十日付で藤井紋太夫に次のような親書を与えられました。
     (前略)然者年来編集の史、致便々出来兼申候付、愚老素志ヲ中将殿御察一刻も早ク出来候様ニと之事ニ而、史臣毎日相勤候様ニと被仰出候由、先達而令承知、感深鏤骨誠可謂体親心乎、然共、大暑大寒之節、其上末久敷事ニ候得者、恐史館衆中不覚恐役して病気なと差出候ハゞ、却而編集之障にも成候半歟、将又当分遂成功候半とて、少成共相違成誤候ハゝ、後世之嘲難逃候間、少々延引ニ成候共成程細密ニ被遂吟味候様ニと存候(中略)遅速之幸不幸者委任天命候。右之趣宜料簡候而、以次被達羽林可給候
これに対して粛公は直ちに同二十日付けで、次のように改め従来通りに月十日の休日としました。
     史館出勤の面々日々罷出候而ハ人々労役病気差出候へハ却而国史編集之障ニも罷成候間、向後ハ一月に十日宛之非番をたて可令勤仕之旨、今日被仰出廿一日より番割替り、一月に十日宛休息候而相勤候、尤被仰渡候、御書付史館ノ床ノ上ニ張置申候
                          (下略)(江戸史館雑事記)
 こうして晩年、隠居されてからも修史を続けられます。そして梅里先生碑に「皇統を正閏し、人心を正す」という大目的を示す言葉を残されたのであります。
また元禄二・三年の頃には修史義例といいまして、凡例を作って人名の扱い方、年号はどのように書くというような指針を作らせました。
 そうして元禄十一年正月二十五日年には江戸にあった彰考舘を水戸に移転する事になります。これはどうしても江戸では西山荘から距離が在り過ぎて往復に日数がかかり、細かいことを指示するにも不便である。と言うことで、現在の水戸第二中学校の所に移します。この時、移転したのは二十八名・江戸に残って編集を続ける者は二十四名でありました。
そして同年三月七日、つまり神武天皇から後小松天皇までの本紀が完成します。義公は大変に喜ばれまして、それぞれにご褒美を与えられます。
この引っ越しました所は水戸城内でありますので、五月七日に開館致しました日に史臣たちは、次のような申し合わせを致します。
     水戸史館ニ而何も申合之趣之扣
     一、勤之刻八ツ(午後二時)ニ罷成候得者相勤候間もすくなく罷成候、さ候ヘハ別而無怠慢様ニ可申合事
     一、御城内ニ而候条、高咄なと無之様ニ仕度事
     一、面々出座次第他之出座を不顧勤ニかゝり候様に仕度事(以下二条略)追而申合候趣
     一、御城内之儀ニ而御番所を通り候義ニ御さ候、御酒被下酔態有之候者不可然候間、面々之敬可有之事ニ候、夫々献酬なとハ不仕様ニ申合候、急度御合之様ニ而者如何ニ御さ候間かたく無用と申ニ而者無之候左様ニ面々互に心かけ候様ニ可仕との申合に而御さ候
また同日、休日を決めております。
     史館年間休日
    正月元日より十日迄、三月上巳、四月十七日御祭礼、五月端午、七月七日、八月朔日、九月九日、十二月二十六日より晦日迄、
    毎月一、四、七、十、十三、十六、十九、二十二、二十五、二十八、
 このようにして休日以外の日は緊張してやろうと申し合わせを致しました。
元禄十三年十二月六日義公は七十三歳でお亡くなりになりました。その最晩年の頃、彰考舘の学者たちは殿様もそう永くはない、本紀は出来たがまだ何年かかるか分からない。これからどうしょうか。「往復書案」を見ますと、佐々宗淳などは非常に悩んでいます。これまでどうりのやり方では、到底終わらない。だからと言って全部完成するまで生きておられるとは思われない。いよいよ最後の方法を考えなければならない。原稿が出来てからも、そのあといろいろと修正をする必要があり、これが時間がかかる、列伝に関しては原稿を書いてそれを見ていただこう。修正と言うことは時間をかけて後でも出来ない事はない。そのような決意を致します。しかし不幸にして佐々宗淳自身が元禄十一年に亡くなります。そのあと残った栗山潜鋒、中村篁渓、安積澹泊などが相談して何とか列伝を急ごうとしました。

     おわりに
 そのようにして列伝は義公没後十五年目に目鼻がつきます。それから後、修正が始まります。ことに志・表がまた時間がかかります。それでも幕末の烈公の頃には編集の作業が非常に進んで、志の大部分が出来て来ます。やがて明治維新で藩が無くなりますが、その後は徳川家が私の事業として続けます。学者としては栗田寛先生等が最後の仕上げをされます。そして明治三十九年についに完成を致しました。三百九十七巻、目録五巻それを十二月二十六日に明治天皇に奉呈し皇后陛下にも奉呈致します。同時に常磐神社にも奉納して奉告のお祭りを致しました。 翌年に明治天皇から大日本史編纂の史料が多く集まっていると聞いている、これは大事な書物だから、決して分散するような事があってはならない。収蔵庫を立てて保存するようにと一万円の御下賜がありました。皇后陛下からも三千円のお下げ渡しがありました。そこで水戸徳川家では、四十年の五月に、この常磐神社の現在の義烈館の敷地の辺りに煉瓦と石で立派な蔵を建てます。四十三年に竣工します。その正面に大理石の額がありました。それには最後の将軍の慶喜公が「彰考舘文庫」と書かれました。この額だけは今でも残っております。館長としては雨谷毅先生、昭和十四年の頃には福田耕二郎先生がなられます。戦況が激しくなって来ますと、福田先生は貴重な書物を出来るだけ梱包して緑ケ岡の本邸に移しました。しかし疎開をした直後の昭和二十年八月一日の夜に、彰考舘文庫は爆撃を受けてしまいました。私も見に参りましたが、全く形が無いほどに燃え切って書物も大部分が燃えてしまっていました。
 これで彰考舘文庫はおしまいかと思われたのですが、圀順公は戦災を免れた尊い書物を保存するため、緑岡へ彰考舘文庫を再建することにされ、昭和二十八年に書庫と閲覧室を造られ今日に至っております。
 以上甚だ不十分でありますが、義公修史の目的と構想の要点だけを申し上げました。

                    (水戸史学会会長)